レ・ミゼラブル

長谷川

1.

 舞台の緞帳は上がり、決まりきった役を演じるだけの悪夢のような一日が始まろうとしていた。

 薄暗い個室に、余命を宣告された終末患者のごときため息が落ちる。いや、本当に死期が近づいているならどんなにいいか。延々同じ役を演じ続けるだけの毎日にはもう飽きた。かと言って今更違う役には替われない。

 ニューヨークのとある教会。近頃の移民の急増に伴い、騒々しさを増した街の喧騒はそこからは遠かった。

 懺悔室とかいうものに入るのはこれが初めてだが、扉を閉めきってしまうと意外に音が漏れないのだな、と感心する。まあ、この便所のように狭苦しい個室は普段、他人に打ち明けられないような秘密が交わされる場所なのだから当然と言えば当然なのだが。

 とりとめもなくそんなことを考えていると、薄い壁一枚隔てた向こう側で音がする。約束の時間だった。待ち侘びていたミオリス神父とやらが現れたのだろう。

 彼我を隔てる壁は細かい網目状になっていて、向こうで人が蠢いているのは分かるが互いの顔は判別し難かった。ただでさえ個室の中は光源が乏しく、どんなに目を細めてみても神父の姿は人型を成す闇の塊にしか見えない。

「マグダレーノさんですね?」

 こちらが微動だにせず様子を窺っていると、網目の隙間から穏やかな成人男性の声が滑り込んできた。神父はここにいる男が誰であるのか確かめようとしているのだと知って、ゆっくりと頷きを返す。

 そうしてから、この暗さでは頷いたところで分からないのではと思い立ち、しかし口を開くことの億劫さに根負けした。自分はこんな暗闇の中で何をしているのだ、という思いが去来する。

 いつもと同じ舞台。いつもと同じ役。なのに時々、自分が何者でもなくなってしまったような虚無感の中へ突き落とされることがある。もうやめにしたかった。だって自分はとうの昔に、舞台へ上がる理由を失くしてしまったのだから。

「お待たせしてしまいました。それではお話を伺いましょう」

 神父の声はどこまでも優しい。きっと彼はこれまでにもこうして何十、何百という人の苦悩と向き合ってきたのだろう。

 声の響きは想像していたより若そうなのに、不思議な包容力を感じる。何だか妙に懐かしい――そう、まるで無条件にして底なしの母の愛、のような。

 その声が脳裏に引き出したのは、皺だらけの顔を開いて笑っていた母親マンマの記憶。途端に泣き出しそうになっている自分に気づいて狼狽した。

 何がそうさせるのか、あるいはこれが聖霊の導きというやつか。とにかく疲れ切っていて、毎日が虚しく、無自覚な自暴自棄に陥っていた心に神父の声はあまりに沁みた。

「リラックスして。たとえどんなお話でも私は驚きませんし、ここで聞いたことは決して誰にも洩らしません」

 馬鹿げている、と思った。本当ならさっさと今日の演目を終えて、この息苦しい密室をあとにするはずだったのに。

「……少し、長い話をしてもいいだろうか」

「ええ、構いませんよ。時間はいくらでもありますから」

 その言葉に背中を押され、もう一度深く息をついた。

 固い背凭れに身を預け、眠るように目を閉じる。瞼の裏に甦るのは、黒い煙を吐いて大西洋を渡る蒸気船の姿。

「始まりは今から二十年前……俺は両親と姉と妹からなる五人家族だった。当時は地中海のシチリア島で暮らしていたんだが、イタリア統一以来貧しい日々が続いてな。このままでは食っていけないと悩んだ父が、思い切ってアメリカへ渡ることを決意した。俺たちはどうしても故郷を離れたくないと言う姉を叔母のもとに残して、家族四人でアメリカへ渡った――それがすべての始まりだ」

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