07.巡礼。どうかその思し召しを。
亜熱帯地方に位置する国家では、時として死病が猛威を振るい、時として一つの文化を根絶することもあるという。ヴェルニに古くから伝わる御伽噺の一説にも同様の記述があり、ベネッタは想像の翼を広げてかろうじてその地獄絵図を思い描くことができた。
おそらくフランシスカであれば、細菌や病原体が高温多湿を好み、人々の生命を脅かす原理をつぶさに解説できるのであろう。だがヴェルニの国民にそのような理屈を説いたところで、不信心がゆえにマールスの怒りに触れたのだと一笑に付されるのが目に見えている。
ベネッタの視線の先にはルイスの後ろ姿。さらにその先には簡素な作りの仮設住宅が構えていた。建物の外壁は薄い布地に覆われ、無造作に置かれた土嚢が布地の飛散をどうにか食い止めている。春もまばらとはいえ、寒さを凌ぐにはあまりにも心許ない造りだった。
このような場所で暮らしているのは、主に寒さから肺などの循環器を病んだ者たちである。王都をほんの少し離れるだけで、衣食住を満足に揃えることの出来ない国民たちがごまんといるのだ。
「さぁベネッタ、心の準備はいいかな」
「はい。初めて見るわけでもありませんから」
丁寧なノックに続いてルイスが戸を開けると、神官たちの来訪をありがたがる「おお」という声がどよめいた。だが彼らは次々に、激しく咳き込んでは無数の喘鳴を奏でていく。ベネッタが瞳の動きだけで数えれば、この仮住まいには七名の信徒が身を寄せ合って暮らしているようだった。
その中の一人、目尻に深い皺を刻んだ老婆が、ひゅるひゅると鳴る喉を押さえながら祝詞を唱えた。干天の慈雨の代わりに、その瞳から一筋の涙が流れ落ちる。ルイスは老婆に微笑みかけると、慈しむようにその肩を優しく抱き寄せた。彼女が放つ饐えた悪臭にも構わず、偉大なる主マールスの代行者として。
「あなたがたが今ここに生きておられることを、主マールスも心から喜んでおられることでしょう。この私も同じ気持ちです。わずかばかりの食料と薬ではありますが、本日はこちらにお持ちしました。どうか干天の慈雨あれ。信心深きあなたがたが、強く生きていく道しるべとならんことを」
ルイスが持参した四つの麻袋のうちの一つを床に置くと、各々が競うように中身を奪い合った。屍肉に
死病ではない。決して死病ではないものに、生命を蝕まれ散っていく者たちの姿。ベネッタはそんな彼らの姿を、何の感情も宿さない眼差しで黙って見つめていた。だが彼女は祭服の下で、人知れず短刀をきつく握りしめている。
──ルイス様は、私がおまもりします。
それは昨晩の情事の際だった。ルイスの左脇腹に古い刺し傷を見つけたベネッタは、戸惑いながらも訳を尋ねたのだ。するとルイスは、慈愛に満ちた笑みでこう答えたのである。
「配給の際に、暴徒と化してしまった信徒がいてね。でもねベネッタ、これは遠い遠い昔話だよ」
寝室のオイルランプが隙間風に揺らぎ、ベネッタの感傷を誘った。炎と同じように、主マールスへの信仰も揺らいでいる。ベネッタが傷跡を指先でなぞると、ルイスはくすぐったそうに身を捩らせた。
「さて必要とあらば、告解の儀を執り行いますが」
ルイスの声がベネッタの意識を引き戻し、麻袋に群がる老人たちの意識も彼の元に引き寄せた。端的な言葉で場を仕切り直すルイスの姿は、さすが大神官といったところだ。当然のことだが、ベネッタとは比べ物にならないほどの場数を踏んでいるのである。
幸いにも告解の儀を希望する者はおらず、ベネッタは胸を撫で下ろした。もしも告解を申し出る者がいれば、その先は他ならぬベネッタの役目となるからだ。
恭しく頭を下げて、ベネッタたちはそそくさと仮住まいを後にする。ルイスが担いでいる麻袋の数は残り三つ。つまり今日の巡礼は、少なくともあと三つの集落を訪れて回ることになる。長居は好ましくない。
「うーん。どうだろう、死の匂いがついてしまったかな」
独りごちるように呟くルイスの胸に、ベネッタは顔を埋めた。ほんの数秒、彼の匂いを思いきり肺に溜めて、「大丈夫ですよ」と短く答える。少しだけ疼くものがあったが、表には出さない。
明確な救いもなく繰り返していくだけの茶番に、ベネッタの内側で何かが歪んでいく。教会堂で送る毎日だけでも精一杯なのに、こうして巡礼に出てみればなおのこと、胸の奥の獣が産声を上げようとするのだ。
「──ルイス様」
「なんだい、ベネッタ?」
「いえ、何でもありません」
ルイスの存在に感謝を告げることは、ベネッタにはどうしても憚られた。神官同士が肉体関係を持つことが、不道徳の極みであると知っているからだ。
それは、蓄積された知識としてベネッタを責め立てる。
あるいは、残された信仰心の欠片がベネッタを咎めるのかもしれない。
「滞りなく済んだら、王都で買い物でもしていこうか。それに今日は私用も兼ねていてね」
ルイスの提案に頷くベネッタは、自分でも気付かぬうちに少女の微笑みを浮かべていた。彼女は軽やかな足取りでルイスの背中を追う。
今にも目覚めようとする醜い獣を、静かに眠らせて。
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