2(前)

 しかし本人の言うとおり、さすがに萩原は子供を手懐てなずける──あまり良い言い方ではないが──のが早かった。

 鍋島と芹沢が出かけてから一時間もしないうちに、亮介はすっかり萩原と打ち解け、芹沢が昨日往診に来てくれた医者のところでもらってきた菜帆の薬をマンションに届けに戻ったときは、亮介は早くも萩原のことを「お兄ちゃん」と呼んでいた。その様子を見た芹沢は、この四日あまり自分たちが必死でやってきた努力は何だったのだろうと、妬むどころかむしろ馬鹿馬鹿しさすら感じながら部屋をあとにした。そしてそれは確かに、萩原が別れて暮らしているとはいえ父親には違いないという事実の証明ではあったが、それと同時に、自分や鍋島には知らず知らずのうちに子供にも分かるほどの独特の威圧感が身に付いてしまっているのだろうとも考えた。


 正午近くになって熱が下がり、頬をうっすらと紅く染めて穏やかに眠る菜帆のそばに座った亮介は、少し離れたところで雑誌を読んでいる萩原に振り返った。

「お兄ちゃんに子供がいるって、ほんま?」

「ああ、ほんまや」萩原は手許に視線を落としたままで答えた。

「男? 女?」

「女の子。六歳や」

「その子は今日はなにしてんの?」

「さあ。幼稚園に行ってるのと違うか」

 萩原はちらりと亮介を見た。「一緒に暮らしてへんから知らんのや」

「なんで?」

「離婚したからや、り、こ、ん、分かるやろ。奥さんと別れて、子供はそっちと一緒にいるんや」

「ふーん」亮介は首を傾げながら頷いた。「ほな、その子は今はお母さんと二人なんやね」

「いや、違うよ。奥さんがまた別の人と結婚して、今はその新しいお父さんと三人や」

「そしたら、お兄ちゃんはその子のお父さんでなくなるの?」

「まぁ、なあ──」

 萩原は雑誌を閉じて胡坐あぐらを組んだ足の脇に置いた。亮介の率直な質問にどう答えたらいいのか、すぐには思いつかなかった。実際彼自身も、この一年近くはそのことをきちんと整理できないでいたからだ。

 確かに美雪は彼と別れた妻・智子ともことの間に産まれた子供だし、その事実からすると彼は紛れもなく美雪の父親だ。しかし今や智子は榊原さかきばらという男性と再婚し、美雪はその二人によって養育されている。萩原も養育費を払ってはいるが、それはあくまで自分の意志であって、むしろ向こうは必要ないと言っている。つまり事実上はもう、美雪の父親は萩原でなく榊原と言ってもいいのではないか。

「離婚すると、その辺がややこしいんや」

 萩原はいい加減な答えを言った。しかし当然それでは亮介に解るはずもなく、萩原は自嘲気味に笑うと小さな溜め息をついて亮介を見た。

「……お母さん、帰ってくるとええのにな」

「帰ってくるよ。絶対帰ってくる」亮介はきっぱりと言った。

「そうや、そう信じて今は待つんや。そしたらお母さんにもその気持ちが通じるかも知れんから」

「ううん、違う。僕には分かってるんや。お母ちゃんが戻って来るってこと」

「へえ、テレパシーでも来てるんか?」萩原はにやりと笑った。

「テレ……?」亮介は眉をひそめて萩原を見た。「ううん、それとは違う」

「ほな、予知能力か? それやったら教えてくれへんかな。今度の阪神のメインレースには何が来るか」

「お兄ちゃんの言うてること、よう分からん」

 亮介は言うと膨れっ面になった。「とにかく、お母ちゃんは僕と約束したんや。そのうちすぐに戻って来るって。今度戻ってきたら、もう二度と出て行かへんって」

「約束ねえ──」

 萩原は疑わしげに言った。何日も子供を放ったらかしにする親の約束なんか、亮介はともかく、こっちとしてはそう易々と信じるわけには行かない。

「ほんまかな?」

「ほんまや、嘘と違う。せやからそれまでのあいだ、誰にも渡したらあかんて言うてお母ちゃんは僕にを──」

 そこまで言うと亮介ははっと息をのみ、素早く両手で口を塞いだ。

「鍵?」と萩原は訊き返した。「鍵がどうしたって?」

「……なんでもない」亮介はさっと背を向けた。

 その様子を見た萩原は亮介が何か重大な隠しごとをしているのだと直感した。しかしそれが今日初めて会った自分だけに対する隠しごとなのか、それとも亮介と母親以外のすべての者に対する隠しごとなのか、そこまでは分からなかった。

「鍵って、何の鍵や? 部屋のか?」

 亮介は何も答えなかった。

「その鍵を開けたら、中に何かあるんか?」

 亮介は激しく首を振り、そして深く項垂れた。それはまるで萩原に、頼むからそれ以上何も訊かないでくれと懇願しているようだった。

「──分かった。俺には言えへんことなんやな」

 と萩原は腕を組んだ。「別にええよ。俺が知らんでも鍋島たちが知ってるんやったら、それでええことやから」

 亮介は顔を上げた。怯えたような目で自分の少し先の畳の一点を見つめると、思わず生唾をぐっと呑み込んだ。そして萩原はそれを見逃さなかった。

「亮介……?」

「…………」

「まさか、あいつらも知らんのか?」

 亮介はなおも黙っていた。口を真一文字に結び、絶対に開かないぞという固い意志で肩はガチガチに力が入っていた。

「それやったらあいつらに電話して訊くぞ。かまへんな?」

 萩原は立ち上がって亮介を見下ろした。しかし亮介は相変わらず膝元のあたりをじっと見たままで、彼の言葉に対しては何の反応も見せなかった。

 萩原は小さく溜め息をつき、亮介を見たままゆっくりと部屋を出た。


 鍋島や芹沢の言うとおり、やっぱり亮介はひねくれている。いや、ひねくれていると言うより、子供のくせにかなりの頑固者だ。鍵のことを口にした瞬間の亮介の表情からして、それが堅く口止めされていたことだというのは一目瞭然だ。問題は、誰が彼に口止めしたかだ。

