第四章 死人に口なし
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午前八時をまわり、西天満署ではいつもの雑然とした朝の風景が見られ始めていた。
事務的な用件で交通課や会計課の落とし物係を訪れる一般来客、軽い足取りで階段を下りてロビーを横切り、二、三人のチームを作ってパトロールに出かけていく制服警官。逆に夜勤明けで非番となり、ラフな私服に着替えて帰路につく少し眠そうな若い警官。そしてそれらの中に混じって、私服警官に連れられた一見して犯罪者と分かる目つきの悪い連中もいた。
署の表では、出ていったパトカーと入れ違いに、一台の乗用車が道路の北側から署の敷地内に入ってきた。駐車スペースまで行って停まり、中からは鍋島と芹沢が降りてきた。
芹沢は自分の後ろから亮介が降りるのを見守り、すぐに彼と並んで署の玄関に向かって歩き始めた。運転席のドアを閉めた鍋島は後部座席にまわってドアを開け、上体を屈めて中の菜帆を抱え下ろすと彼女の手を引いてドアをロックし、芹沢たちの後を追った。
署内に入った二人は子供たちを一旦受付の婦警に預け、すれ違う同僚たちと軽く挨拶を交わしながら拳銃保管室へと消えていった。そして五分もしないうちに再びロビーに現れ、子供たちを呼び寄せて階段へと向かった。
「──亮介、おまえどうしてちゃんと菜帆に言い聞かせとかねえんだよ?」
芹沢が隣で黙々と階段を上る亮介に言った。
「菜帆は耳が聞こえへんって、何べんも言うてるやろ」
亮介は俯いたまま、吐き捨てるように答えた。
「それは分かってるさ。けど……何とか伝えようがあるんじゃねえのか? 菜帆にも分かるようなさ」
「どんな?」亮介は挑戦的な眼差しで芹沢を見上げた。
「どんなって──例えば、身振り手振りとか」
「ほな、刑事さんがやってみてよ」
「俺にできるくらいなら、おまえにこんなにガミガミ言わねえよ」
芹沢はむっとして言うと顔を逸らせて舌打ちした。「……ったく、あれほどさせるなって言ったのに」
「芹沢、無理や」
後ろの鍋島が笑いながら口を挟んだ。「無理と言うより、無駄やな。三歳の子供におねしょするなて言うのは」
「おまえは人ごとだからそんなことが言えるんだよ」
芹沢は振り返った。「引っ越したばかりだって言うのに、畳まで汚しちまって」
「人ごとやないぞ。布団は俺んとこのやからな」
と鍋島は言い返した。「おまえな、子供を預かった以上はもっと気持ちを大きく持てよ。そんなんではこれから先持たへんぞ」
「何で俺がこいつらのために性格まで変えなきゃならねえんだよ。俺はおまえみてえに鈍感で無神経な男とは違うからな。むしろそれで良かったと思ってるくらいだぜ」
「ああそうか、分かったよ」鍋島は完全に気を悪くしていた。
刑事課に到着した四人を最初に迎えたのは、課の庶務を担当している婦警の
「おはようございます」
香代は二人の刑事に言うと、席を立って亮介と菜帆に近づき、二人の目の高さに屈んでにっこりと笑った。
「亮介くんと菜帆ちゃんもおはよう」
「おはよう」
返事をしたのはもちろん亮介だけだった。
「巡査部長、どうですか? 子供たちと一緒やと楽しいでしょう?」
香代は芹沢を見上げた。
「楽しいわけねえだろ、一日でうんざりだよ。香代ちゃんと一緒だときっと楽しいんだろうけどさ」
香代は眉をひそめた。「……芹沢さんが署内の女の子にそんなことばっかり言うてるの、知ってますよ。結構本気にしてるコ、多いんですから」
「まさか」
「香代ちゃん、もっと言うてやれ」
席に着いた鍋島が面白そうに言った。
「うるせえな、おまえは黙ってろよ」
「本当なんですよ。巡査部長にその気があるようなこと言われて、恋人からのプロポーズを保留にしてるコだっていてるんですから」
