大阪府西天満にしてんま警察署はその名の通り、大阪市北区の西天満にあった。

 人口一人あたりの犯罪発生件数が東京のそれを凌ぐという、西日本最大の都市・大阪の中心部の一角に位置してはいるものの、いわゆる「花形署」ではなかった。

 花形署とは、同じ北区にある隣の管区の東梅田ひがしうめだ署のように、キタの交通ターミナルとその周辺に広がる繁華街や地下街、ビジネス街、歓楽街をすっぽりと管内に呑み込み、それらが生み出す犯罪のおかげで捜査員全員が慢性的な睡眠不足に悩まされているような警察署のことを言うのであって、西天満署は決してそこまでの署ではなかった。

 庁舎にしても、東梅田署が大阪の大動脈と言われる御堂筋みどうすじの起点に建つ十一階建てのスマートなビルなのに対して、西天満署は御堂筋を数百メートル東に入った堂島どうじま川沿いにあるこじんまりとした五階建てで、法務局や弁護士会館、威厳ある裁判所などに囲まれて、すっかり小さくなっていた。

 それでも日常的に起こるひったくりや交通事故、小規模な火事、暴力団同士の小競り合いには事欠かなかったし、大阪の夏の風物詩・天神祭は西天満署の管内で行われ、そのときはさすがに署員全員が過酷な労働を強いられる。それから有名な曾根崎新地そねざきしんちも西天満署の所轄区域だ。

 つまり西天満署は、世間の注目度や設備待遇では決して恵まれてはいないが、大都会のど真ん中に位置するに値する役割は充分に果たしていると言って良かった。


「──マンション?」

 鍋島勝也は思わず声を上げた。「おまえ、いつのまにそんな……」

「まあ、一種の棚ボタってやつよ」

 相手は得意そうに答えた。鍋島の隣のデスクで頬杖をつき、にやにや笑っている。涼しげな瞳に精悍な眉、先がちょっと上に反り返った鼻がいかにも生意気そうだ。透明な肌が神経質そうにも見えるが、なかなかどうして、かなりの男っぷりである。名前は芹沢貴志せりざわたかし、鍋島と同じく若くして巡査部長の階級にあり、そして彼の相棒でもあった。

 二人が大阪府警に入ったのは一年違いだった。しかし一浪して大学に入った鍋島の方が二つ年上で、そのくせ童顔で身長165cmの鍋島の方が若く見えるときもある。芹沢は身長が179cm、空手三段の腕前のおかげで上半身ががっしりしており、服装もラフな感じ──と言うより、構わなさすぎる感じ──の鍋島とは対照的に、華美ではなかったがさり気なくファッショナブルだった。彼は自分の顔立ちの良さと恵まれた体格の価値を充分に理解しており、またそんな自分がそれなりの格好をすれば異性に対してどんな効果があるのかも、良く知っているのだった。


 二人は今、約三年前からの職場である西天満署の二階にある刑事課のデスクに着き、宿直の勤務を開始したところだった。時計は午後五時をまわったばかりで、捜査員の他に連行された容疑者、被害者、その両方の関係者などでごった返している昼間の喧噪から少し落ち着きを取り戻し始めた頃だった。

「棚ボタってことは──宝くじとかか?」

 鍋島は怪しげな眼差しで芹沢を見た。「知らんまにそんなん買うてたんか」

「俺が宝くじなんて買うと思うか?」芹沢は言った。「先月、姉貴夫婦が親父から正式に店を受け継いだんだ。そのとき親父が俺にも財産分けしてくれたのさ。俺の取り分だってよ」

「生前贈与ってやつか」

「ああ。店は姉貴たちがやってるわけだから、この先親父が逝っちまったあとで俺があれこれ言い出さねえようにってさ」

 福岡県福岡市にある芹沢の実家は四代続いた酒屋で、現在は酒販会社となっていた。しかし五代目の芹沢は家業を継ぐのが嫌で東京の大学に進学し、卒業後も思うところがあって大阪府警に入った。会社は二人いる姉のうち長姉の方の夫が脱サラをして父と一緒に切り盛りしていたが、数年前から重労働が過ぎて身体が思うように動かなくなった父が、引退して長男に跡を譲りたいと言い出したのだ。

