1(後)

「……矢野か」芹沢が言った。

「……きっとそうよ」杏子は頷くと上目遣いで芹沢を見た。「あんたたち、知ってるわよね。矢野が高校時代に何の選手やったか」

「ボクシングだろ」

「あいつ──キレたら怖いから」

「あんた、やつにも西川の居場所を教えたのか」

「……違うわ。あいつはね」

 そう言うと杏子は顔を上げた。暗い顔をしていた。

「あたしの周りから男を排除するのが楽しくてしょうがないのよ」

 鍋島は杏子を見た。「どういうことや」

 杏子は深く溜め息をついた。諦めたと言うより、ひどくがっかりしているような溜め息だった。それから話し出した。

「──高校を出たあたしが家を出たのは、あいつのせいよ。子供の頃は優しくて頼りになる、大好きな隣のお兄ちゃんやった。けど、あたしが中学に入った頃からかな、あいつの態度がだんだん変わってきた。あたしを独り占めしたくて、あたしがちょっと仲良くなった男の子がいたら、そいつらに執拗にまとわりついて──『杏子に近づくな』って、脅迫めいたことを言って怖がらせるのよ。男の子はみんなそれであたしとはつき合わなくなる。たとえ友達にだって、あいつは容赦せぇへんの。あたしもいい加減に気味が悪くなって、高校を卒業したら家出みたいにして家を出たわ。それでも結局、逃げ切れへんかった。あいつ、直接あたしの前に現れるんやなくて、あたしがつき合う男の周りをうろうろするの。亮介や菜帆の父親だってそう。あたしが矢野の存在に気づく前に、あたしの前からいなくなったわ。あいつに脅されて、怖くなったに決まってる。だから西川もきっと、そんな感じで消されたのよ」

「上島が事故死したのもそうか?」

「知らんわ。でも、ただの事故死とは思えへん。上島の女であるあたしがこんなことやらかしたんやから、東条組のやつらが厳罰処分としてやったのかも知れんけど──あたしはやっぱり矢野やと思ってる。今までのことがあるから」

「あるいは、そういう矢野を利用して、東条組がやらせたのかも」

 一条が独り言のように言った。

「話は戻るけど、上島に西川の居場所を教えてからあんたはどうしてた?」

「上島のマンションを出て、自分のアパートにちょっと寄って、そのまま『ラプソディ』へ行ったわ。これからのことを考えて、その日で辞めたけど。その足で昔、会社勤めしてた頃の友達のところに転がり込んで──そのあいだに一度東条組の幹部と連絡を取った。向こうの反応を見ようと思って。案の定、ものすご焦ってたわ」

 その電話を受けて矢野が杏子のアパートを荒らしたのかと芹沢は思った。そしてどうやら杏子はそれを知らないようだ。芹沢は今、ここで言ってやろうかと思ったが、もう少し様子を見ることにした。

「で、結局横浜へは行ったんだな?」

「ええ。もう一枚の新幹線のチケットは上島が持ってるからヤバかったけど、別の日に変更して、とりあえず乗ったわ。とにかく、大阪を出ることが先決やった」

「横浜へ行ってからのことだけど」

「それはそっちの女刑事さんに喋ったわよ」

 そう言うと杏子は一条を顎で示した。一条はしばらくのあいだ腕組みしたまま杏子を見つめていたが、やがて口を開いた。

「東条組とは電話で二度交渉したらしいわ。それで昨日の五時に、現金三千万持って大阪からやってくる組員と取り引きする手筈になってたのよ」

「東条組のやつ、鉄砲弾を寄越したんやてね?」

 杏子は顔をしかめて芹沢と鍋島を交互に見た。「そんなことやろうと思て、鍵を持ち歩くのをやめたのよ」

 そんな危なっかしい物を我が子に預けるとは何ごとや。鍋島は相当頭にきていた。そしてふと芹沢を見ると、彼も同じ気持ちらしく、机に置いた左手で固く拳を作っていた。

 そんな二人の心中を逆撫でするように、杏子は椅子にもたれかかり、足を組みかえて言った。

「それで? あたしはいつ解放してもらえるのかしら?」

「……あんた、自分が何やらかしたか分かってるのか」

「さあ。何をしたって言うの?」

「銃刀法違反、恐喝もしくは恐喝未遂──」

「どれも立証は極めて難しいけど」一条がひとりごちて苦笑した。

 その通りだった。拳銃の入ったケースを杏子が持ち歩いていたわけではないし、ロッカーの鍵にしても、西川から預かっただけで中身は知らなかったと公判で主張されればそれまでだ。それを覆す恐喝にしても、された側の東条組が認めるはずもない。つまりは彼女の言うとおり、何もしていないのと同じだった。

