8.
東海岸まで、およそ八〇〇マイルの旅だった。
ニューヨーク方面へ続く道を、イアンと交互に運転しながらひた走る。
二人を運ぶのは黒塗りのコーチ。いかにもイアンの車といった感じの、古めかしくて格式張った見た目の車種だ。
「地図でいうと今どの辺?」
「もうすぐトレドだ。昼はそこで食うか」
「通りすぎてもダイナーくらいならありそうだけど?」
「別に急ぎの旅じゃない。せっかくシカゴを出たんだから、たまには違う街のメシと空気を楽しめ」
窓を開けながら走っているので、自然とどちらも大声になる。今はラークが運転手だった。助手席に座ったイアンの手の中では、北部の地図が風に吹かれてバタバタと音を立てている。
ラークがイアンと知り合ってから、丸一年が過ぎた。学校は夏休みに入っていて、九月になればラークは十年生に上がる。
成績はお世辞にも良いとは言えなかったけれど、何とか留年は免れた。夏休みの間は新聞配達と靴磨き以外の仕事を探しつつ勉強の遅れを取り戻すつもりだったのだが、この一週間は特別だ。
「そういや俺、海って見たことないかも」
とラークがイアンに漏らしたのは、シカゴの気候もようやく春めいてきた頃のことだった。とある休日、イアンの買い物に付き合ったラークはそのままミシガン湖方面へドライブし、二人で湖を眺めたのだ。
あのときは別に旅行に行きたくて言ったわけじゃなかった。ただ湖畔をぶらぶらしているときに海の話題になり、本物の海を知らないことを何の気なしに打ち明けたのだ。
「おまえ、シカゴを出たことがないのか」
「ああ、ないよ。出る用事もなかったから」
「街の外に親戚くらいいるだろう」
「さあ、いるかもしれないし、いないかもしれない」
「どういうことだ?」
イアンは老人のわりに健脚で、いつもはかなりすたすた歩く。けれどのんびり散歩を楽しむときだけは別で、そのときの彼の足取りは晴天の下のミシガン湖と同じくらい穏やかだった。
「言わなかったっけ? 俺、いわゆる婚外子ってやつだからさ。父親が誰かも知らないし、母親は自分のことをあんまり話さなかった」
「……初耳だな。片親だとは聞いていたが、まさか未婚の母だったとは」
「まあ、なんか事情があったんだろ。知らないけど。金を稼ぐために売春までやって、最後は頭がおかしくなって死んだ。今にして思えば可哀想な人だったよ。当時の俺はあの人が嫌いで嫌いで仕方なかったけど」
一応成長したってことなのかな、と呟きつつ、輝き渡る湖を見やる。真昼の星を散りばめたみたいなミシガン湖は広々として美しかったが、イアン曰く、海はもっと雄大で見る者の心を奪うという。
「なるほどな。それでおまえはグレたわけか。学校にも行かなくなり、足を踏み外して悪の道へ」
「あれは一時の気の迷いだって。今は真面目に生きてるだろ?」
「まあそうだな。途中で道を誤ったことに気づき、引き返せたのだから上出来か」
「それもこれもあんたのおかげだよ。これでも一応感謝してる」
「選んだのはおまえだろう。儂は金の世話をしただけだ」
着古したカーディガンのポケットに両手を突っ込んで、ぶっきらぼうにイアンは言った。でもその頃にはラークも彼のそんな態度に慣れていたから、「あっそ」と笑って足元の小石を蹴る。
「……おまえはもうすぐ夏休みだったな。何か予定は?」
「まだはっきりとは決めてない。ただ学校が休みの間は昼も働こうかと思ってる。冬休みはあんまり稼げなかったから」
「なら最初の十日間は空けておけ。車を出してやる」
「車を出すって、どこへ?」
「決まってるだろう。――海だ」
という経緯があって現在、二人は東に向かっている。ラークはシカゴを出たことがないどころかこうして旅行するのも初めてで、実を言うと心が弾んでいた。
だけど隣のイアンには、なるべくそれを覚られないよう振る舞う。自分で提案したくせに、シカゴを出てもムスッとしている彼の前ではしゃぐのは何だか癪だ。
というより一人だけ浮かれているのがバレて子供扱いされるのが嫌だった。何せイアンは、時折イギリス生まれなんじゃないかと疑うくらいの皮肉屋だから。
東海岸までは三日かけて移動した。ろくに下調べせず街を出たせいで、一日目は泊まる場所が見つからず車中泊する羽目になった。
二日目の夜は運良くモーテルを見つけて泊まり、三日目はイズリンのホテルへ。
ラークがついに大西洋と対面したのは、四日目の未明のことだ。
「……すげえ」
薄暗い砂浜に、打ち寄せる波の音が轟いていた。胸にぶつかってくるようなその音のなんとダイナミックなことか。
嵐でもないのにこんな大きな波が立っているなんて、ラークは想像もしていなかった。だがそれ以上に目を奪われたのは、水平線の向こうから顔を出した太陽の眩しさだ。
「間に合ったようだな」
ホテルの客室係に無理を言って、早めに出てきた甲斐があった。
時刻は五時を回ったばかり。イアンとラーク以外人影のないローレンス・ハーバーの砂浜は、時間をかけて黄金色に塗り潰されていく。
