13.六花。あなたと出会ったこの奇跡に誓う。
「気の抜けた賛美歌」
「え?」
「私も、ううん、今の私なら、あなたみたいに気の抜けた賛美歌を歌ってしまうかも」
フランシスカは扱いに困る書物をベネッタへ突き返すと、彼女から露骨に目を背けた。いつかベネッタがここに書かれている内容を読み解いた時、果たしてどのような反応を見せるのだろうと思考を巡らせる。しかし聡明なフランシスカは、好奇心と裏腹の痛みに瞬時にして気がついてしまった。
──私は置き去り、か。
もしかするとベネッタは、この淫らな物語の登場人物たちと同じ行為を、すでに経験しているのではないか。もちろんその全部ではないにしろ、あの大神官ルイスが、獣じみた欲望をベネッタにぶつけているのだとしたら。
だとしたら、それはなんと悍ましいことか。
神官たちに割り当てられた部屋に窓はない。それは寒さを凌ぐための配慮であり、本を愛するフランシスカにとって喜ばしい環境であった。陽の光は書物の天敵であるから、窓も天窓も不要なのだ。だがそのせいでベネッタの部屋には、こうして穢らわしい匂いが満ちてしまっている。
フランシスカは奥歯を噛み締め、口の中だけで「許さない」と怨嗟の声を転がした。しかし同時にこうも思う。決めつけてはいけない。まだすべては想像の域を出ていないと。
「ねぇベネッタ、ルイス様とはどう?」
ひどく直截的な物言いだった。フランシスカの問いかけに戸惑ったのはベネッタだけではなく、口にしたフランシスカ自身も同じである。
「フラン、それってどういう意味かな? もちろんルイス様は、心から尊敬できる方よ。でも今の聞き方って、ちょっと……ちょっとだけね、誤解しちゃうかな」
「そうかしら、私はそうは思わない。あなたに何か後ろ暗いことでもあるのなら別だけれど」
自らの失言に気付きながらも、フランシスカの語気は強まっていった。いつものフランシスカであれば、迂闊な距離の詰め方などするはずもない。どこまでも回りくどく、あくまでも迂遠に──そういった話の筋運びこそがフランシスカの個性であり、また並外れた知性が可能にさせる話術であった。
「どうしちゃったのフラン。私のことが心配で待っていてくれたとばかり──」「──心配するに決まってるでしょ? いつも
堰き止められなかった。
フランシスカの理性は崩落し、醜い感情が言葉の濁流となって溢れ出る。
「果実が腐ったようなこの匂いは何? その様子じゃ、どうせ気付いていないのでしょうね。ねぇ、余計なお世話だけど言わせてもらうわ。あなたが心配で仕方がないの。それともあなたを心配する権利が、私に無いとでも言うの?」
ベネッタは生まれて初めて、声を荒げるフランシスカの姿を見た。顔を赤らめ、息を切らし、身振り手振りを混じえて詰め寄るフランシスカは必死の形相をしている。
しかしベネッタには分からなかった。一体何が、フランシスカの逆鱗に触れたというのか。知性の欠片もなく取り乱した彼女の姿に、ベネッタは落胆すらも覚えた。
「……フランの心配って、何? 私が堕落すれば、マールス様が悲しむとでも言いたいの?」
ぱん、と乾いた破裂音。
頬を打たれたのだとベネッタが気付くのに、ほんの一秒。
「そうじゃない! 悲しむのはマールス様じゃなくて──」
──悲しむのは、私だ。
だがフランシスカに残った自尊心が、後に続く言葉を挿げ替えた。これ以上の醜態を晒せば、ベネッタの心が離れてしまうのではないかと怯えたのだ。
「ベネッタ、知らないのなら教えてあげるわ。よく聞きなさい。あなたの純潔に、あなたが思うほどの価値はないの」
辛辣な台詞が、ベネッタの呼吸を止めた。はっとして耳を塞ごうとするベネッタだったが、その腕をフランシスカに掴まれる。
「もう一度言いましょうか? あなたの純潔に、あなたが思うほどの価値はない。あなたがルイス様にその無垢を捧げて、いくらかの快楽やぬくもりを得たって、偉大なる主マールス様にとってはね、そんなの知ったことじゃないのよ」
繰り返されたフランシスカの言葉に、ベネッタは完全に言葉を失くした。ルイスとの肉体関係を否定することも忘れて、そのまま途方に暮れる。
ベネッタはかつて、同じことを思ったのだ。
懺悔室の信徒に。愛のない子供を身籠った幼い少女に。
その告解に、こう思ったのだ。
なんだそんなことか、と。
望まれぬ妊娠も、堕胎の告白も、星の数ほどに溢れる悲劇の一つに過ぎない。
奪われた彼女の純潔に、彼女自身が考えているほどの価値は無いのだ、と。
──だとすれば、どうして? 乾ききったこの現実を知っているのなら、フランはどうしてマールス様を信仰できるの?
