プロローグ 家庭の事情

 夜になって、縁側の網戸からは涼しい風が流れてきていた。

 部屋から漏れる明かりでぼんやりと浮かび上がった小さな庭のどこかで、鈴虫がさかんに羽根をこすり合わせている。あたりはひたすらに静かで、遠くで鳴る救急車のサイレンの音が聞こえていた。


「──お父さん、今日であたし、無事にお勤めを終えてきたから。五年間、無理言うて仕事してお父さんやお祖父ちゃんに迷惑掛けたけど、今日で退職して、これからお嫁入りまではうちにいるから、何でもあたしに言いつけてね」

 白いスーツ姿の娘は、居間の座卓の前に正座すると父親の背中に向かって話した。長い髪に真珠の髪飾りをつけ、まだ自然な化粧が似合う年頃をしていた。

 父親は老眼鏡を小鼻の上までずらし、黙って新聞を読んでいた。娘の言葉が聞こえていないはずはなかったが、すぐには何も答えようとしなかった。

 五年間の勤めを終えた娘にかけてやる慰労の言葉を選んでいるのか、そもそも言うことが思い当たらないのか、微動だにしない背中からは伺い知ることができなかった。

 引き戸を開け放った隣のダイニングでは、息子が背の低い食器棚の上に置かれたテレビでナイター中継を見ていた。

 画面を見つめたまま煙草を吹かし、居間の妹と父親には関心のないふりをしていたが、しっかり視界の端には入れていた。そして、あんな風にちゃんと挨拶しているのだから何とか言うてやればいいのにと、相変わらずの父親に対していつもの否定的な感情を胸の中で膨らませたり萎めたりしていた。

「あ、ただね、お父さん。来週の土曜から三日間、軽井沢に行くことになってるの。せっちゃんとあや子が、独身最後の思い出に三人で旅行しようって、計画してくれたから」

 父親は小さく頷いただけで、黙ったままだった。

「──何とか言うてやれよ」

 とうとう息子が口を挟んだ。テレビを見ていたので、父親が頷いたのを見逃していたのだ。

「やかましい、黙っとれ」

 父親は新聞に目を落としたまま息子に言った。

「……照れ隠しか」

 息子は鼻先で笑って食卓の缶ビールを手に取った。

「何やと?」

 と顔を上げた父親は老眼鏡を外して座卓に向き直り、隣の部屋の息子を睨みつけた。

「何で何も言うてやらへんのや」

 息子が振り返った。反抗的な丸い目に気の強そうな眉をした少年のような顔つきが、クリスマスで三十歳になるという実際の年齢を判りにくくさせていた。

「黙っとれと言うたやろ。それにだいいち、何で今日はここにおるんや」

「実家に帰るのにいちいち理由が要るんか」

「当たり前や。緊急の呼び出しがかかるかも知れんのに、理由もなしにアパートを留守にするもんやない。刑事になって三年にもなろうかってのに、まだそんな自覚のなさでどうする」

「とうの昔に退職したくせに、利いた風な口を叩かれとうないな。俺はあんたの部下やない」

「おまえは、親に向かってなんちゅう口の利き方を──」

「今さら父親面はやめてくれ」

 そう言うと息子はリモコンでテレビを消して立ち上がり、ビールの缶を流し台に置いて妹に振り返った。

「やっぱり俺、帰るわ」

「お兄ちゃん、そんなこと言わんといてよ」

 娘はちょっと怒ったような口調で言うと兄と父親の二人を見比べた。

「お父さんもよ。今日、お兄ちゃんを呼んだんはあたしやの。あたしが今日でお勤め終えたってことの報告を、お父さんとお祖父ちゃんと、それからお兄ちゃんにもきちんとしたかったの」

「……そうか」

 父親は自らを納得させるように小さく頷くと咳払いを一つした。

 息子はまた椅子に腰を下ろし、煙草を抜いて口に挟んだ。ライターで火を点けると、長い煙を吐きながら居間の二人にやや背を向けるようにして頬杖を突いた。

 父親が娘に言った。「それで、準備の方は進んでるのか?」

「どっちの? 式の方? 支度の方?」

「いや、両方」

「式はまだあと二ヶ月以上先やから、今のところは何も。もうすぐ招待状が刷り上がると思うけど」娘は答えた。「お嫁入り支度の方は、今まで土屋つちやの伯母さんにある程度お任せしてたけど、これからはあたしも一緒にやるつもり」

