06.波紋。ひとしずくの春。





 空高く伸びた尖塔の先から、雪消ゆきげの露が滴り落ちている。セルカレイド教会堂の周囲に広がる白銀の世界の、あちらこちらから懐かしい土色が覗き始めていた。ぱきぱきと鳴る雪解けの音が、教会を訪れる誰しもの耳を楽しませようとする。しかし短い春の訪れを眺めるベネッタの瞳には、未だ厳しい冬空のような険しさが宿っていた。


 政治と宗教の分離。


 可能な限り専門的な用語を避けて、フランシスカはベネッタに説いて聞かせた。彼女が言うには、およそすべての国家において、政治と宗教の財源は異なっているものらしい。


 血税が強いられている独裁色の強い国でさえも、教会的な立場にある組織の資金源は、信徒からの献金や寄付金に限られているとのことだった。


 だがこの宗教国家ヴェルニでは、活動資金が一緒くたに混同されている。つまりは直接的な利益を生み出すことのないベネッタたち神官の存在こそが、この国の貧困の原因そのものになっているのだとフランシスカは指摘したわけだ。


 乾いた氷塊の音が続く。


 書斎にも等しいフランシスカの部屋に足繁く通い、知識を得るたびにベネッタの信仰は揺らぐばかりだった。どうやら世界には、◯◯教と名の付く異教が数多く存在し、また同一宗教の中でも様々な宗派に分かれているらしかった。


 教会にしてもそうだ。ベネッタたちが『教会』と呼び崇めるものは、ひとたびヴェルニの外に出れば『協会』と名を変えて各地に乱立しているという。


 信仰する主神が異なるがゆえの宗教戦争。より豊かな暮らしを得るための領土争い。異国の地で流され続ける赤い血を思うと、ベネッタの胸は苦しく締めつけられた。だが何故だろう。その裏側には確かに、まだ見ぬ世界への憧憬が力強く燃えている。


 次々に芽吹いていく新しい概念が、ベネッタの心の中で暴れ回り熱を持つ。それはさながら蒸気機関車のように、まだ成長の過程にある彼女の躰中を当て所なく駆け巡っていた。


 すべての生命にとって、変容の春。


 富を志す開拓心は、ヴェルニの民が永らく忘れてしまったものだろう。凍てついているわけではなく、最初から持ち合わせていないのかもしれない。


 きっと干天の慈雨を待ち望むばかりでは、振り払うことのできない哀しみがあるのだ。フランシスカの知識を、彼女の言葉をありのままに信じるのならば──。


「アニファラカ。マールス様を信仰する私たちの宗教はね、多くの地域でそう呼ばれているの。つまり私たちは、無自覚のうちにアニファラカ教徒に属しているというわけ」


 フランシスカの、遠くの未来さえ見通しているかのような眼差しを思い出す。時間の流れを閉ざした凍土のように美しい、澄み渡ったあの眼差しを前にすると、ベネッタは曖昧な相槌に縋るほかなかった。


 同じ路地裏から生まれ落ち、一つの魂を分かち合ったとさえ思っていた幼馴染は、いつの間にか叡智の結晶となって教会の教えを拒んでいたのだ。


 否。フランシスカは言う。


「しつこいようだけど勘違いしないでね。私はマールス様を信仰しているの。だからベネッタ、私とあなたは相対的に絶対的に、まったくの別物なんだから」


 泣き出しそうな心でベネッタは思った。教会の検閲を擦り抜けた数多の書物たち。異国の文字を読み解いては世界を識り、フランシスカは一体どのような想いで職務に就いていたのだろうかと。


「ねぇ、ねぇフランシスカ──」


 至聖所に置かれたパイプオルガンが、けたたましく歓喜の音を奏でた。続けざまに、精錬された賛美歌が響く。うねる音の中のどれか一つは、神官フランシスカの喉元から放たれたものに違いない。


「浮かない顔だねベネッタ。どこか具合でも悪いのかい?」


 記憶と現実の狭間を揺蕩うベネッタの耳朶に、ルイスの声がぬるりと潜り込んだ。はっとして我に返ったベネッタは、平然を装って言う。


「いいえルイス様。巡礼の支度は万全です。さぁ参りましょう」


 月に二度の巡礼は、兼ねてからの当番制であった。教会を訪れることの叶わない老人や病人たちの元へ、神官たちの方から赴いて祝詞を授けるのだ。


「──あっ」


 ベネッタは歩みを止めて、もう一度淡い春を瞳に映す。わずかな躊躇いを振り払う代わりに、ほんの少しばかり声を潜めてベネッタは続けた。


「強いて言うなら、そうです、ルイス様のことを考えていました。昨晩のルイス様のことを、ぼんやりと思い返していたのです」


 その頬は桜色に染まり、彼女が失ったばかりの純潔の初々しさを物語っていた。


 雪解け水が、いくつものみおとなってかりそめの川を作り出している。その川を一つ二つと跨ぎ飛び越えて、ベネッタはルイスと共に巡礼の道を急いだ。





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