12.

「クソッ、クソッ、クソッ、クソッ……」

 その日、ラークは焦っていた。

 木々がざわめくオークパークを、右へ左へ当て処なく歩く。

 三週間ぶりに訪れる住宅街には、相変わらず高そうな家ばかり並んでいた。家だけじゃない。車も、自転車も、窓辺に飾られた鉢植えさえも。何もかもが高そうだ。忌々しい。この世には生まれた瞬間から片親で、どんなに必死に働こうとも報われない貧乏人がいるというのに。

「あの人どこにいるんだよ……」

 聞き手のいない悪態を吐きながら、不安のあまり爪を噛む。こんなところをうろつき回っていたら、いつイアンに見つかるか分かったものじゃない。

 運命の十六日まであと三日。ラークは休日を利用して、朝からクロウを探していた。イアンに両親を殺され、虎視眈々と復讐の機会を窺っているあのジェフリー・クロウをだ。

 ラークがトーマスから脅迫を受けたのは昨日のこと。彼はこちらの行動を制限する過程でこう言った。〝この街の警察を頼るだけ無駄だ〟と。

 ならばどうすればこの窮地を脱せるか。ラークは一晩考えた。

 そして一つの答えに行き着いたのだ。

 そう、警察が駄目ならBOIに頼ればいいと。

 幸いなことにトーマスが自分を見張っていたという一週間、クロウは一度もラークの前に姿を見せていなかった。一週間どころかここ半年以上、ラークは彼を見ていない。

 かつてはしつこくつきまとい、イアンと距離を置くよう忠告してきたクロウだが、さすがに拒み続けると諦めたのかぱったり姿を見せなくなった。イアンの監視自体諦めたのかとも思ったが、見張られている当人の話では、彼はあのあともこのあたりをうろついているらしい。

 その話が事実だとすれば、クロウはまだオークパークのどこかにいるはず。彼を見つけてトーマスの悪事を暴露すれば、きっと事態は好転するだろう。何せトーマスはクロウの存在も正体も知らないのだから。

 だがラークは肝心な情報を持ち合わせていなかった。つまりクロウがいつもどこに身を隠してイアンを監視しているのかということだ。

 路上に停められている車の中や、近所の家。まずそのあたりを当たってみたが、クロウの姿は見当たらなかった。向こうも不審な行動を繰り返すラークを見たら寄ってくるのではないかと期待したのに、そんな気配もまったくない。

 捜索を始めて三時間。

 昼時が近づき、空腹がラークの焦りと苛立ちを増幅させた。

 半年前までは顔も見たくないほど頻繁に会っていたのに、こういうときに限って見つからないとはどういうことだ。ラークは腹立ちまぎれに、路傍で見つけた木の枝を蹴っ飛ばした――と、そのときだ。

「おい、ラーク」

 背後から近づいてくるエンジン音。ドルッ、ドルッ、ドルッという唸りのようなその音に、ラークは聞き覚えがあった。

 反射的に振り向けば、道の向こうからやってくるのは黒のコーチ。――間違いない。三ヶ月前、ラークをこのシカゴから連れ出してくれたイアンの愛車だ。

「久しぶりだな。こんなところで何してる?」

 運転手側の窓が開き、白髪の老人が顔を出した。しまった、と思ったときにはもう遅い。両足は見えざる手によって地面に縫いつけられ、体からは血の気が引いていく。

「しばらく連絡も寄越さなかったな。忙しくしてたのか?」

 イアンは歩道に突っ立ったラークの傍へ車を寄せ、唸り続けるエンジンを切った。コーチがブルルッと身震いすると、あとは風の音だけが二人の間を流れ始める。

「もう学校は始まったんだろう。どうだ、新しいクラスは?」

「……」

「勉強にはついていけそうか? 体を壊したりしてなかっただろうな?」

「……」

「おい。何とか言ったらどうなんだ」

 窓から顔を出したイアンは当然ながら不審そうで、眉を寄せてラークを見た。口を開けばそのヘーゼル色の瞳にすべて見透かされてしまいそうで、ラークは震えることしかできない。

 ――もし。

 もしも自分がイアンの正体を知ったと気づいたなら、彼はどういう反応をするだろうか? 彼がジョバンニ・ヴォルジアンという名前を捨て、アメリカ人として生きているのはかつての仲間の報復を避けるためだ。

 だとしたら口封じのために自分を殺す?

 有り得ない話じゃない。マリアの話が事実なら彼は元殺し屋で、非力な半端者の息の根を止めることなど、赤子の手を拈るようなものだろうから。

「……顔色が悪いな。どうかしたのか?」

「……」

「この方角は儂の家とは反対だが。それともこのあたりに友達でもできたか?」

 限界だった。このままでは気づかれる。三週間も彼から隠れていた理由。

 知られたら一巻の終わりだ。逃げなければ――彼からも、トーマスからも。

「おい、ラーク。おまえ――」

「――何でもない。何でもないから、もう俺に構わないでくれ!」

 叫ぶと同時にラークは駆け出した。相手は車に乗っているのだ。こんなことをしたって無意味だと分かっている。

 それでも走り出さずにはいられなかった。今は一フィートでもいいから彼から離れたい。夢中で走った。途中で帽子が風に煽られ、転げ落ちたことにも気づかずに。

 そうしてどれくらいの距離を走っただろうか。

 振り向くと、イアンは追ってきていなかった。

 結局クロウを見つけることもできず、途方に暮れて帰路に就く。翌日もオークパークへ行く勇気はなかった。だってまたイアンに見つかったら、もう誤魔化せる自信がなかったから。