「せやから事情聴取に留めてるんや」

「あんたたちがどんな罪を持ち出そうと勝手やし、それが仕事なんやろうけどね。結局、あたしは何も得してへんのやから、捕まるなんてありえへんわ」

 そう言うと杏子は三人の刑事を見回した。「それで? いつ釈放してくれるの?」

「釈放も何もないよ。今言ったみたいに、あんたを逮捕できるわけでもないから」芹沢は言った。「どうぞ。いつでもお帰りください」

「また来てもらうとは思うけど」鍋島が付け加えた。

「何よ。ご協力ありがとうのひとことぐらいあってもええのと違うの?」

 杏子は呆れたように首を振り、溜め息をついた。「ほんまに警察ときたら、いつも偉そうなんやから」

「──あんたなあ」芹沢は顔を上げた。「さっきから聞いてりゃ好きなこと言ってるけど、自分のやったことが正しいことだとでも思ってるのかよ? 確かに、あんたのやったことは逮捕したところで起訴できるかどうかは怪しいけど、こっちとしちゃまるで感心できねえんだ。このままでは済まされないと思っといた方がいいぜ」

 杏子はふてくされて芹沢から顔を逸らせた。

「それに、あんたの口からまだ子供らの話がひとことも出てきてへんのも気に入らんな」と鍋島。

「そうだよ、心配じゃねえのかよ。亮介と菜帆が今どうしてるか」

「刑事さんらが何も言わへんところを見ると、元気なんでしょ」

 杏子は笑いながら言うと新しい煙草に火を点けた。「──あの子ら、馴れてるのよ。アパートで待ってることには」

「アパートの部屋、矢野に滅茶苦茶にされちまったぜ」

「えっ──?」

「あんたが亮介に鍵なんか預けるからだろ」

「あら、ほないまはどこにいるの? 大家さんのとこ?」

 杏子はなおも平然と言って煙を吐いた。

「……消せよ、煙草」芹沢は杏子を睨んだ。

「どうしてよ?」と杏子は眉をひそめた。「あんたが吸ってもええって言うたのと──」

「だったら今、撤回するよ。あんたの吐く煙は特別気分が悪くなる」

「何よ、失礼な──」

「いいから消せってんだ!」

 芹沢は握り締めていた拳で机を叩いた。「口答えできたガラかよ?」

 一条は芹沢の激高ぶりに驚いていた。彼とつき合いはじめてまだ二ヶ月ほどしか経っていないとはいえ、大きな声を出した芹沢など見たことがなかったし、また見ることもないだろうと思っていたのだ。

「……あんたのガキは今、俺のとこにいるよ」

 芹沢は苦々しく笑って言った。

「へえ、悪いわね」

 杏子は灰皿に煙草を押しつけながら無感情に言うと、芹沢を上目遣いで見上げて小さく笑った。

「菜帆なんかさぞ迷惑なんやない? 耳が聞こえへんわ喋れへんわ──」

 杏子がそう言い終わるが早いか、芹沢は彼女の頬を張り倒した。

「ちょっと、貴志──」

 一条が思わず身を乗り出した。しかし、黙って腕を組んで見ていた鍋島が彼女と目が合うと一度だけ首を振ったので、一条は座り直した。芹沢が女性に手をあげたのを見たのは、もちろんこれが初めてだった。

「何すんのよ……」

 杏子はぶたれた頬を押さえて芹沢を睨みつけた。

「おまえ、それでも母親か」

「……そうよ。誰が何と言おうと、あたしはあの子らの母親よ」

「違うな。おまえは子供を置き去りにして、汚ねえ金儲けに夢中になってる最低の女だよ」

「それもこれも、みんなあの子らのためよ」

「何だって?」

「あたしはずっと前から、上島から逃げ出す機会を狙ってたのよ。だってそうでしょ? 母親がヤクザの女なんかやってる以上、あの子らはいつまで経っても幸せにはなられへんもの。今度のことは、ほんまに願ってもないチャンスやった。せやから、組からお金を受け取ったら、明日は真っ先にあの子らを迎えに行くつもりやったわ。豪華なマンションを借りて、菜帆をちゃんとした施設に通わせようって。もちろん亮介も学校へ行かせるつもりやった。それだけが逃げてるあいだの心の支えやったわ。ヤクザ相手に金を脅し取るなんて、怖くて何度も挫けそうになったけど、あの子らのことを考えたら怯えてる自分を奮い立たせることができたのよ」

「都合が悪くなったら子供たちのためなんて、ずいぶん勝手なこと言うのね」 

 一条が言った。「そんなことより、子供たちにとってはお母さんに一緒にいてもらうことの方がずっと大切だったんじゃないかしら」

「あんたに何が分かるのよ?」

 杏子は少し目を潤ませて一条を見据えた。そしてすぐに芹沢に振り返ると、地の底から沸き上がってくるような低い声で吐き捨てた。

「……暴力警官」

「何とでも言え」

 芹沢は立ち上がり、冷たい眼差しで杏子を見下ろすと小さく笑った。

「何なら、今度はそのでっけえオッパイに一発ぶち込んでやってもいいぜ」

 そう言うと芹沢は部屋を出ていった。

 一条は彼のそんなに汚い言葉を耳にしたのも、やっぱり初めてだった。彼女は顔をしかめて腕を組み、短い溜め息をついて俯いた。

 杏子も腹立たしげに肩を怒らせて息を吐いた。そして鍋島に顔を向けると、明らかに憤慨しているのだという表情で彼を見つめた。

 鍋島は何食わぬ顔で肩をすくめ、ドアに手を差し伸べて言った。

「終わりですよ」




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