11.

 男のものにしてはずいぶんと白い手が、扉の向こうから差し出してきたのは一杯のウイスキーだった。

 標準的な大きさのロックグラスの中では、琥珀色の液体と一緒にいくつかの氷が揺れている。唖然としながら受け取れば、神父は特にこちらを覗くでもなく、ごく静かに扉を閉めた。

 互いの顔を知ってしまえば、話がしづらくなると思ったのだろうか。確かに人相というのは厄介な記号で、相手の顔や身体的特徴によって態度を翻す者も世の中には少なくない。

 しかしそれにしたところでこの酒は何だ。改めてグラスの中を見やり、ぷかぷか浮かんでいる氷ののんきさに激しい場違い感を覚えた。

 網目状の壁の向こうでは、神父がまた席に着いた気配がある。グラスから匂い立つアルコールの香りを嗅いで、彼は微笑んだようだった。

「……聖職者は酒を飲まないものだと思っていたが」

「まあ、そうですね。中にはそういう方もいらっしゃいますが、うちはカトリックですから。そのあたりはプロテスタントの一部の教派に比べると、だいぶおおらかなものですよ」

「しかし懺悔室で酒を出す教会なんて聞いたことがない」

「それはそうでしょう。あなたはこれまでのお話を伺う限り、神の愛から最も遠いところにおられたようですから」

 笑いながらそう言うと、神父は飲酒を促した。聖堂の片隅で人目を盗んで酒を呷るなんて、これまで犯してきたどんな罪より背徳的な気がするが遠慮するなと言うなら有り難い。

 氷が鳴るのを聞きながら、ひと思いにグラスの中身を飲み干した。なかなか悪くない酒だ。香りもキックも強くて舌に絡み、体をカッと熱くしてくれる。

 なるほど、確かにこれは煙草などよりもっと・・・いいもの・・・・だった。ミオリス神父の私物だとしたら意外だが、もしもそうなら彼はなかなかの酒好きだろう。

「それで? 告解は続けられそうですか?」

 という神父の言葉で我に返る。そうだ、自分は今行きつけの酒場ではなく懺悔室の中にいるのだ。そのことを思い出すと同時に、グラスは一旦腰かけに置いた。どこまで話したのだったかと記憶を辿り、直後にフラッシュバックした映像が暗澹たる気持ちを甦らせる。

「……ああ。おかげですべて白状する覚悟が決まったよ」

「では教えていただけますか。あなたとお母様がそれからどうなったのか」

 ――気が進まないなら無理に打ち明ける必要はない。そもそも自分はここへ懺悔をしに来たわけではないのだ。

 本当の目的は別にある。だったら、と現実へ逃げようとするもう一人の自分を捕まえて、アルコール色に染まった息を一度深く吐き出した。

 確かに今日、自分が彼を訪ねた目的は違う。けれどここまで来たのならすべて吐き出してしまいたい。

 誰かに許されたいとか、何もかも吐露して楽になりたいとか、そういうわけではないのだ。ただ彼にだけは話しておきたい。この先誰にも語ることはないであろう、哀れな男の物語を。

「あれは確か、リッチモンド・ヒルに家を買って一年が過ぎた頃のことだ。俺は再び母と暮らすようになって……気が緩んでいたのかもしれないな。おかげである日くだらないヘマをやらかした。殺しの現場を人に見られていたんだ。だが俺は目撃者の存在に気づかず、上司に任務完了を伝えて家へ帰った。……その翌日のことだったよ。当時敵対していた組織の連中がうちに銃弾を浴びせていったのは」

「報復された、ということですか?」

「ああ。やつらは俺が殺した男の仲間だった。幸い母にも俺にも怪我はなく、家が銃痕だらけになっただけで済んだが俺は母に問い詰められた。何故自分たちがこのような仕打ちを受けるのか、理由を知っているならすべて話せとな」

 そして隠しきれなくなった。

 自分の正体。重ねてきた悪業。金の出所まで一つ残らず。

「……それを聞いて、お母様は?」

「泣き叫んでいた。今度はゴルゴタの丘での悲劇でも目の当たりにしたかのように。そして俺を罵倒したよ。おまえの罪はユダよりも重いと……おまえなど生むのではなかったとな。その言葉を聞いて、俺は――」

 当然の仕打ちだった。母の反応は至極まっとうで、実の息子がいつの間にかサタンの下僕しもべになっていたなどと知ったなら、誰もがあのように取り乱しただろう。

 しかし自分はそれが許せなかった。怒りで目の前が真っ赤になった。

 そして叫んだのだ。

 俺が一体誰のために手を汚したと思っている、と。

「気がついたとき、母は俺の足元に倒れていた。頭から血を流して」

 神父からの答えはない。それでもただ真実を、この空間やみに刻みつける。

「我に返ってみると手の中には銃があり……すぐに理解したよ。俺が母を殺したのだとな」

「……」

「なあ、神父殿。あんたにぜひ聞いておきたい。こんな俺でも、神はお許しになるのだろうか?」

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