3.

「現実ってのは非情なもんでな。勇んでアメリカへ渡ったはいいものの、俺たちを待っていたのはシチリアでの暮らしより苦しい生活だった。アメリカンドリームなんてものは、結局のところ勝者の譫言だったのさ。父は移住を手引きしたブローカーの紹介で働き始めたが、与えられたのは港でのキツい肉体労働。しかも賃金は雀の涙で、俺たちはマルベリー・ベンドの崩れかかったアパートしか借りられなかった。他の仕事を探そうにも、イタリア人というだけで相手にしてもらえない。父は次第に荒れていった。脳裏に思い描いていたきらびやかな理想と現実があまりにも違いすぎてな」

 一息にそこまで話したところで、ふーっと深く息をつく。何やら無性に煙草が恋しくなってきた。かと言ってこの狭い密室を紫煙で満たすわけにもいかない。

 壁の向こうのミオリス神父は、先程からじっと黙ってこちらの話に耳を傾けていた。閉め切られた扉の上、わずかな隙間から零れる光が、網目のあちら側で両肘をつき手を組み合わせる神父の影を薄闇のキャンバスに描いている。

 その神父がいっかな口を挟んでこないのは、このまま話を続けろという意味だろうか。普段ほとんど口をきかない自分が一方的に喋り続けるという状況に具合の悪さを感じながらも、仕方なく言葉をつないだ。

「やがて父はなけなしの金をはたいて酒ばかり飲むようになっていったが、その一方で母は内職を掛け持ちし、俺たちを学校へ入れてくれた。英語を話せるようになれば、俺たちまで父のようにならずに済むと思ったんだろう。だがほどなく父の暴力が始まり、俺たちは怯えて暮らすようになった。いつまた酔った親父に殴られるかと、家族三人身を寄せ合ってな」

 窓ガラスもなく、四角い穴に板を打ちつけただけの粗末な窓。ところどころひび割れ、天井まで届くかびに侵されていた黒い壁。

 身を隠す場所なんてどこにもないボロボロの安アパートで妹と二人、母に匿われた日々を思い出す。我が子二人を抱き締めうずくまる母の背中を、怒り狂った父は何度も何度も酒瓶で殴りつけていた――息子が十四歳を迎えたあの日までは。

「だがアメリカへ渡って数年が経ったある日……俺はついに父を殺した」

「……お父上を殺した?」

「ああ。殺したんだ。確かにこの手で。母は事故死だと言い張ったが、あれは俺が……俺が殺した。狂ったように母を殴りつける父を見かねて、止めるつもりで突き飛ばしたんだ。すると酔った父は簡単に足を滑らせ、テーブルの角に頭を……あとは言わなくても分かるだろう」

「……」

「俺は自分の罪を恐れた。もちろんその頃には父への愛情など薄れていたが……それでも親子だったんだ。以来俺もまた父を真似るように荒んでいった。だが唯一父と違ったのは、ほとんど家へ帰らなくなったことだな。通っていた学校も中退し――やがて俺は悪友たちと、クラブ・ダドーネに入り浸るようになっていた」

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