6.

 誰かからクリスマスカードをもらうなんて、母が死んで以来のことだった。

 昨日アパートのポストに投函されていたカードを手に、学校までの道を歩く。二つ折りのカードの上部にはソリに乗ったサンタクロースの姿。下部には必要最低限のメッセージ。

『クリスマスのご挨拶を申し上げます。良い休日を』

 あの老人は文字まで無愛想なのだな、と思いながらラークは笑った。何を書けばいいのか丸一日悩んだ自分でさえ、もう少し気のきいた言葉を綴って送ったというのに。

 感謝祭も終わり、いよいよクリスマスムードに包まれつつあるシカゴ。不思議なことに、どんな暗いニュースが続いてもクリスマスとなると住民たちは浮き足立ち、マフィアの街にもビール戦争という分厚い雲の隙間から一条の光が射していた。

 針の筵のごとく肌に押しつけられる冬の寒さも、浮かれた空気がわずかばかりやわらげてくれる。ラークは鼻のあたりまで引き上げたマフラーの隙間からふっと白い息を吐いた。

 あと一週間もすれば高校は冬休み。イアンの援助のおかげで無事復学を果たせたのは九月のことだが、この三ヶ月はとにかく一瞬で過ぎ去ったように思う。

 初めは四年ぶりに戻った学校での生活に慣れるので必死だったし、授業の内容なんて半分も理解できなかった。同級生は十七にもなってようやく九年生のクラスに戻ってきたラークを遠巻きにしていて、なかなか場の空気に馴染めず苦しんだからというのも大きい。

 けれど今はそこそこ話せる友人も増えたし、毎日が充実していた。ジョーたちとつるんで盗みや喧嘩に明け暮れていたあの頃の記憶は幻のようで、思い返す度に現実感が薄れていく。

 そんな自分を薄情者だと思い、落ち込んだ日々もあったが、それでいいのだとイアンは言った。苦しむだけ苦しむがいい。喜びとは苦悩の大木に実る果実なのだから、と。

「――なーに一人でニヤけてんの? 気持ち悪いわね」

 と、不意に行く手から声がして、ラークははたと足を止める。手を振るサンタクロースから顔を上げ、目をやった先には不敵に笑う少女がいた。

「マリア」

「おはよう、ラーク。それ、誰からのクリスマスカード?」

 温かそうなコートに身を包んだ少女は、無邪気な羊みたいに笑ってそう尋ねてきた。彼女の名はマリア。一言で言うならラークのクラスメイトだ。

 そこそこ金持ちの家の娘らしく、華やかな容姿の彼女はそれなりの場でそれなりの格好をしていればイギリスの貴族令嬢だと言っても通用しそうだった。その正体は何の変哲もない女学生だというのに、高貴な印象を受けるのは美しく波打つ金髪のせいだろうか。

「おはよう。君からのカードはまだ届いてないよ」

「ふーん。つまりそれは私以外の誰かが出したカードってこと。まさかエポナじゃないでしょうね?」

「いいや。これは例の世話好きなじいさんから届いたカードさ。ていうか君がなんでここに? 朝はいつも車で送ってもらってるはずだろ?」

「そうだけど、あなたの姿が見えたから途中で降ろしてもらったの。せっかくだから一緒に登校しましょ」

 口紅を塗ったみたいに紅い唇を弓形ゆみなりにして、マリアは身を翻す。ふわりとコートの裾を舞わせた彼女の姿は、ヨーロッパの伝承に出てくる妖精を彷彿とさせた。

 この寒いのにわざわざ車を降りるなんて物好きだなと思いつつ、ラークもその妖精に誘われ歩き出す。中身を見せてと言われるとばつが悪いので、カードは大事に懐へしまった。別に見られて恥ずかしい内容ではないのだが、今は何となく自分だけの秘密にしたい。

「だけどもうすぐ冬休みねー。前にも訊いたけどクリスマスの予定、変える気はないの?」

「ああ。俺はイアンの家で過ごすよ。君の誘いも有り難いとは思ってるけど」

「だったら遠慮しないでうちに来ればいいのに。そのイアンっておじいさんも一緒に連れてきて構わないって、お父さんもそう言ってるのよ?」

「それは嬉しいけど、どうもイアンは大勢でわいわい過ごすのが好きじゃないらしくてね。何度誘っても〝行くならおまえ一人で行け〟って言われるし」

「だけどあなたは一人で来るつもりもないのね?」

「悪い。でもせっかくのクリスマスに、イアンを一人にはできないよ」

 あれでも一応恩人だから、とラークが付け足せば、マリアはつまらなそうに口を尖らせた。普段は十四歳とは思えないほど大人びた見かけなのに、そうしていると年相応の少女に見えるから不思議なものだ。

「そこまでその恩人が大事なら、いっそ一緒に暮らせばいいのに」

「それじゃ本格的にイアンにおんぶにだっこだろ。俺、嫌なんだよそういうの」

「あなたは自立心溢れる大人の男ってわけ?」

「そんなんじゃないけど、イアンには学費を払ってもらってるし、時々生活も援助してもらってる。なのにその上衣食住すべてをあの人に頼りきるってのはな。さすがに気が引けるだろ?」

