第三章 キツい冗談

 亮介は「とよなか」というところがどこにあるのかよく知らなかった。


 亮介の知っているのは、アパートのある長柄のごく周辺だけで、遠くてもアパートから歩いて三十分ほど行った工場の向こうの毛馬けま橋あたりくらいのものだった。だから日曜に突然アパートの部屋に入ってきた、制服を着ていない二人の警官(それにしても、あいつらは威張っていた)に連れて行かれた警察署の近くの高くて綺麗なビルを見たのも初めてだったし、もちろん警察署の中に入ったのも初めてだった。そしてあそこがいったいどのあたりなのかも彼には分からなかった。ただ、車に乗ってそんなに長くは走らなかったように思えた。きっと、アパートと同じ北区だったに違いない。

 ところが、この施設のある「とよなか」は違った。警察署の前からタクシーで「うめだ」という大きな駅まで行って(テレビで見たことのあるところだった)チョコレート色の電車に乗り、すぐに降りてまた別のホームから同じ色の電車に乗って「とよなか」で降りた。亮介は必死で道順を覚えておこうとしたが、電車に乗ってしまってはもうどうしようもなかった。

 「とよなか」の駅からこの施設まではすぐだったが、長柄のアパートまでは遠かった。


 ここへ来て丸三日が経った。この施設の人はみんな優しいし、アパートでの暮らしよりずっと楽でほっとできたが、その反面亮介は落ち着かなかった。

 早く帰らないとお母ちゃんが帰ってくる。お母ちゃんが戻ってきて自分と菜帆がいなかったらびっくりするだろう。

 びっくりして、きっと悲しむに違いない。みんなはお母ちゃんのことをひどい母親やと言うけど、僕らはそうは思てない。それに、このままここにいたら、僕はお母ちゃんとの約束を破ることになる。そうなったら、今度は僕がお母ちゃんのことを放ったらかしにしたことになるんや。せやから、何とかして早よアパートへの帰り道を突き止めて、菜帆を連れて帰らんとあかん──。

 そうは思ってはいるものの、亮介にはどうしたらいいのか分からなかった。

 アパートの大家さんの電話番号を書いた紙を部屋の電話の横に忘れてきたし、だいいちお金がないから電話も掛けられなかった。今日の昼ごはんのときに園長先生(初めて見たときは熊みたいで怖そうだと思ったが、話すと本当に優しいおじさんだった)に電話を掛けたいと言ったが、どこへ掛けたいのかと訊かれて結局は諦めた。夕方になってこの前の小林さんが来て、菜帆と三人で「とよなか」の駅の近くまで散歩に行ったがそこまでだった。


 亮介は今、布団の中で目を覚まし、ずっとそんなことを考えていた。

 小さな部屋には亮介と菜帆の二人だけで、さっきから菜帆は隣で小さな寝息を立てている。枕元の目覚まし時計は十一時ちょうどを指しており、窓の外では鈴虫の澄んだ鳴き声がしていた。

 亮介は起き上がった。そして菜帆が目を覚まさないように静かに引き戸を開け、長く続く廊下に出るとトイレの方向にゆっくりと歩き出した。あたりはしんと静まり返り、途中、他の子供たちが眠っている広間の前を通った亮介はガラス越しに中を覗いた。二十人ほどの子供たちはそれぞれの布団で足を投げ出したり身体を小さく丸めたりしながら、菜帆と同じようにぐっすりと眠っている。亮介は彼らがどんな理由でこの施設へやって来たのかは知らなかった。理由は分からなかったが、彼らはすでにここでの暮らしを覚悟しているようで、きっと亮介や菜帆と違って、帰る場所がないのだろうということだけは彼にも何となく推測できた。

 トイレで用を済ませた亮介は、自分の部屋とは逆の方向にある先生たちの部屋(「しょくいんしつ」と言うらしい)から明かりが漏れているのを見つけた。 

 亮介は見つかったらまだ起きていることを叱られそうなので静かに近づき、廊下に面した窓の下でしゃがんでそっと中を見た。

 部屋には園長先生と、亮介たち兄妹の面倒を見てくれている上村かみむら先生の二人だけで、部屋の中央にあるソファーで向かい合い、深刻な表情で話し込んでいた。

 亮介は顔を引っ込め、耳を澄ました。


「──先生はどう思われます?」

 園長の声が言った。

「そうですね……母親がこのまま見つからない場合は、それも仕方のないことだと思いますけど」上村が答えた。「でも、本当にもう戻らないんでしょうか?」

「さあ、そればっかりはね。今までにも、何度も子供たちを置き去りにしては何週間かして戻ってくるということがしょっちゅうだったようですし」

 亮介は二人が自分たちの母親のことを話しているのだと直感で察した。

「警察の方でも母親の行方を追っているらしいですし、そう遠くないうちに見つかるとは思いますがね。しかし、菜帆ちゃんのことを考えるとこのままじっと待っているだけというわけにはね」

「ええ、一日も早い取り組みが必要ですね」

 上村は強い口調で同意した。「柴田しばた先生がいらっしゃればね。聾唖者の専門的指導にもご経験がおありやったし」

「辞められた先生のことを言うても仕方がないですよ、上村先生。とにかく、もうしばらく様子を見て母親が見つからないようなら、菜帆ちゃんは聾唖養護施設に移すしかありませんね。可哀想ですが」

 亮介はどきっとした。「ろうあ」と言う言葉の意味はよく分からなかったが、菜帆のことを話していることからしてだいたいの想像はつく。きっと、耳の聞こえないことを言うのだ。そしてこのままだと菜帆は自分と引き離されてその耳の聞こえない者の行く施設へ移されるのだ。

 そうなれば、ますますアパートへは帰れなくなる。

 亮介は激しい胸の鼓動を抑えるように腕を組み、来たときのように静かに廊下を戻っていった。

 歩きながら、亮介は今夜中にここを抜け出す決心をしていた。

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