08.泡沫。もしかすれば逢瀬にも似た。





 この上なく順調に巡礼を終えた二人は、無数の商店が立ち並ぶ街路を歩いていた。視線を斜め上に向ければ、遠方に王城が構えている。王都と呼ばれる城下町の一角を、傾きかけた陽射しが温色で包んでいくところだった。


 多くの人や荷馬車が行き交うこの賑わいは、貧困に喘ぐ国家のほんの上澄みに過ぎない。そうは知っていても、想い人とこうして非日常を歩いているベネッタには浮き立つ気持ちがあった。せめて今だけは、路地裏の暗闇から目を背けていたいと。


 束の間の夢心地を味わう少女の脚は、疲れを覚えることもなくルイスの背中を追っている。


「ベネッタ、まずは服を買おうか。君の美しさは、ただでさえ人目を引いていけないね」


 良いことを思いついたとばかりに、ルイスは急に足を止めて提案した。厚手のコートを羽織っている彼はともかくとして、ベネッタの蒼色の祭服が悪目立ちしているのは否めない事実である。


「えっと、ルイス様。あの──」「ちょうど良さげな仕立て屋があるじゃないか。ほらベネッタ、善は急げだよ」


 ルイスは戸惑うベネッタの手を取り、半ば強引にブティックへと飛び込んだ。往来の一等地に店を構えているだけあって、その店内にはあからさまな高級感が漂っている。


「ルイス様、私、その、困ります」


 ルイスの裾を摘み、ベネッタは小声で異議を申し立てた。彼女の瞳は刺繍細工の施された服飾の美しさに釘付けになり、頭の中では手持ちの少なさを恥じている。場違いな場所から踵を返そうとするベネッタには、「買い与えてもらえるのかもしれない」という発想がごっそり抜け落ちているのだ。


「好きなものを選んでくれて構わないのだけどね。君はきっと、僕に遠慮して値札ばかりを見てしまうことだろうから」


 ルイスは手を招いて、うら若い女の店員を呼びつけた。年齢とは不釣り合いの優雅な装束に身を包んだ彼女も、自慢の商品を推し進めるべく声を掛けるタイミングを見計らっていたようだ。


「お呼びでしょうかお客様」

「あいにく僕は流行というものに疎くてね。こちらの彼女がより魅力的に輝けるように、あなたの知恵と感性を貸してくれないかい?」


 この場にフランシスカがいたならば、ルイスの気障な言い回しに眉をひそめたことだろう。ベネッタは場の空気に流されるままに店の奥へと案内された。状況を飲み込めずに突っ立っていると、裾丈や腰回りを素早く採寸されていく。


「お好きなお色はございますか?」

「紫が、好きです」

「かしこまりました」


 畏まった態度の店員に、緊張の面持ちで答えるベネッタ。


 彼女が想う紫とは、教会堂のステンドグラスから射し込む弱々しい光だ。希望と絶望が綯い交ぜになった淡紫色うすむらさきいろ。日が動くほどに、あるいは雲が流れるたびに、万華鏡のように移ろっていく色彩。真実でもなく、だが決して嘘でもないそれは、神官としての道に迷うベネッタを肯定してくれる光であったのだ。


 ややあってベネッタに着付けられたのは、シルクタフタで編まれたドレスだった。その色味は鮮やかで、教会堂の風景よりも強く紫を主張していたが、銀糸で描かれた紋様が光沢ある生地によく映えている。スカートは膝丈ほどしかないものの、波のようなドレープがいやらしさを感じさせない。また襟元に合わさった黒色のレースが、全体の印象を清楚にまとめ上げていた。


 そして首元には、赤メノウをふんだんにあしらった首飾り。日頃宝飾品を身に着けることのないベネッタに、その重みが不思議な緊張感を与えている。髪は丁寧に結い上げられ、極めつけとばかりに薔薇のブローチで留められた。鏡の中のベネッタは、そこにまるで彼女ではない者を見つけたかのように驚いた表情を浮かべている。


「お気に召されませんか?」


 不安を覗かせる店員に、ベネッタはふるふるとかぶりを振った。不満などあるはずもない。一体どのような魔法を使ったら、こうまで見違えるのかと我ながら驚いているのだ。


「素晴らしいよベネッタ。お嬢さん、これに合う靴も頂けるかな? なるべくヒールの高いものが良い」


 まばらに手を打ちながらルイスが現れると、店員は丁寧な首肯を返して場を離れた。にんまりと笑むルイスを前にして、ベネッタの頬が紅潮していく。


 だが。


 ルイスの絶賛を受けてなお、支払いのことで頭を悩ませる気持ちがベネッタにはあった。それにこのような装いをさせて、彼の言う私用とは果たしてどういった要件なのか。


「さて、僕もそろそろめかさなくてはね」

「あの……訊いてもよろしいでしょうか? ルイス様のご用事というのは、一体」


 ルイスが使った「粧す」という言葉に、ベネッタは少しだけ痛むものを感じた。身分不相応な格好を、ルイスも内心では小馬鹿にしているのかもしれないと不安を覚えたのだ。その痛みが功を奏し、もっと早くに尋ねるべき当然の質問をようやく言葉にさせたわけである。


「これは失礼したよベネッタ。愚かな僕は、君に行き先を告げていなかったね。許してほしい、騙し討ちをするつもりはなかったんだ」


 恭しく頭を下げるルイスが、ベネッタの胸の痛みに気付いた様子はない。彼の仕草は、巡礼のたびに信徒たちに向けた儀礼的なそれとまったく同じものであった。しかしルイスと同様に、ベネッタにもそれに気付いた様子はない。


 ルイスはちらと横目で周囲を窺ってから、ベネッタに耳打ちした。


「これから社交場に出るんだよ。俗に言う仮面舞踏会なんだが、まさか一人では出席できないだろう?」


 社交場、それに仮面舞踏会。まるで異国の言葉のような響きだと、ベネッタは思った。


「実は古くからの友人に誘われてね。彼が君のように美しい女性だったならそれで済んだのだけれど──いや、、それでも良かったのかな」


 現実感など何一つ湧かない目の前の少女に、ルイスは小さな希望をちらつかせた。すると彼の思惑通り、ベネッタは躊躇いながらもその首を小さく横に振ってみせたのだ。


 ──ああベネッタ。こんなに楽しい時間は久しぶりだよ。


 無垢な少女が、焦燥や独占欲を自分へと向けている。その事実は、薫り高い葡萄酒のようにルイスを良い気分にさせた。さらにベネッタの性格ならば、これで貸しを作ったと考えるどころか恩義さえも感じることだろう。


 少なくともルイスはこう考えていた。高貴なドレスであれど、布は布に過ぎないのだ。金貨が心を買う足しになるのならば、こんなに安い買い物はない。


 ルイスは自らも仕立ての良いタキシードを選び、ドレスと共に手早く清算を済ませた。その間にも彼は、狡猾な嗤いを優しげな顔立ちの裏側に沈めることを忘れない。





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