3(後)


 それから三十分ほどして、医者が看護師を連れてやって来た。そして手際よく診察し、看護師に適切な指示をして菜帆の容態を安定させた。

 芹沢と鍋島、そして亮介の三人はそのあいだただ呆然と医者の様子を見ているだけだった。

 やがて診察が終わり、芹沢と鍋島は二人を玄関まで見送った。

「とりあえず解熱用の座薬を置いていきます」

 医者は言った。「今も一つ入れてありますので、おそらく今夜はそれで大丈夫だと思いますよ」

「ありがとうございます」と鍋島は頭を下げた。「あの──何がいけなかったんでしょうか。食べ物ですか?」

「いえ、そういうこととは違います」医者は冷静に言った。「幼児の発熱というのは、年中行事みたいなものですからね。よほどのことがない限り、原因に問題があるわけではないんです。まあ……しいて言えば、あの子はちょっと疲れてるみたいですね」

「はあ」

「問題なのはそのあとです。放っといてこじらせると、肺炎なんてことになりますから」

「あの子にその心配は?」

「大丈夫でしょう。気づくのがもう少し遅かったら、それこそ大変だったでしょうけどね。おそらく今朝あたりから調子が良くなかったはずですが」

「……そうですか」と芹沢は俯いた。

「明日お薬を用意しておきますから、取りに来ていただけますね?」

 往診鞄を持った看護師が言った。

「ええ、分かりました」

「ところで──つかぬことを伺いますが」

 医者は二人の顔を見比べて言った。

「はい?」

「どちらかが、あのお嬢ちゃんと坊やのお父さんですか?」

「は? いえ、違います」と鍋島が手を振った。

「ということは、ご親戚か知り合いのお子さんで?」

「ええ、そんなようなものです」

「そんなようなもの──」

 医者は訝しげに二人を見た。

「じゃあ、親御さんから保険証を預かってらっしゃいませんか?」

 看護師が訊いた。

「あ、それが、ないんです」

「保険証がない。なるほど」

 医者は妙な納得の仕方で、芹沢を見た。「ここはあなたのお宅だとおっしゃいましたよね」

「そうです」

「するとそちらの方は?」

「職場の同僚です」

 鍋島ははっきりと言うと、もどかしそうに二人を見た。「あの、何か不都合でもあるんでしょうか。治療費ならちゃんとお支払いしますし、何でしたら幾らか持って帰っていただいてもいいんですよ」

