16.
「……どういうことだ?」
ラークは耳を疑った。
目の前には真っ青な顔をしたマリアと彼女の両親、そして神妙な面持ちのジェフリー・クロウがいる。
いや、彼らだけじゃない。突然連れてこられてどこなのかも定かでない建物には、他にも数名の警官らしき人物がいた。制服を着ていないところを見ると警官ではなくクロウの仲間かもしれないが、ラークにとって今重要なのはそんなことじゃない。
「なんで……なんでイアンがコロシモファミリーのところに? 俺はやつらのことなんて一言も……!」
「あの男がバーに乗り込んだ経緯は知らん。だがはっきりしていることは、やつは今病院にいて、死の淵に佇んでいるということだ」
淡々としたクロウの宣告が、ラークの全身から力を奪う。膝から崩れ落ちそうになって、どうにか椅子の上に落ち着いた。
元は空きビルだったのだろうか、粗末な椅子と曇った窓ガラスくらいしか目につくもののない部屋は異様な空気に包まれている。その中でクロウは嘆息し、心なしか苛立たしげに取り出した煙草を咥えた。
「まあ、おかげで俺たちの任務は完了した。コロシモファミリーはマデリンをカポネ派に寝返ったトーマスの刺客と判断し、やつを殺害したそうだ。これでお前たちを脅かす者はもういない。代わりにカポネとコロシモの戦争が起きるだろうがな」
「いや、待てよ……そもそもあんたらはなんでいきなり俺のところに現れた? それもイアンの差し金か?」
「ああ、そうとも。今からつい二時間前、やつは俺の目の前に現れてお前とそこにいる家族を保護しろと要求してきた。協力すれば、俺の求める真実をすべて話してやると言ってな。だがまんまと乗せられた俺が馬鹿だった。やつは最初から死ぬつもりだったんだ。俺はやつに上手いこと利用されたってわけだ、くそっ……!」
忌々しげに悪態をつき、擦っても擦ってもつかないマッチをクロウは床へ叩きつけた。半ばから折れてしまったそれは悲しげな音を立て、罅割れの上を転がっていく。
しかしラークの混乱は解けなかった。いや、思考がこんがらがっているようで、その実頭の中は真っ白だ。何も考えられない。イアンの正体を知ったあの日のように。
「そ……そんなつもりじゃ、なかったのよ……」
と、ときに掠れた声がした。茫然としたまま目をやれば、依然蒼白な顔をしたマリアがうつむき、大袈裟に肩を震わせている。
「……マリア?」
「違う! 違うの! 私は彼を焚きつけたりなんかしてない! ただラークのためにお金を用意してほしいって……そう頼みに行っただけよ! だってそうでしょう? あなたが大金を持ってるなんて誤解されたのは、彼のせいなんだから……!」
突如ヒステリックに叫び出したマリアは、決してその人物の名を口にしなかった。けれどラークにはすぐに分かる。彼女の言う〝彼〟とは、自分を庇って銃弾を受けたあの老人のことだということが。
「だけど彼は、それなら銀行へ行ってくるから家へ帰ってろって……! マフィアのところへ乗り込むなんて一言も言ってなかったのよ! 分かるでしょう、ラーク? 私はただ、あなたを守りたかっただけ……!」
視界が暗転した気分だった。何かしら答えようとしたはずなのに、喉が渇いて声が出ない。
気がついたときにはふらふらと立ち上がっていた。そうしてマリアからあとずさり、身を翻して走り出す。
呼び止めるクロウの声を聞いたような気がしたが、構わず部屋を飛び出した。来るときに通った階段を駆け下り外へ出る。しばらくがむしゃらに走ったのち、タクシーを見つけて乗り込んだ。
イアンがいるという病院の名を告げ、運転手を急がせる。窓の外ではいつもどおりの景色が流れているのに、自分が乗ったタクシーの中だけ時間が引き伸ばされているように感じた。
クロウたちに匿われた廃ビルから、病院まではそんなに遠くなかったと思う。けれどタクシーを下りる頃には日が傾き始めていた。
財布に入っていたドル札を数えもせずに運転手へ押しつける。震える指先は財布を取り出すのにも難儀して、失われる一秒に苛立った。
タクシーを降りてからの記憶は曖昧だ。ただイアンの病室を訊かれた看護婦の、「良かった、マデリンさんには親族がいらっしゃらないそうで……」という台詞だけが耳にこびりついている。
真夏の太陽の下でも駆けてきたみたいに、体中汗だくだった。呼吸する度に口の中が不快な血の味で満たされる。
けれど足を止めることなく教えられた病室まで行くと、ドアの前に見知らぬ男が立っていた。胸のバッジが偽造品でない限り、彼はこの街の警官だ。