「そうか」と父親は俯いた。「お母さんがいてへんと、何かと不都合やろ」

「何言うてんのよお父さん。お母さんが昨日今日に亡くなったわけやないのに。もう十六年も経ってんのよ。あたし、ちっとも不都合やなんて思てへんから」

 父親は娘の顔をじっと見つめ、頷いた。「伯母さんには、わしからもよう頼んであるしな。安心して任せなさい」

「分かってる」娘はにっこりと笑った。


 鍋島なべしま家は父子家庭だった。長男の勝也かつやが中学一年のとき、母親は長い闘病生活に暗い幕を下ろした。長女の純子じゅんこはそのときまだ九歳だった。

 日頃から決して良き家庭人とは言えなかった警察官の父親は妻の死に目にも立ち会わず、葬式のあともすぐに子供たちを自分の父親に任せて仕事に打ち込んだ。

 それが妻を亡くした哀しみを紛らわすために彼が取りうる唯一の方法だったのかも知れないが、まだ子供だった勝也の目には薄情な父親と映った。そして彼はこのとき、それまでで最も強い憎悪を父親に覚えた。

 しかし自分よりももっと幼くして母親を失った哀れな妹の姿を見ると、彼は自棄やけを起こすことができなかった。自分もまだ母親の恋しい年頃だったのに、妹のために気持ちを抑え、祖父とともに彼女の母親がわりになったのだ。それと同時に、自分は将来決して父親のような男にだけはなるまいと、はっきり意識して心に決めたのもこのときだった。

 そんな兄妹も今や立派に成長した。勝也は大学を卒業後、結局は父親と同じ警察官の道を選んだ。豊中とよなか市のこの家を出て、大阪市内で独り暮らしをしてもう六年が過ぎる。仕事でもそこそこの早さで巡査部長に昇格し、刑事としてもそろそろ迷いがなくなってきた頃だった。

 純子は五年前に短大を卒業して、就職した会社で知り合った男性とこの十一月に結婚を控えている。今日一杯で会社を辞め、残りの二ヶ月は結婚準備に専念するのだ。

「──そうやお兄ちゃん、麗子れいこさん、披露宴に出てくれはるかな?」

「え?」勝也は振り返った。「おまえの披露宴に、何で麗子が?」

「せやかて、麗子さんもいずれお兄ちゃんと結婚するんでしょ」

「結婚?」父親が驚いて勝也を見た。「そんな話、わしゃ何も聞いとらんぞ」

「お父さん、ほら、前にあたしが言うてたやん。お兄ちゃんが麗子さんとつき合うてるって」

「それは聞いたが──」父親は再び勝也を見た。「結婚するのか?」

 勝也は頬杖をついたまま首を振った。「まだ何も決めてへん。向こうの両親にも学生の時以来会うてないし」

「ということは、まだ断られる可能性もあるということか」

「大丈夫よ。お兄ちゃんと麗子さんラブラブやから」

「純子、要らんこと言わんでええ」勝也が言った。

「ほんまか?」と父親は目を丸くして純子に振り返った。

「うん」

「……分からんもんやな」

「何が」勝也は父親をちらりと見た。

「あれだけ美人で頭がええと、やっぱりどっか変わってるんやな」と父親は苦笑した。「おまえみたいなの男がええとは」

「それがあんたの息子やからな」

「今さら父親面するなと言うたのはどこの誰や」

 父親は言うと新聞を持って立ち上がった。「同じように年頃の娘を持つ身として、ご両親に同情する」

「……何とでも言え」

 父親は居間を出ていった。純子は溜め息をつき、呆れたような眼差しで隣の部屋の兄を見つめた。

 その視線を感じ取ってか、勝也はゆっくりと振り返って言った。

「結婚しても、旦那をあんまりここへ連れてくるなよ」

「大丈夫よ」

 純子はちょっとふてくされながら答えた。



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