「それは何もかも親に任せっきりな私に対する皮肉かしら?」

「君の場合は血のつながった親だからいいさ。だけど俺とイアンは赤の他人なんだ」

 つい三ヶ月前ひょんなことから出会っただけの、親戚でも何でもない老人と青年。そんな二人が保護者と被保護者の関係を築いている今の構図はとても奇妙だ。本当なら強盗と被害者になるはずだったことを思えば、なおさら。

 だからラークはこれ以上イアンに頼ることを選ばず、今も安いアパートでの一人暮らしを続けていた。家賃や生活費のほとんどは学業の合間に働いて稼いでいる。

 朝は早くから起き出して新聞を配達し、学校が終われば街で通行人の靴を磨く――といった具合だ。ジョーたちとつるんでいた頃には考えられない暮らしぶりだが、ラークはこれでいいと思っていたしイアンも何も言わなかった。つらくないと言えば嘘になるけれど、盗みを働いたり暴力に物を言わせて誰かから奪うよりは遥かにマシだと思うから。

「だけど何だか妙じゃない?」

「妙って何が?」

「そのイアンっておじいさんよ。信仰心豊かで献身的なのは褒められるべきことだけど、だからって普通、他人のためにそこまで尽くせるかしら。少なくとも私には無理だわ。いくら寿命が近いとは言え、自分の財産を擲って見ず知らずの子供の面倒を見るなんて」

「まあ、俺も簡単にできることだとは思わないけど……世の中にはそういう奇特な人種もいるんじゃないか?」

「だとしてもお金の出所は? あなたの話じゃ結構な豪邸に住んでるんでしょ? 家族はいないって話だったけど、それにしたって謎だわ。一体どうやってそんな大金を手に入れたのかしら」

「……マリア、何が言いたいんだ?」

「アル・カポネがどうして大金持ちになったか知ってる?」

 ラークは自然と足が止まった。気づいたマリアも立ち止まり、挑戦的な目でこちらを見上げてくる。

 ――アル・カポネ。突如としてシカゴに現れ、今では影の市長とまで呼ばれている男。

 その正体はこの街のマフィアたちを束ねる親玉だ。もちろん彼に靡かず抵抗を続ける勢力もあるにはあるが、カポネは自分に従わないものを一つ一つ丁寧に潰しているとかいないとか。

 おかげで街の人々はほとんどがカポネの言いなりだった。最近の彼らの動静は、裏社会から足を洗ったラークにはまるで伝わってこないけど。

「その娘の言うことはある意味正論だな。イアン・マデリンには近づくな、ボウズ」

 瞬間、背後から聞こえた声にラークはびくりと跳び上がった。何事かと振り向けば、そこにはこの三ヶ月の間にすっかり見飽きてしまった顔がある。

「またあんたかよ、クロウさん」

 苦々しく吐き捨てた先には、黒い外套に黒い中折れ帽というマフィアさながらの格好をしたブルドッグがいた。

 このブルドッグはかなり大型で、二足歩行の上に英語を話す。名前はジェフリー・クロウ。イアンの話ではBOI――数年後連邦捜査局FBIと改称される――の捜査官らしく、それについて本人に問い質したところ否定も肯定も返らなかった。つまりYESということだろう。

「あら、ラーク。その人は誰?」

「強いて言うなら俺の追っかけかな。いつどこに行っても目の前に現れるんで驚いてるよ」

「人をストーカーみたいに言うのはやめろ。俺はお前が警告を聞かんからこうしてしつこく現れている。逆に言えば、お前があの家に近づくのをやめれば二度と俺の顔を見ずに済むということだ」

「まあ、〝あの家〟ってイアンさんのお宅のこと? どうして彼とお近づきになっちゃいけないの?」

「マリア、やめろ。この人の話は聞くだけ無駄だ」

「本当に無駄かどうかは、彼女が自分で聞いて判断するべきじゃないか?」

「いいや、聞かなくても分かる。あんただって何の根拠もない他人の妄想話を延々聞かされるのは苦痛だろ」

 棘と拒絶を多分に含んだ言葉を投げつけ、ラークはさっさと踵を返した。BOIの捜査官だろうが何だろうが、今はただの学生であるラークには関係ない。

 ――ボウズ、訊きたいことがある。お前とイアン・マデリンはどういう関係だ?