「マデリンさんの関係者?」
「甥です」
尋ねられ、とっさにそんな答えが口を衝いた。どうして嘘をついたのかは、自分でもよく分からない。
案の定警官には怪訝な顔をされた。看護婦ですら知っているくらいだから、彼もまたイアンが天涯孤独の老人であることは既に聞いているのだろう。
「マデリンさんに親族はいないと聞いてるが……」
「詳しいことはBOIのクロウ捜査官に聞いて下さい。それよりイアンは」
かつての悪い遊びが役に立った。ジョーのおかげで警官を欺くのはわりと得意だ。人生に無駄なんてないことを、こんなときに実感する。
警官はなおも首を傾げつつ、しかしラークを通してくれた。ドアの向こうには医者と看護婦が一人ずつ待機していて、彼らが寄り添うベッドの上に、白髪の老人が横たわっている。
「君は?」
「その人の甥です」
もう一度同じ嘘をついた。彼の甥を名乗る資格なんて、もう自分にはないと知りながら。
医者は看護婦と顔を見合わせると、すぐに退室する素振りを見せた。彼らは外の警官のようにラークを問い質さない。ただすれ違いざま、余計なことは何も言わずにラークの肩を叩いて去った。
背後でドアの閉まる音がする。病院内の喧騒が遠慮したように遠のいた。
ラークはベッドに歩み寄り、傍にあった椅子に腰を下ろす。すぐ脇の点滴台には誰かの血がかけてあった。輸血をしているようだが、それがただの形式に過ぎないことをラークは何となく予感している。
「……来たのか」
不意に嗄れた声がした。ラークははっとして視線を上げる。
白い枕に白い頭を預けたイアンは、起きていた。今は顔まで真っ白だが、イタリア人だって白人だから、と気休めにもならない呪文を心の中で唱えておく。
「聞こえたぞ。〝甥〟というのはおまえのことか?」
「他に誰がいるって言うんだ? それとも俺が
無理矢理笑ってそう言うと、イアンもいつものように鼻で笑った。彼はそのあとすぐに咳き込んだが、血は吐かないので肺をやられたわけではないらしい。
「は、くそ。人並み外れて頑丈というのも考えものだな。コロシモのバーで大人しく人生に幕を引くつもりだったが、うっかり病院なんぞに運ばれちまった。医者どもめ、無駄な延命をするくらいならさっさと殺せばいいものを」
「そんな寂しいこと言うなよ。あんた、俺に謝らせもせずに逝くつもりだったのか?」
憎まれ口は相変わらずだが、イアンはだいぶ呼吸が苦しそうだった。自分にも何かできないかと考えて、とっさに彼の手を握る。
けれどその指先の冷たさに、思わず手を放しそうになった。
思い出したのだ。目の前で
「……なあ、イアン。逝くなよ。俺に償いをさせてくれ」
「それは無理な相談だな。儂は地獄で人を大勢待たせとるんだ。そろそろ行ってやらんと、さすがに何をされるか分からん。第一おまえに償うことなど何もない」
「けど、俺はあんたを」
「誰かを愛するということは、神のお傍にいることだ。ラーク、おまえは儂に神の顔を見せてくれた。これ以上何を望めと言うんだ?」
情けなく唇が震えて、思いは言葉の形を取ることなく零れていった。
イアンの瞳は穏やかさに満ちている。今より千年以上前、無知なる子らの罪を代わりに背負ったイエスのように。
「まあ、だがどうしてもと言うのなら、冥土の土産に一つ訊こうか」
「……何を?」
「おまえの本当の夢はなんだ?」
そうだった。訊かれて初めて、ラークはまだ自分の夢を彼に打ち明けていなかったことを思い出した。一年も一緒にいたくせに妙な話だ。ラークはもう一度口の端を持ち上げる努力をして、答える。
「俺、映画を作りたいんだ。ガキの頃、お袋が一度だけ連れて行ってくれた映画が忘れられなくて……俺もあんな風に、誰かを笑わせたり泣かせたりしてみたい。変かな?」
「いいや、できるさ。おまえなら」
ラークはこんなにも短くて、こんなにも力強い言葉を他に知らなかった。
だから頷く。皺だらけの手を擦りながら。
イアンは他にも何か伝えようとしたようだった。けれど唇を開きかけ、まるで天国でも見つけたみたいに微笑むと、あとは静かに目を閉じる。
ほどなくイアンは眠りに就いた。
二度と醒めない安らかな眠りだった。
それからおよそ二十年後、新進気鋭の映画監督が一人の老人の生涯を描いた映画で大ヒットを飛ばすのだが、それはまた別の話。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます