2(中)


 一方、西天満署で前科者の写真の山と格闘していた井出和之は、一時間ほど経っても該当する人物が見当たらずに幾分バテ気味になっていた。

「──どうですか、まだ出てきませんか」

 鍋島のデスクに座って写真を一枚一枚めくっている井出を自分の席で見守っていた芹沢は、井出が協力を放棄してしまわないように時折彼に気遣いの言葉を掛けた。

「……ありませんねえ」井出の答えは同じだった。

「似ているってだけでも結構ですよ。写真は数年前に撮ったものである可能性が高いわけですから、年齢上の違いがあっても構いません。傷だって、いつ出来たものかも分からないし」

「ええ。でも、それやとなんかみんなそれらしく見えてきて──」

「コーヒーを淹れましょう。ミルクと砂糖は?」

「すいません。そしたらブラックで」

 芹沢はにっこり笑って立ち上がった。窓際のコーヒーメーカーのところへ行くと簡易型のカップを取ってコーヒーを注ぎ、デスクに戻ろうとしたところでシャツの胸ポケットに入れていた携帯電話が鳴った。

「はい──ああ、うん」

 芹沢は電話で話しながら井出のところまで戻ってきて彼にコーヒーを渡した。掛けてきたのは鍋島だった。そして自分も席に着き、鍋島の話すのを聞きながら短くメモを取った。

「──分かった。訊いてみる」

 そう言うと芹沢は電話を切って刑事部屋を見渡した。誰かを捜しているようだった。そしてちょうど目的の相手が廊下から戻ってくるのを見て声を掛けた。

松本まつもと主任」

 松本と呼ばれた男は振り返り、芹沢を見るとその健康そうな陽灼けした顔をぱっと輝かせて両手を頬に当てた。

「わっ、署内きってのオットコマエからお声が掛かるとは。あとで女子連中に恨まれたらどうしよ」

「何言ってんですか」

 芹沢は笑った。松本はいつもこの調子だ。松本直人なおと、三十一歳。階級は警部補、そして四係の主任の地位に就いているというこの事実は、鍋島と芹沢という特異な存在のせいでともすると見逃されがちだが、実はそこそこの早さの出世だった。聞けば京大の法学部をかなりの好成績で卒業した秀才で、それなのになぜか地方採用で府警に入ったという変わり種だ。口をついて出る言葉はほとんどが冗談で、その様子だけを見ていると頭がいいのかバカなのか、彼が配属されてもう三年が過ぎようかというのに、刑事課のみんなはいまだに判断を下しかねている状態だった。