 その質問には答えず、逆に医者は突然口調を変えて言った。

「あんたら、あの子たちをどこから連れてきたんです?」

「は?」と芹沢は片眉を上げた。「ですから、ちょっと預かってるだけで──」

「誰から?」

「何でそんなこと訊くんです」

「こ、答えられないのなら、け、警察に連絡しますよ」

 医者の後ろに隠れるように立っていた看護師が言った。

「警察に?」と鍋島は小さく笑った。「何のために?」

「往診を頼むあたり、病院には連れてこられない事情がありそうじゃないですか。おまけに保険証もないと来てる」医者は真顔だった。「……誘拐したんやろ」

「まさか」

 そう言った途端、芹沢は声を上げて笑い出した。医者と看護師は憮然としてその様子を見守り、隣で苦笑していた鍋島は、そのうち廊下の奥へと引っ込んだ。

 ひとしきり笑ったあと、芹沢は言った。

「……誘拐犯が、人質のガキが熱出したからって、医者なんか呼ばねえよ」

「し、しかし──」

「まず殺すだろうが」芹沢は真顔に戻って言った。「単なる足手まといだぜ」

 芹沢の物騒な発言と豹変した話し方に、看護師は思わず後ずさりした。

「仮に万が一そうしたとしても、今度はあんたらを帰すわけには行かなくなる。人質が雪だるま式に増えて、身動きが取れなくなっちまうだろ?」

 そう言うと芹沢は一転してにっこりと笑った。「俺たちは警察官ですよ」

「はあ?」医者は面食らったようだった。「あんたらが?」

「ええ。子供たちは事情があってここで保護しているんです。決して誘拐でも何でもありません。往診をお願いしたのも、詳しくは言えませんがその事情のためです」

「お疑いなら、電話で問い合わせていただいても結構ですよ。西天満署刑事課です」 

 奥から戻ってきた鍋島が言った。「これが身分証です」

 鍋島に見せられた警察バッジを覗き込んで、医者は俯き、バツが悪そうに頭を掻いた。「……失礼。警察の方を誘拐犯と間違うなんて」

 両者に共通する何かがあるのだろうと芹沢は思い、また小さく笑った。

「それじゃ、私どもはこれで」

「ありがとうございました」と芹沢は深く一礼した。


 医者たちが帰っていき、二人はゆっくりと廊下を戻って菜帆のいる部屋に入った。亮介が菜帆の布団の横に座り、心配そうに妹の様子を伺っている。二人は戸口の前に腰を下ろし、この小さくて健気な兄妹の姿を後ろからぼんやりと眺めた。

「……悪かったな、亮介」

 芹沢がぽつりと言った。「俺がおまえの言うことにちゃんと耳を傾けてりゃ、菜帆がこんなに苦しむことはなかったんだ。おまえ、今朝言ってたよな。菜帆の様子がおかしいってよ。それを俺は相手にしなかった」

 亮介は二人に背を向けたままで、何も言わなかった。

「言い訳がましいけどよ。お巡りなんかやってると、おまえみたいに小さなガキにまで猜疑心──つまり、疑ってかかっちまうんだ。嘘言って何か良くねえことを考えてるんじゃねえかってさ。ほら、日頃からそういう連中ばっか相手にしてるだろ? そのうちこっちの性根まで歪んじまうんだよ。自分でも、ときどき嫌になることがあるよ」

 依然として亮介に反応はなかった。芹沢は構わずに話し続けた。

「鍋島がこの前言ってたみたいに、おまえたちを預かるのを承知した以上はもっとおまえらのこと考えてやっても良かったんだ。それを自分一人が被害者みたいに思ってよ。本当の被害者はおまえらなんだよな。俺みたいなのと一緒に暮らさなきゃならねえんだから。おまけにそいつの仕事の都合とかで、あんな環境の悪い警察署で一日中じっとしてろって言われてさ。菜帆でなくったって具合が悪くなるぜ」

 そして芹沢は鍋島に振り返った。「なあ?」

「せやな」

 鍋島は小さく頷き、亮介の背中に言った。「俺も悪いんや。しょせん俺の役目はメシを作ることだけやって、どっかで開き直ってた。今日でも、朝からおまえらのことは眼中になかったし、それよりも自分のことで頭が一杯やったんや」

 相変わらず亮介は黙ったままだった。

「亮介。嫌なら、ここにいなくたっていいんだぜ」

「おい、ちょっと待てよ」鍋島は芹沢に振り返った。

「いいじゃねえか、俺たちが責任持ってこの二人を受け入れてくれる施設を探してやろうぜ。そうすりゃここにいるよりマシだろ」

「でも──」

「考えてもみろよ。菜帆の容態がたいしたことなかったからいいようなものの、もし肺炎にでもなってたら、それこそこんなに悠長に構えてられねえんだぜ」

 鍋島は俯いた。芹沢の言うとおりだったからだ。

「……ええよ。刑事さん」

 ここで亮介がやっと口を開いた。芹沢と鍋島は同時に顔を上げた。

「僕が悪かったんやから」

 亮介は振り返った。その頬には、涙の筋が一筋できていた。

「それは違うぜ、亮介」

「刑事さんが僕のこと疑ったのは、僕が昨日逃げたからや。菜帆のこと放っといて」

「亮介──」

「僕ら、ここにいてもええやろ? もう絶対にあんなことせえへんから。刑事さんたちの言うこともちゃんと聞くし、警察でもおとなしくしてる」

 亮介は言って、すがるような眼差しで二人を交互に見た。

 芹沢は何と言えばいいのか分からなかった。ゆっくりと髪を掻き上げて亮介を見つめるだけで、何も言葉が浮かんでこなかった。ただ、自分がこの少年に救われたのだということだけは、はっきりと分かっていた。

「……ねえ、施設に行けなんてこと言わんといてくれる?」

「ああ……」

「……やっぱり、迷惑なん?」

「そんなことないよ」

 やっと鍋島が答えた。


 ──思い上がった大人にどれだけの本物の愛情が残っているのか。自分たちを守ってくれているはずの大人に不安を抱いた子供たちは、ときには身を挺してそれを試すのかも知れない。


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