 しかし芹沢にはその気がなかったし、何より脱サラまでして会社を守ってくれた義兄に申し訳ないと思ったので、結局彼は首を縦に振らなかった。

「ええのか、それで」と鍋島は言った。「おまえも迷ってたんと違うんか。刑事なんかやってたって嫌なことしかないとか言うて」

「仕方ねえよ。いまさら俺が帰ったって、あの店のために何ができるって言うんだ」

「何もできひんでも、まずは親父さんとおふくろさんが喜ぶやろ」

「親父たちが喜んでも、兄貴は喜ばねえさ」

 と芹沢は顔を曇らせた。「東京本社の部長職に栄転って大出世を目の前にして、会社を辞めたんだぜ」

「……そうやったな」

「正直言うと俺だってこれっぽっちも未練がないってわけじゃねえ。酒屋の主人ったって、一応は三十人ちょっとの従業員を抱える株式会社の社長には違いねえんだしよ。でも実際俺はここでこうやって刑事をやってるわけだし、まだ辞めるつもりもないしな。だから、いっそのこと金をもらっちまえば、もう後へは引けなくなると思ったんだ」

「なるほどな」と鍋島は頷いた。「ほんでこっちにマンション買うたってことか」

「それが、聞いてくれよ。最初に親父から金額を聞かされたときは、『これでポンと買えるぞ』って思ったけど、何のこたぁねえ、贈与税がっぽり持って行かれちまってよ。残った分は僅かでさ。福岡じゃどうだか知らねえけど、大阪じゃ頭金に毛の生えた程度さ」

 芹沢は顔をしかめた。「結局、残りは全部ローンだ。まったく、ロク

「どうせその税金でメシ食うてるんやから、文句も半分ってとこやろ」

 鍋島は笑って言うと煙草を口に挟んだ。「で、どんな物件や」

「この夏に出来たばっかりの新築さ。3LDKで、六帖の和室、七帖と十帖くらいの洋室、それに二十帖のリビング・ダイニング。キッチンは四帖くらいあるかな。十五階建てで、俺んちは七階の南東角さ」

「すごいな。場所は?」

天六てんろくから徒歩二分」

「管内やないか」

「いや、それが違うんだ。天六でも北側だから、住所は本庄東ほんじょうひがしになるんだ。ギリギリ豊崎とよさき署の管内さ」

「親父さんからなんぼもろたか知らんけど、そら即金で買うってわけには行かんやろ」鍋島は煙を吐いた。「おまえ、これで一生警察は辞められへんな」

「ああ、退職金と恩給だけが老後の頼りだよ」

 と芹沢は言った。「おまえも早めに手を打っといた方がいいぜ。いつまでも安値が続く保障はないし、金だって今が借り時だ」

「俺のどこにそんな大金があると思う? 俺の親父はおまえんとこみたいにでかい店なんか経営してへんしな。豊中のあの家が唯一の財産や」

「でも、おまえだってそろそろ結婚するんだろ? 貯めとくに越したことねえぞ」

「それがどれほどの足しになるのか、考えもんや」

「あ……ところで、ものは相談なんだけどよ」

「借金抱えたから金貸してくれなんて言うなよ」

 と鍋島は芹沢を一瞥した。「だいたい、おまえは服と女に金をかけ過ぎなんや。二十八にもなったんやから、ええ加減に落ち着け」

「服に金なんかかけたことないぜ。そう見えるのを選んでるだけさ」

 そう言うと芹沢は急にバツが悪そうに笑った。「女のコは……あれはまぁ、金をかけてるんじゃなくて、何となくかかるんだよ」

「普通に一人とだけつき合うてたら、そうもかからんと思うけどな」

 鍋島は灰皿で煙草を潰した。「おまえ、彼女が遠距離にいるのをええことに、またあちこちでつまみ食いしてるやろ」

「別に意図的にやってるわけじゃねえさ。だいたいこの歳になって、特定の相手とだけしか遊びに行かねえって方が不自然だぜ。ただ……結果として予想外なことも起こるわけでさ」