「待ってたんですよ、四係の誰かが帰ってくるのを。ちょっと知恵を貸してもらいたいんです」

「やなこった」

 またそんなことを、と芹沢は呆れたように言いながら松本のそばまで来た。

「変死体の身元に関連して情報が欲しいんですが──」

「それはそっちの専門やろ。俺は死体のデータ収集なんかに興味はないで」   

 松本は相変わらず楽しそうな表情で、四係のデスクの一つに腰掛けた。「それで? 死んだのは誰や」

「西川って言う売人らしいんですが、そいつ、最近になって東条組と絡んでたらしいって」

「ふうん」

 松本は素っ気なく返事をしたが、その瞳の奥で鈍い警戒の光が瞬いたのを芹沢は見逃さなかった。

「何か心当たりあるんですか」

 別に、と松本はうそぶいた。しかし芹沢はあえて深追いするのをやめた。この主任がそう言う以上、今の時点でそれ以上は聞き出せないことが決定的だからだ。

「死ぬ前に別の男と口論しているのを目撃されてます。しかも、原因はどうやら女らしいんです」

「わーおまえそれって──」

「俺と結びつけてとやかく言うのはやめてくださいよ」

 松本がまた嬉しそうな顔をしたので、芹沢はすぐに釘を刺した。

「……なんや。おもろないなぁ」

「面白くなくて結構」と芹沢はにべもなく言って続けた。「相手の男は三十代半ばから四十歳、身長170ちょっと、右の目尻に二センチほどの傷」

「……東条組に一人いたな、そんな男」

「ほんとうですか?」

「俺が今まで嘘言うたことあったか?──あったわな」

 松本はにっと歯を見せた。「上山やったか上野やったか、そんな名前や」

 芹沢は一係のデスクにいる井出に声を掛けた。「井出さん、上山か上野という男はもう出てきましたか?」

「いえ、まだだと思います」井出はリストに目を落としたまま答えた。

 松本がデスクを離れて井出のもとに近づいてきた。そして今までとはまるで違った、丁寧で落ち着きのある口調で言った。

「失礼します。ちょっとお貸し願えませんか」

 井出からファイルを受け取った松本は素早くページをめくり、しばらくするとその手を止めてそばにやってきた芹沢に言った。

「……あった。上山でも上野でもない、上島うえしまや。思い違いしてた」

 松本はそのページを井出に見せた。「この男では?」

 井出は写真に顔を近づけ、眉根を寄せてじっと見た。「ああ……この男やったかな」

「よく見てくださいね。違うなら違うと、正直におっしゃっていただいても結構ですよ」

「いえ、たぶんこの男やったと思います」

「やった」と芹沢は松本に振り返った。「バッチリ。俺サマにかかったらこんなもんや」

「ありがとうございます」

 松本はファイルを芹沢に渡すと、わざとらしく格好をつけて片目を閉じ、自分のデスクに戻っていった。


 芹沢は写真の隅に貼られているシールの番号を確認すると、並んだデスクの端っこにあるパソコンに入力した。

 やがてパソコンの画面が人物のプロフィールと思われるリストを映し出した。

 リストの人物は上島たけし、三十五歳。初犯は十四年前で、傷害致死で懲役三年六ヶ月の実刑を食らっている。それ以降は年に一度のペースで傷害、恐喝、窃盗などを繰り返し、五年前から東条組に出入りするようになった。組では主に警備関係の仕事を任せられている様子で、その強靱な身体と強面のおかげで幹部の用心棒的な存在でもあったようだ。

「井出さん、やはりこの男は危険人物ですよ」

 芹沢はモニターを見ながら言った。

「と言うと?」

「腕っぷしだけでのし上がってきたような男です」

 芹沢は井出を見た。「良かったですね。仲裁に入ったとき何もされなくて」

「やめてくださいよ、刑事さん」

 と井出は眉をひそめたが、すぐに真顔に戻って言った。「やっぱり、その男がやったんですかね?」

「他殺だと断定されたわけではありませんから。もっとよく調べてみないと、何とも言えませんね」

 芹沢はキーを叩いてリストをプリントアウトさせた。その様子を井出はまじまじと眺めた。

「さすがに、刑事さんは冷静なんですね」

「冷静というか、馴らされているんです」

 芹沢は写真のファイルをキャビネットにしまうと、腕時計を覗いた。

「あ──もうお昼になっちゃいますね。お嬢さんを迎えに行かれるのに、遅くならなきゃいいんですけど」

「刑事さんは、東京の方ですか?」井出が唐突に訊いてきた。

 芹沢は見透かしたような眼差しで井出を見た。「言葉遣い、気になりますか?」

「いえ、そういうわけでは──」

「福岡です。東京には学生時代に」

「そうですか」

「こっちに来てもう五年以上経つんだから、いい加減関西弁が使えてもいい頃だろうって、言われることもあるんですけどね。でも、方言ってそんな簡単なものじゃないでしょう」

「それはそうですね」

「無理に使うと下手くそだとか茶化してるだろうとか言われちまうし、かと言って地元の言葉じゃ余計に通じませんからね。結局、気取ってるなんて言われながらもこのままでいるしかないんです」

「そう言えば──」井出はぼんやりと床を見つめながら呟いた。

「何か?」

「死んだあの男も、おかしな大阪弁を使てヤクザもんに文句言われてました」

「つまり、関西の人間じゃなかったってことですね」

「ええ。かと言うてひどい訛りがあるわけでもなかったし──そう、ちょうど刑事さんみたいな話し方でした」

「だからって、関東出身とは限りませんけど。現に俺だってそうですから」

「ええ、そうですね。こんなことは何の役にも立ちませんよね」

「とんでもない。どんな些細なことでも無駄なんてことはありませんよ」

 そう言うと芹沢はにっこりと笑った。「ご協力ありがとうございました。どうぞお嬢さんを迎えに行ってあげてください」

「お役に立てたかどうか」

 井出は立ち上がり、照れ臭そうに笑って首を傾げた。


 廊下との間仕切り戸の前まで来ると、芹沢が戸を開けて井出に先を譲った。そして芹沢が、

「また何か思い出されたことがありましたら、ご面倒ですがこちらにご連絡ください」

 と言ってシャツのポケットから名刺を出す際、井出の目に芹沢のシャツの下に装着された拳銃が飛び込んできた。

 井出は思わずその明らかに違和感のある黒い鉄の塊を見つめ、やがてその視線を芹沢の顔に移した。

「……銃弾たまが入っていると思われますか?」

 芹沢は爽やかな笑顔を見せて言った。またしても井出の考えを見抜いているのだった。

「えっ?……さあ」と井出は造り笑いを浮かべた。「空なんですか?」

「──どっちだったか、忘れちまったな」

 芹沢はとぼけたように肩をすくめて投げやりに言うと、今度は口許だけで不適に笑い、井出に名刺を差し出した。

 この男もさっきの写真のヤクザと同じ領域の人間なのだと、井出はこのとき初めて目の前の若者のきな臭さを感じ取った。


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