4.

 ここでいい、と運転手に告げて、市街地から乗りつけてきたタクシーを降りた。

 オークパーク。数日前に訪れたときと同じ肘当てつきの上着にキャスケット帽といういでたちで、ラークはとある民家へ向かう。

 草木に埋もれるように佇む、白い外壁の一軒家。玄関へと伸びる階段を上がり、デッキで一度深呼吸すると、思い切ってベルを鳴らした。

「……どなた?」

 いつかと同じ無愛想な声がする。ラークはちょっとばつが悪いのを感じながら「俺だよ」と短く告げた。

 すると静かにドアが開き、あの気難しそうな老人が顔を出す。老人は名をイアン・マデリンというらしかった。先日強盗ラークを撃退した身のこなしはとても老人とは思えないが、聞けばもうすぐ七十二歳になるらしい。

「……またおまえか。今度は何しに来た?」

「金を返しに来た」

 とやはり短く答え、ラークは懐に忍ばせた封筒を軽く見せた。それを見たイアンは物言いたげに眉を寄せたが、言葉の代わりにため息を吐くや「入れ」と踵を返す。

 上品ながらも過美でない調度品が並ぶその家は、ちょっとした大家族でも優に暮らせそうなほど大きかった。が、何でも住んでいるのはイアン一人だけらしい。

 「家族は?」と尋ねても答えが返らなかったので、かつて結婚していたのかどうかも定かでなかった。見たところ指輪はしていないようだから、ずっと一人で生きてきたのかもしれない。

 イアンがラークを通したのは広々としたリビングだった。四人がけのテーブルの後ろには大開口の窓があり、眩しいくらいに陽の光が射し込んでくる。

 奥にあるキッチンへ向かいながら、イアンはそのテーブルを顎で示した。座っていろ、という意味らしい。ラークは若干の居心地の悪さを感じながらも、陽だまりの中でぬくまった飴色の椅子に腰かけた。

「またここへ姿を見せたということは、例の何とかファミリーとかいう連中との話はついたようだな。まあ、これはおまえが幽霊でなければの話だが」

「自分は霊能力者サイキックなんかじゃないって、あんたこの前そう言ってたろ。おかげさまで生きてるよ。ダチの車は取られたけど……」

「そうか。まあ、だがあんなことをしでかして命まで取られなかったのは奇跡だと思うべきだな。どうだ、一生分の運を使い果たした気分は?」

「最高だよ。ついでに寿命も十年は縮んだことだしな」

 ため息混じりに言いながら、取り出した封筒をテーブルに置く。その封筒にはラークがこれまで手にした中で最も重い札束が入っていた。

 本当は喉から手が出るほどこの金がほしい。けれどラークがそうすることを選ばなかったのは、これがイアンの金だからだ。

 ラークがコロシモファミリーに追われてこの家へ駆け込んだあの日、事情を聞いたイアンは呆れながらも金を都合してくれた。彼は二〇〇〇ドルなんて大金を当たり前のように持っていて、家の金庫から出してきたそれを丸ごとのだ。

 どうして彼がそんな真似をするのか、ラークにはさっぱり見当もつかなかったし、必要なのは六〇〇ドルだけだと言ってもイアンは「いいから持ってけ」と押しつけた。そのまま追い立てられるようにして家を出たラークは仕方なく市街地へ引き返し、コロシモファミリーに無事一〇〇〇ドルを支払ったのだった。

 たった今テーブルに上がっている封筒の中身は残りの一四〇〇ドルだ。イアンは数日前の別れ際「余った金は好きに使え」と言ってくれたけど、他人の金で気兼ねなく豪遊できるほどラークはできた人間ではなかった。

 それでどうすべきか考えあぐねた末に、こうして本人へ返しに来たのだ。問題のイアン老人は無愛想なしかめっ面でキッチンから戻ると、コーヒー入りの白いカップをラークの前に差し出した。

「……死んだ友達とやらの葬儀は?」

「済んだよ。ファミリーの報復を怖がって、ほとんど誰も来なかったけど」

「だが金は払っただろう?」

「ああ。だから特に問題もなく済んだものの、牧師はお疲れ気味だったよ。シカゴがマフィアの街になってから、毎日が葬式みたいなもんだからな」

 実際この三、四年の間にラークが参列した葬儀は一度や二度じゃない。共に羽目を外した仲間の中にはマフィアの逆鱗に触れて殺された者や、彼らの抗争の巻き添えになった者もいた。

 そうした不幸から市民を守ってくれるはずの警察は、今やすっかり骨抜きにされて役に立たない。警察どころか市議会議員までマフィアに買収され、彼らが何をしでかそうが見て見ぬふりだ。

 だからラークもジョーの死について警察に訴えることはしなかった。いくら生前の彼が善人とは言い難かったとは言え、死者の尊厳をこれ以上踏みにじられたくはなかったから。

 暗い気持ちでそんなことを考えている間に、イアンが向かいの席へ座る。彼は生まれたてのイエス・キリストみたいに神々しい陽光ひかりを浴びた封筒を手に取ると、無造作に札束を引っこ抜いた。

 内訳は一〇ドル札が四十枚と五〇ドル札が二十枚の計六十枚。イアンは手の中でざっとそれを確認すると、再び札束を封筒に戻し、何を思ったかラークの方へ投げて寄越した。

「これはおまえにやると言ったはずだ。例の金を工面するために、友人知人からも借金をしたと言ってたろう。その返済に充てればいい」

「それくらいは自分で働いて返すよ。できればあんたに借りた金も返せたらとは思ってるけど……」

「おまえは若いくせに耳が悪いようだな。儂はこれをおまえにと言ったんだ。貸したわけじゃないんだから返さなくていい」

「そういうわけにもいかないだろ。そもそもあんたはなんで見ず知らずの俺にあんな大金を寄越したんだ?」

「おまえが言ったんだろう、金が要ると。マフィアの酒なんぞに手を出して荒稼ぎしようとしたのも、他に大金が必要な理由があったからじゃないのか?」

 ずばり核心を言い当てられて、ラークは驚くというよりショックを受けた。今回の件ですっかり懲りて、諦めようと深く深く埋めたはずの理由を掘り起こされた胸が痛む。

「……学校に行きたかったんだよ、俺」

「学校だと?」

「そう。正確には短期大学CJC

「何だ、そのCJCとかいうのは?」

「コミュニティ・ジュニア・カレッジ。まあ、なんていうか……職業技能を身につけるための学校さ。看護婦とか写真家とか飛行士とか……その他色々」

「そこへ行ってお前は何がしたい?」

「それは……いや、別にいいだろそんな話は」

「何も良くない。おまえはマフィアの酒を売ってでもそのCJCとやらに行きたいんだろう。なのに何故この金を受け取らない?」

 ラークは返答に窮した。前回ここを訪ねたときも名前から住所まで洗いざらい吐かされたが、まただ。

 CJCに行くという目標はラークにとっての夢であり、同時に過去の遺物だった。ずっと忘れているべきだったのだ。何せその夢がちょっと息を吹き返して欲に駆られた結果、ジョーは死に自らも九死に一生を得る羽目になったのだから。

「その金はあんたの金であって、俺の金じゃない。確かに俺は高潔な人間じゃないが、他人の金で夢を叶えようと思えるほど図々しくもない。あんたはなんで自分の金を赤の他人に押しつけようとする? 俺は強盗だぞ」

「強盗? ハッ、そうかな。自分の面倒も見切れないションベンタレの間違いだろう」

「話を逸らすな。俺は理由を訊いてる」

「〝力ある者は力なき者の弱さを担うべきであり、自らを喜ばせるべきではない〟」

「は?」

「ローマ信徒への手紙十五章一節だ。聖書くらい読まんか、馬鹿者」

 ……なるほど。ラークはこのおよそ信仰心とはかけ離れたところにいそうな老人が、意外にも熱心なキリスト教徒であることを知った。

 今の言葉をそのまま受け取るならば彼には金という名の力があり、それによってちからなきラークの弱さを担おうとしているというわけか。人並みの信仰心も持たないラークにはまったく理解不能な世界の話だ。

「だけどそんなことしてあんたに何の得があんの?」

「主イエス・キリストの御心にほんのわずかだが近づくことができる」

「あっそ。つまり二〇〇〇ドルなんて大金もあんたにとってははした金であって、いくら身銭を切ろうが痛くも痒くもないってこと」

「言い方は癪に障るがそういうことだ。見てのとおり、儂はもういつお迎えがきてもおかしくない歳なモンでな。しかし有り余っている金を大事にしまい込んだまま逝くというのも、何とも虚しい話じゃないか。だからずっと探していたのだ。この金の使い道を」

「けど、あんたのその金を欲しがってる人はもっと他にいるんじゃないの」

「たとえば?」

「そりゃ、あんたの息子とか……兄弟とか」

「儂の周りにそんな連中がいるように見えるか?」

 昂然と喉を反らし、やはりこちらを見下ろすような態度でイアンは言った。……とするとこの老人は予想どおり独り身か。しかも天涯孤独ときた。全然まったく胸を張るべきところではないと思うけど。

「だけどCJCに入るには、義務教育をきちんと修了してなきゃならない。俺は四年前から学校には行ってないし、復学しようにも親がいなくちゃ無理だ。そもそも学校の勉強なんて、ペンの握り方すらもう忘れたしな。だから……」

「楽しいか?」

「は?」

「叶えたい夢があるのに、できない理由をずらずら並べて自分を捩じ伏せるのは楽しいかと訊いとるんだ」

 抑揚のないイアンの言葉は、ラークの胸にぐさりと刺さった。

 そうかもしれない。自分はこの四年間、できない理由ばかり掻き集めて、山をなしたそれらの中に夢を閉じ込め隠してきた。

 その気になればそこから夢を引っ張り出し、共に歩むこともできたのかもしれない。けれど今となっては……。

「保護者には儂がなってやる」

「……え?」

「別に保護者が必ず血縁者でなければならないという決まりはないだろう。まあ、その方が話が早く済むのは確かだが」

「ちょ……じいさん、マジで言ってんの?」

「じいさんではない。イアンと呼べ。乗りかかった船だ、おまえのことは最後まで面倒を見てやる」

「だけど」

「〝夢、これ以外に未来を作るものはなし〟だ。とは言えおまえの人生だからな。このまま落ちるところまで落ちるか、それとも逆境を撥ね除け夢に挑むか。どちらでも好きな方を選ぶといい」

 茫然とするラークの前で、イアンは自分のカップを取り上げた。

 そうして優雅にコーヒーを啜る横顔に、天の光が射している。

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