「おまえの遊びに行くっていうのはな、メシ食うて飲みに行って、そこで終わりなんてのは絶対にないんや。必ずベッドまで行ってフルコースなんやろ」

「人聞きの悪いこと言うなよ。そんなことするかよ」

「どうでもええから、相談ていうのは何や」

「あ、そうそう。明日なんだけど」

「俺は予定があるぞ」鍋島は即答した。

「そう言うなよ。デートか? だったらその前でもいいいからさ」

「ええからはっきり言え。何があるんや」

「引っ越し、手伝ってくれねえか」

「アホ言え」

 鍋島はまさかと言わんばかりに笑った。しかしすぐに真顔になると、芹沢に冷たい視線を投げかけて言った。「業者に頼んでるんやろ。それで充分やないか」

「頼んではいるけど、なにぶん経済的に済ませようと思ってるからさ。荷物が運び込まれた後は自分で解いてかなきゃならねえんだ」

「何日もかかってやったらええやないか。だいいち、荷造りのときは一人でやったんと違うんか」

「それでうんざりしたんだよ」

「おまえが自分の荷造りでうんざりしたって言うんやったら、俺はどうなる?」 

 鍋島はすかさず言い返した。「……ったく、自分勝手も甚だしいぞ」

「そう言わずに頼むよ。な?」芹沢は顔の前で手を合わせた。

 鍋島はむっとした表情で舌打ちすると、彼の話し方の特徴をあえて強調するように、低くこもった声でぶっきらぼうに言った。

「……ご祝儀弾めよ」

「ああ。その代わり引越祝い頼むぜ」

 芹沢はにやりと笑って片目を閉じた。

「おまえなあ──」

「ええ加減にせえ、おまえら」

 後ろで低い声がした。二人は思わず目を閉じ、そして僅かだけ振り返った。

 立っていたのは刑事課長の植田匡彦うえだまさひこ警部だった。二人の後ろに並んだデスクの端にもたれかかり、腕組みをして目の前の部下を睨みつけている。四十三歳という年齢の割にはどこかまだ青年のような若々しさがあり、そしてその割には中年肥りが進行していた。

「……二人とも、何しにここへ来てる?」

 課長はわざとらしく穏やかに言った。

「すいません、つい──」

「さっきから黙って聞いてたら、えらい景気のええ話やないか」

 と課長は苦々しく笑った。「親の跡も継がん息子に市内でマンションが買えるほどの大金をくれてやるとは、芹沢、おまえもよくよくありがたい親を持ったもんやな」

 はあ、と芹沢は口を歪めて笑った。

「その分ここでたっぷりと働いてもらうぞ。親孝行の代わりやと思え」

 課長は二人を交互に見た。「夜勤やからって、ただ座って通報を待ってるようなことやから、どんどん仕事が溜まっていくんや」

 二人は力なく頷いた。

「まったく。まさにおまえらみたいなのを税金ドロボーって言うんやな」

 課長は吐き捨てるように言うと、廊下と刑事部屋とを仕切るカウンターへと歩いて行った。

「あれだけ納めたんだから、ちょっとくらい還元してもらったってバチは当たらねえよな」芹沢が小声で言った。

「芹沢!」

 課長が振り返った。

「アホ。地獄耳やってことを忘れたんか」鍋島もさらに小声で囁く。

「そんなことやからおまえらは署の連中に他の巡査部長と差別されるんや!」

 そう吐き捨てた課長が部屋から出ていくのを見送った後、芹沢は舌打ちして言った。

「何怒ってんだよ、あのおっさん。差別されてるのは俺たちだぜ。あのおっさんがカリカリするこたぁねえじゃねえか」

「いろんなとこから嫌味言われてるらしいぞ。三十六人の部下のうち、警部補が四人に巡査部長が十二人もいてるなんて、西天満署刑事課は精鋭揃いやて」

「いいじゃねえか。その嫌味が噂になって、事件が起こるたびにの連中に首を突っ込んで来られていいようにされちまって、顎で使われる俺たちから文句が出るなんてこともめっきり少なくなったんだから」

「その割には俺らが間抜けやとでも言いたいんやろ」

「よく言うぜ。こっちだっていざとなったら命張ってるのによ」

「命張ってる人間が、退職金と恩給を老後のあてにするか?」

「それはそれ、これはこれだよ」

 と芹沢はにやりと笑った。「鍋島。俺たちゃ何のためにお巡りになったんだよ。公務員によ」

 そんなことのために警官になったんと違うくせに、と鍋島は心の中で呟きながら肩をすくめた。


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