 ラークがイアンに金を返しに行った数日後。ぶしつけにアパートへ現れ、そう尋ねてきたのがこのジェフリー・クロウだった。ラークの居場所をどこで聞きつけてきたのかは知らないが、詳しく調査した結果イアンに甥などいなかったと、遥々尋問しにきたのだ。

 だがイアンもそうなることは予測済みだったようで、もしもクロウが聞き込みに現れたら、甥というのは彼をさっさと追い払うための口実だったと正直に答えるよう言われていた。その上でラークが強盗だったことは隠し、イアンとは元々顔見知りで、あの日は金を無心しに行ったのだと言うように、とも。

 合衆国を股にかける捜査局の人間に嘘をつくのは恐ろしかったが、それでもラークはイアンを信じることを選んだ。理由は実に簡潔明瞭、彼が命の恩人だからだ。

 いや、もちろん他にもある。何よりラークの心を動かしたのは、潔いイアンの告白だった。ラークの保護者になってやると言い出したあの日、彼はこう付け加えたのだ。自分はBOIに監視されている、と。

 何でもこのクロウという男は、過去に起きたとある殺人事件の捜査を続けていて、その犯人がイアンであると思い込んでいるらしい。真犯人はとっくに捕まり、当局も既に解決した事件と認めているにもかかわらず、だ。

 実際ラークも本人に確かめてみたが、クロウはおおむねイアンの言い分を認めた。自分はイアンこそが事件の真犯人だという証拠を掴むため――そして彼が再び犯罪を犯さないよう見張るため監視を続けているのだ、と。

 だが詳しく聞けば未だ確たる証拠はないというし、イアンを犯人とする根拠を尋ねてみても「捜査情報は教えられない」の一点張りで話にならない。これではクロウの話に説得力を感じられないのは当然だ。

 むしろラークが受けた印象としては、クロウは何らかの理由で、どうしてもイアンを犯人に仕立て上げたがっているように見えた。そんな悪意の下に職権を乱用する捜査官と敬虔な宗教家である恩人のどちらにつくかと言われたら、誰だって後者を選ぶだろう。

「あくまで俺の忠告を無視するつもりか、ボウズ。あんな男と関わって、あとで泣きを見ることになっても知らないぞ」

「ご高説どうも。だけど本当に親切にしたいなら、俺のことは放っておいてくれないかな。自分のことは自分で決めたいタチなんでね」

「やつの外面に騙されるな。でないといずれ後悔することになるぞ」

「はいはい、分かりました」

 一生言ってろ、と内心そう吐き捨てて、ラークは足早に学校を目指した。置き去りにされかけたマリアはラークとクロウとを見比べると、最後は慌てて追いかけてくる。

「――メリークリスマス」

 その年のクリスマスイヴ。靴磨きの仕事をいつもより早く切り上げたラークは、宣言どおりイアンの家を訪ねた。

 ベルを聞いて迎えに現れたイアンは、相変わらず不機嫌そうだ。眉間に皺を寄せて顎を上げ、今宵もちょっと見下ろすような仕草で言う。

「……本当に来たのか」

「来るって言っといたろ?」

「その手に持ってるのは何だ」

「コーン・ウイスキー」

「おい、儂の知らぬ間に禁酒法は終わったのか。そんなものどこで手に入れた?」

「まあちょっと、昔のツテでね。クリスマスなんだから今夜くらいいいだろ? 酒だとバレないように持ってきたしさ」

 ニヤリとしながらそう言って、ラークは右手の紙袋を掲げた。ウイスキーのボトルは箱に入れて包装紙で包み、赤いリボンもかけてきたので、傍目にはごくごく平凡なクリスマスプレゼントにしか見えないはずだ。

 そんなラークの小細工を見抜いたイアンは、呆れのため息と共に踵を返した。何も言わず顎で奥を示したところを見ると、とりあえず追い返される事態は免れたらしい。

「結局、例のマリアとかいう子の誘いは断ったのか」

「でなきゃ俺がここにいるわけないだろ?」

「フン、まったく物好きなことだな。せっかくのクリスマスをこんな老いぼれと二人きりで過ごそうとは」

「強盗に進んで金を恵む物好きには敵わないけどな。俺は酒さえ飲めれば、豪華なクリスマスツリーもプレゼントの山も必要ないし――」

 と言いながら応接間に入ったところで、ラークは思わず絶句した。何故ならビロードのソファが並ぶその空間の片隅に、驚くほど堂々としたモミの木が佇んでいたからだ。

 暖炉の火に照らされてキラキラ輝いているのは、枝に下がった無数のクリスマス飾り。木には電飾も巻きつけられているようで、遠目に見るとツリーが星をまとっているみたいに見えた。

 更にツリーの麓には山をなす箱、箱、箱。いや、中には紙袋のようなものも見て取れるが、いずれも綺麗にラッピングを施され、誇らしげにラークを待ち受けている。

「……あの、もしかして俺の他にも誰か来るの?」

「いいや? おまえはこの家に儂以外の人間がいるのを見たことがあるのか?」

「い、いや、ないけど……だとしたらこの飾りつけ、全部自分でやったわけ?」

「ああ、儂は別にユダヤ教徒ではないからな。クリスマスとなればツリーの準備くらいするさ」

 澄ました顔でそう言ってキッチンへ引き返していくイアンを、ラークは唖然と見送った。他に来る人もいないのに、彼はあんな豪勢なツリーとプレゼントの山を用意したというのだろうか?

 ラークはますますイアンのことが分からなくなった。怪訝な顔で目をやれば、いつもは無愛想な老人が、ピカピカのグラスを電灯にかざして口の端を持ち上げている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る