「だっ、誰……?」
「個人のプライバシーに関わることですから、言いません」
香代はぷいと顔を逸らせた。「いい加減すぎますよ」
「はっ、まさか……冗談だろ?」
「冗談なんかじゃありません!」
香代は突然声を上げると、くるりと背を向けて早足で部屋を出ていった。
彼女の声に驚いた何人かの刑事たちが顔を上げ、残された芹沢を見た。
芹沢はしばらくのあいだ呆然と立ち尽くして香代の走り去るのを見送っていたが、やがてゆっくりと鍋島に振り返った。
「……どういうこったよ?」
「最低やな、おまえは」
頬杖を突いて芹沢を見上げていた鍋島は、眉間と鼻のまわりに皺を寄せて言った。「あの子ともそういうことになってたんか」
「ち、違うよ、誤解だって」
「それやったら、何であんなに怒って出ていくんや? あれは自分のことを言うてるんとちゃうんか」
「知らねえよ。彼女とはその──一度だけさ」
「やっぱりな」鍋島はアホらしそうにデスクに向き直った。
「違う、食事のことだぜ。一度食事しただけさ」
「おまえがそれだけで終わるはずがないやろ」鍋島は鼻で笑った。「それとも、あれか。おまえの言う食事ってのは、例のフルコースのことか」
「頼むよ、鍋島」芹沢は拝むように言った。「いくら俺でも、同じ課の彼女には手は出さねえよ。そんなことしたら、後々やりにくくってしょうがねえだろ」
「思わせぶりなことも言うてないと?」
「それは……よく覚えてねえ」
「何でや」
「酒が入ったらそれくらい言うじゃねえか。相手が喜ぶんなら、方便でさ」
「まあ、それはおまえの勝手やけどな。職場のチームワークが乱れるようなことはやめてもらいたいな」
「……分かったよ」
芹沢は面白くなさそうに言うと、少し離れたところでさっきから自分のことをじっと見つめている亮介と菜帆に振り返った。
「おまえら、今の姉ちゃんが戻ってくるまでそこの椅子に座ってろ」
亮介は訝しげに芹沢を見据えながら、香代の席に菜帆を座らせた。
「何だよ、その目つきは」
「べつに」と亮介は視線を逸らせた。
「おまえにそんな目で見られる筋合いなんかねえはずだぜ、俺はよ」
芹沢は亮介に向き直って腕組みした。逆に亮介はすぐそばの窓に向かって椅子を回転させ、膨れっ面で外の景色を眺めた。
「ふん、クソ生意気な」
芹沢は立ち上がるとコーヒーセットの前に行き、カップにコーヒーを注ぎながら愚痴をこぼした。「──ったく、面倒見てやっててこれだからな。世話してもらうのが当然って気でいやがる」
鍋島は芹沢の後ろ姿を見てにやりと笑った。と、そのときデスクの電話が鳴り、鍋島は受話器を取った。
「刑事課です」
《一係ですか?》高く張りのある声だった。
「ええ、鍋島です。失礼ですがそちらは?」
《
「十三署──」
十三署は鍋島が警官になって最初に配属された署で、
「で、何でしょう」
《係長か主任はいてはりますか》
「いえ、ちょっと今は席を外してまして──」
鍋島は周囲のデスクを見回しながら言った。「俺で良かったらお伺いしますけど」
中村は思案しているようだった。しばらくのあいだ黙っていたが、やがて言ってきた。
《あんた、そっちの売人殺しの
突然の口調の変化に、鍋島はいささか驚かされた。「ええ」
《……まあええか》
中村が溜め息を漏らすのが聞こえた。《今朝、こっちの
「うちで?」
鍋島の頭に「嫌な予感」という言葉が浮かんだ。
《上島武、三十五歳。右の目尻に傷跡》
中村は突き放すように言った。《そっちの管内に事務所のある組のヤァ公やろ。違うか?》
「いえ、うちでええんです──」
中村の横柄な物言いに腹を立てる余裕もなく、鍋島は席に戻って来る芹沢を眺めながら頼りなく返事をした。
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