立ち尽くしながら見上げた先には、混ざり合う朝と夜。頭上を覆っていた濃紺は、世界の端から陽の光に溶け始めていた。
学のないラークの語彙力では、とても表現しきれない神秘的な色合いだ。更に海の向こうから伸びる光の道が、風に乗せて嗅いだことのない匂いを運んでくる。ちょっと生臭いような、それでいてほんの微か甘いような、何とも言えない不思議な匂いだ。
「どうだ、初めて見る海は?」
「ここから見ただけじゃ、広さについてはよく分かんねーけど……でもなんて言うか、ミシガン湖とは迫力が違うな。特にこの音! 誰かが大砲でもぶっ放してるみたいだ」
寄せては返す波を指差しながらそう言えば、イアンはフッと鼻で笑った。そうして再び彼方を見やった彼の
「儂も海を見るのは久しぶりだがな。昔はよくこうして眺めたモンだ。まあ、あの頃は大抵一人だったし、錆び臭いニューヨーク港から眺める海はあんまりいいものじゃなかったが」
「あんた、前はニューヨークに住んでたの?」
「ああ。遠い昔のことだがな。故郷が海に近かったんで、波の音を聞くと気が紛れた。つらい現実を忘れて、懐かしい思い出の中に逃げ込むことができたからだ」
ザバン、と波の砕ける音がする。その音に呑み込まれるような錯覚を覚えながら、ラークはイアンを顧みた。少し意外だったのだ。普段は自分のことをほとんど話さない彼が、過去を打ち明けてくれたことが。
「じゃあ、ニューヨークに住む前はどこにいたの?」
「イタリアだ。実家は海沿いの村で小作をしていた。最後は地代が払えなくなって、アメリカへ逃げてくる羽目になったが」
「イタリア!? ってことはあんた、イタリア人なのか!?」
「ああ、そうだが。イタリア人には見えんか?」
「い、いや、俺はてっきり、あんたもアメリカ生まれのアメリカ育ちだと思ってたから……だいたいイアンって英語の名前だろ?」
「この国ではイタリア人であることがバレると色々都合が悪いんでな。改名したんだ。元の名前はジョバンニ・ヴォルジアン」
「ジョバンニ……」
茫然とその名を口にして、ラークはイアンの横顔を眺めた。英名で呼ぶことに慣れてしまったからだろうか、ジョバンニという名前は何だか彼にそぐわないような気がする。
何より彼の話す英語には訛りがなかった。シカゴの街を闊歩するマフィアたちは大抵、英語なのかイタリア語なのか判然としない言語を喋るのに。
……そう、マフィアだ。
ラークがよく知るイタリア人と言えばマフィアしかいない。彼らはイタリアからの移民の成れの果て。アメリカ社会に馴染めずあぶれた者たちが、生きるために徒党を組んだのが始まりだと聞いている。
イアンが〝イタリア人だとバレると都合が悪い〟と言ったのも、恐らくそのためだろう。イタリア人と聞けばアメリカ人はまずマフィアを連想する。もちろん中にはイアンのように善良で、勤勉かつ誠実に暮らしているイタリア移民もいるはずだ。でも。
――アル・カポネがどうして大金持ちになったか知ってる?
いつか聞いたマリアの言葉が耳に甦ってぞっとした。
現在シカゴの街を牛耳っているあのアル・カポネも、元を正せばイタリア人だ。彼はこの十年間、禁酒法を逆手に取って儲けに儲けた。噂によればその年収は二〇〇〇万ドルを超えるという。
一般的な労働者の年収が一〇〇〇ドルにも満たない現状を鑑みると、途方もない大金だ。ならばあの日、二〇〇〇ドルなんて大金をポンと寄越したイアンは?
「どうやって稼いだ?」
とっさにそんな言葉が口を突いて出そうになり、ラークは慌てて飲み込んだ。途切れることのない波音がノイズとなって思考を乱す。
そう言えば彼がどうやってあんな大金を手にしたのか、ラークは一度も詳しく訊かなかった。若い頃しゃかりきになって稼いだものだとは聞いたが、手段までは聞いていない。
細波が浜辺を撫でるザワザワという音が、ラークの胸騒ぎとシンクロした。どういうわけだか、イアンを振り向くことができない。立ち竦んだラークの足元で、海より生まれた白い泡が溶けるように消えていく。
「……じゃあこれからは、あんたのことジョバンニって呼んだ方がいい?」
「好きに呼べ。おまえの自由だ」
隣から聞こえるイアンの声は、何一ついつもと変わらなかった。ただ、彼が一体どんな顔でその声を紡いでいるのかは分からない。
「なんで今更……」
「何か言ったか?」
「なんで今更、そんなこと教えてくれる気になったんだ?」
「簡単なことさ。この世には海よりも壮大なものがある。それは空だ。そして空よりも壮大なものがある。それは人の良心だ」
「……良心?」
「ああ。儂はそのことを身をもって知っている。真の良心に応えられるのは、良心だけだということもな」
彼が何を言おうとしているのか、ラークにはよく分からなかった。盗み見たイアンの横顔は
シカゴまでの帰り道、二人は言葉少なだった。
波音がいつまでもこびりついて、ラークの耳を離れない。
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