そう問いかける言葉の代わりに、ぼろぼろと涙が流れ落ちた。それは干天の慈雨などではなく、ただベネッタの深い場所から生まれ続けるもの。なんと名付けて良いのか分からない、やり場のない感情の副産物であった。
そのまま泣き崩れたベネッタを前に、フランシスカは己の未熟さを呪った。こんな最低なやり方でしか、ベネッタに寄り添うことができないのかと。
「……ごめんなさい。ごめんなさいベネッタ」
フランシスカは、気付けば手を伸ばしていた。小刻みに震えるベネッタの肩を、そして頭を抱え込むように抱きすくめる。そしてベネッタの耳元で、「ごめんなさいごめんなさい」と何度も繰り返し呟いた。
「ううん、いいの。ほっぺたは、痛いけど」
「本当にごめんなさいベネッタ。私、頭の中がどうかしちゃって」
激情に身を任せるフランシスカを、ベネッタが初めてその目にしたように。
フランシスカもまた、沸き立つ激情に初めて心を浚われたのだった。
今も溢れ続けるベネッタの大粒の涙を、フランシスカは指先で掬い取る。ルイスよりもずっとずっと深く、彼女を傷付けてしまったことを悔いながら。
やがてベネッタの啜り泣く声も収まり、凪のような静けさが訪れた。このまま口を噤んでいれば、きっと心臓の鼓動さえも感じ取れるだろう。
それでもこのままではいられない。口を開いたのはベネッタだった。彼女はひとしきり鼻を啜ってから、意を決したかのように話し始める。
「あのねフラン……。私はね、きっと変わりたいの。
ベネッタのからだを抱きしめる力を少しも緩めることなく、フランシスカが答える。
「そうね、知ってる。だって、ずいぶんと前から思ってたもの。あなたはね、いつも気の抜けた賛美歌を歌うの」
ベネッタは、抱きしめ返すようにフランシスカの腰に腕を回した。全身で感じるフランシスカのからだは、折れてしまいそうなほどに細く柔らかい。
「えへへ、ばれてたの?」
「うん、ずっと前から」
「そっか。なんだか恥ずかしいね」
「私だって、恥ずかしいところを見せたから一緒」
「そうかも。ねぇフラン、ありがとう」
「それは、何についてかしら」
「んっと。私の帰りを、待っていてくれて」
「お礼を言われることじゃないわ。だって私は」
「私は?」
「だって私は、祈ることしかできないもの」
「……うん」
まるで母親に甘えるかのように、ベネッタはフランシスカのひたいにひたいを合わせた。その瞬間、フランシスカの鼓動が急速に高鳴る。目の前の少女のことが、ただただ愛おしいと心臓が鳴く。
決して友愛ではないその愛情を自覚しながら、フランシスカは今日まで振る舞ってきたつもりだった。だが飼い慣らしていたつもりのこの熱が、こんなにも乱暴で厄介なものだったとは。
ベネッタのくちびるに、くちびるを重ねたいという衝動がある。掛けた眼鏡が邪魔をしなければ、まつ毛さえ触れ合うほどの距離でそれを啄んだかもしれない。
フランシスカは、信心深いアニファラカ教徒だ。いくつもの奇跡が、自らを祝福してくれていると疑ってやまない。
同じ路地裏に生まれ落ち、厳寒の中で一命を取り留めたこと。
他ならぬベネッタに、出会えたこと。
干天の慈雨ならば、とっくに降り注いでいるのだ。
だから。
だから──。
たとえ愛する彼女が、背教の徒であっても。
「祈ったのよ。あなたの帰りがあまりにも遅いものだから、私はあなたの無事をマールス様に祈ったの。この願いを咎めることは、きっと誰にもできない」
「そうだね……。なんだか、いつものフランに戻った?」
「そりゃ戻るわよ。あなたにはお説教したいことがたくさんあるの」
「うーん。それはあんまり聞きたくないかも」
「そういうところ、良くないと思う。いつか盲目になるわ」
盲目なのは、自分の方ではないか。だがそれでも構わないと、フランシスカは自嘲の笑みを浮かべて続けた。
「ベネッタ。あなたと出会ったこの奇跡に誓う。私が、あなたを導くから」
瞬きを繰り返すベネッタの頬に口づけを落として、フランシスカは軽蔑すべき大神官ルイスの顔を頭に浮かべるのだった。
【神官ベネッタは羊を喰い破る。】第一部 Fin.
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