 鍋島や芹沢なら問題はない。萩原はあくまで部外者なのだし、こうして今日、彼が子供たちの面倒を見ているのも好意でやっていることだ。何も事件の中身にまで首を突っ込む必要も権利もなければ、そんな気も彼にはなかった。

 しかし、口止めしたのが亮介の母親だとしたら、これは見逃すわけには行かない。萩原は鍋島たちから子供たちの母親が行方不明なのだということしか知らされていなかったが、彼らが失踪人係でなく刑事課の捜査員であることからして、母親の失踪に事件性があることは自ずと推測できた。そういう人物が子供相手とは言え秘密の約束をしていると知ったからには、どんな内容にしろひとまず警察に知らせるのが市民の義務だ。ほとんどの一般人と同様、萩原も警察が嫌いだったが、相手が鍋島たちである今は好き嫌いとは別の次元だ。それに、この頑固者の小僧の口を割らせるには、多少手荒であったとしても専門家に任せるのが一番だと彼は考えたのだ。

 萩原はキッチンのカウンターへ行ってコードレスホンを手に取った。そして芹沢に教えられていた、西天満署刑事課一係に直接繋がる短縮番号のゼロを押すと、そのまま耳に当てた。

 一回半のコールで、呼び出し音が途切れた。

《刑事課》

「鍋島、俺や」

《何や。大きい口叩いといて、もう根を上げたんか?》

 と鍋島は呆れたように笑った。《引き受けた以上は面倒掛けへんなんて言うてたくせに》

「違うんや。ちょっと確認しときたいことがあってな」

《確認? 菜帆の容態に関係あることか?》

「いや、そうやなくて……あの子らの母親のことや」

 そう言うと萩原は子供たちのいる部屋に振り返った。しかし、そこから亮介が顔を出すようなことはなかった。

《……あんまり詳しいことは言えへんぞ、悪いけど》

 電話の向こうの鍋島は小さく声を落とした。

「分かってる。おまえら──亮介が母親から預かってる鍵のこと、ちゃんと掴んでるよな?」

《鍵? 何の鍵やて?》

「……知らんのか、やっぱり」

 鍋島の答え方に芝居っ気のないことが彼との長年のつき合いですぐに分かった萩原は溜め息をついた。

《知らんぞ、何も》

「亮介な。戻ってくるまでは誰にも渡すなって言われて、母親から何かの鍵を受け取ってるみたいやぞ」

《どういうことや? 説明してくれ》

「それ以上は分からへんのや。あの坊主、ポロッと口滑らせたまではいいけど、すぐにダンマリ決め込みよった」と萩原は言った。「それは俺が部外者やから黙ったのかどうか、そこをおまえに確認しようと思って電話したんや」

《子供の扱いに馴れてるおまえでもあかんか、喋らせるのは》

「あかん。黙秘ってやつやな。あとはおまえらプロに任せた方が良さそうや」

《分かった。俺か芹沢か、どっちかが戻るよ》

「役に立ちそうか?」

《……心当たりはある》鍋島は溜め息混じりで言った。《とにかく戻るから》

「早よ来てくれよ」

 萩原はもう一度後ろを振り返った。すると、それまでまったく気づかなかったが、亮介がすぐそばに立って自分をじっと見上げていたことに気づいた。びっくりした萩原は思わず少しのけぞり、ほっと息を吐いて言った。

「……脅かすなよ」

《え? 何て?》鍋島が訊き返した。

「いや、こっちの話や。亮介や」

 そのとき、亮介が後ろに隠していた右手をゆっくりと回して萩原の前に差し出した。萩原は無意識に左手を開いて出し、亮介の手から小さな金属片が落ちるのを受け取った。

 四センチほどの軽い金属で出来たその鍵には、番号を書いた白いプラスティックが付いていた。

「これか……?」

 萩原は鍵を見ながら言うと、その視線を亮介に移した。

 亮介は黙って頷いた。

「鍋島、亮介が鍵を渡してくれたぞ。コインロッカーの鍵や」

《コインロッカーか。どこのやて?》

「亮介、これがどこの鍵か、お母さんから聞いてないか?」

 萩原に問い質され、亮介は申し訳なさそうに首を振った。隠している様子はなかった。

「知らんみたいや」

 そう言いながら萩原は鍵をゆっくりと観察した。「……いや、ちょっと待ってくれ、確かこれは──」

《思い出してくれ、頼む》

「──ああ、やっぱりそうや、大阪駅のや。こっちにいたとき、ときどき使ってたから見覚えがあるんや。鍋島、間違いない、JR大阪駅構内の──たぶん一階にあるコインロッカーや」

《よし、ほなすぐに取りに行く。助かったよ》

「いや、大阪駅で落ち合おう。こっちまで戻ってきてたら時間の無駄やろ」

《けど、子供らはどうするんや》

「亮介、ここで待っててくれるよな?」萩原は亮介に言った。「これを俺に渡してくれたってことは、もう勝手なことするつもりはないんやろ?」

 亮介は強く頷いた。「うん、ちゃんと待ってる」

 萩原もにっこりと笑って頷いた。「鍋島、大丈夫や。おとなしく待っててくれるって」

《分かった。そしたら、中央コンコースで》

「了解」

 萩原はスイッチを切った。そして電話をカウンターに戻すと亮介に振り返り、彼の頭に手を置いて穏やかな笑顔を見せた。


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