 日曜は失意の淵で頭を抱えて過ごし、月曜を迎えた。トーマスが金を受け取りにくるまであと二十四時間もない。

 休みの間に手持ちの財産を掻き集めてみたが、五〇ドルにもならなかった。こうなるともう、頼みの綱は一つしかない。

「――ラーク、どういうことなの。授業中にこんな手紙投げて寄越したりして」

 学校での昼休み。教室でマリアが来るのを待ち侘びていたラークは、背後から聞こえた声に大層胸を撫で下ろした。

 机に腰を下ろしたまま振り向けば、そこにはくしゃくしゃになったノートの切れ端を持ったマリアがいる。白い丸襟がよく映えるワンピースを着た彼女は、今日も妖精みたいだった。細い眉が不機嫌そうに吊り上がってさえいなければ。

「来てくれて良かった、マリア」

「おかげで私はサンドイッチを一つしか食べられてないんだけど。話なら食堂でもできるでしょ? なんでわざわざこんなところに呼び出すの?」

「教室に人がいなくなるこの時間しかチャンスがなかったからだよ。マリア、君に聞いてもらいたいことがある」

 昼食を食べ損ねてムッとしていたマリアだったが、ラークが弁解すると何故か表情がやわらいだ。

 と言うより何か期待するような目でこちらを見ると、足取りも軽く隣の机に腰かける。……もしかするとこれから愛の告白でも始まると思っているのだろうか。だとしたら申し訳ないが、今のラークには猶予がない。

「いいわよ。帰りに何か奢ってくれるなら話を聞いてあげる」

「ああ、別にいいけど……この話を聞いても君が放課後に寄り道したいなんて言い出すとは思えないな」

「それは聞いてみなくちゃ分からないわ。話してごらんなさいよ」

 白い顎を上げ、自信たっぷりにマリアが言うので、ラークは迷いながらもトーマスとの一件を話し出した。するとマリアの表情はみるみる驚きに彩られ、余裕を失い、やがて混乱と恐怖に染まっていく。

「――何なのよそれ。つまりあなたはお父さんに金を用意させろって言ってるの?」

「そうじゃない。確かに君の家は金持ちだがそれ以前に、お父さんは検察官だろ? だったら何とかトーマスを逮捕できるんじゃないかと思って……」

「あのね、証拠もないのに逮捕なんかできるわけないでしょ。あなたの他にそのトーマスって男の話を聞いてた人がいるなら別だけど、うちのお父さんは怪傑ゾロじゃないのよ。そいつがもし本当に暴力に訴えてくるような相手なら、警察の力も借りないとどうにもならない」

「だがこの街の警察がマフィア絡みの話に手を貸してくれると思うか? クロウさんも見つからないし、もう君しか頼れる人がいないんだよ」

「私じゃなくてでしょ。まったく何てことなの……」

 机に腰かけるのをやめ、改めて椅子に座ったマリアは顔色を失っていた。白い指先は小さく震え、宙空をさまよう視線も焦点が合っていない。

 無理もなかった。何せこのままラークが金を払えなければ、彼女は家族諸共殺されるかもしれないのだから。

 ふと壁に掲げられた時計を見れば、昼休みの終わりが刻一刻と近づいていた。

 あと数分もすれば昼食を取り終えた生徒たちが教室へ戻ってくる。そうなればもう二度と、マリアとこの件について話し合うチャンスは得られないだろう。

 学校の中だろうと外だろうと、マリアと二人きりで話しているのがバレたらトーマスに警戒される。あの男ならマリアの父親の職業まできっと調べ尽くしているはずだ。

 タイムリミットまであと十一時間。

 ラークがどうすることもできず座り込んでいると、唐突にマリアが席を立った。

「……マリア? どこ行くんだ?」

「教員室。先生に言って電話を借りるわ」

「そんなもの借りてどうする?」

「具合が悪いから早退するの。運転手に迎えにきてもらわないと」

「おい、自分だけ逃げるのか?」

「人聞きが悪いわね。そもそもこれはあなたが招いた問題でしょ? 私は巻き込まれた被害者よ。だけど――」

 直後、ふわりと花の匂いが鼻孔をくすぐり、時間が止まったような気がした。

 やわらかなマリアの唇がラークのそれにそっと触れる。その瞬間がラークにはほんの一刹那のようにも、永遠のようにも感じられた。

 やがて互いの唇が離れても、マリアの大きな瞳が目の前にある。彼女は濡れた青色の中に不安を湛えながら、しかし微かに笑ってみせた。

「あなたは私が守るわ、ラーク」

「マリア」

「私に考えがあるの。――任せて」

 囁くようにそう言ったのを最後に、マリアは身を翻した。妖精の残り香が遠ざかり、こんなときなのにラークは胸が切なくなる。

 とっさに呼び止めようと思った。けれど彼女が教室のドアへ向かうと同時に、食事を終えた生徒たちが流れ込んでくる。

 その人混みに紛れてマリアは消えた。

 去り際にこちらを振り向き、微笑んだ彼女の顔が瞼の裏に焼きついている。

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