翌日、朝の十時から始まった引越しは好天に恵まれて順調に進み、すべての荷物を新しいマンションに運び終えた引越し業者が帰っていったのは午後一時を過ぎた頃だった。

 鍋島は芹沢と約束しておいた午後二時を少しまわった頃に新居に現れた。  

 マンションは明るいベージュ色を基調としたタイル張りで、一階の一角には美容室と花屋のテナントが入っていた。鍋島はそれらの店とは反対の道路沿いにある幅広い階段の下に立ち、この上品な集合住宅を見上げた。

 各階のバルコニーはゆったりと広く設けられており、その幾つかからは色鮮やかな鉢植が覗いていた。鍋島は視線を落とし、正面を見た。

 階段の先には広いエントランス、そしてその奥の大きな一枚ガラスの自動ドアの向こうに吹き抜けになっているらしい中庭が見える。

 大阪の真ん中でこれほどのマンションに住むとなると、いくら好景気と呼ぶにはまだまだだと言われる現在でも、3LDKならまず五千万は堅いところだろう。並みのサラリーマンはおろか、ちょっとした会社の管理職でも簡単には手を出せないのではないか。ましてや二十代の公務員が買うなんてのは夢のまた夢だ。

 ──ちくしょう、芹沢のやつ、親父さんから最低でもマンションと同額はもらってるはずやな。それでも半分近くは税金で持って行かれて、残りは結局借金か。

 鍋島は相棒の懐事情を計算しながら溜め息をつき、エントランスへと続く階段を上がった。


 部屋に入った鍋島は直ちに荷解ほどきに加わり、おおよその収納を終えた夕方には部屋はそれなりの格好がついていた。

「これでだいたいは済んだかな」

 廊下からダイニングへと入るドアの前に立ち、芹沢はまだ空間の目立つ部屋を眺め渡して言った。

「後は追々片付けて行けよ」鍋島が和室の戸口から顔を出した。

「ああ」

「それにしても、一人で住むには広すぎるな」

「前の部屋の倍以上はあるからな。でも、このためにひたすら働き続けなきゃならねえと思ったら、決して広すぎるわけでもないぜ」

「そうやな。それに、家族が増えたらちょうどかな」

「俺は独りでいるさ」

 芹沢はキッチンに入ってシンクの蛇口を捻った。

「そうか? こんなとこにずっと独りでいるのも淋しいもんやで。さっき来るときに何気なく見たけど、この階で独りもんはおまえぐらいと違うか」

「関係ねえよ、そんなこと」芹沢は平然と言った。「それに、ここはプレイスポットへのアクセスもいいからな」

「そういうことばっかり考えてるんやな、おまえは」

 鍋島は呆れたように芹沢を見て頷くと、キッチンのカウンターに置かれた電話の前に行って受話器を取った。

「どこに掛けるんだよ?」

」鍋島は通話スイッチを入れた。「この際言いつけてやる」

「やめとけよ、見え見えの芝居は。の携帯の番号なんて知らねえくせに」

「携帯になんて掛けへんよ」

 鍋島は番号を押して耳に当て、にやりと笑った。「番号案内に問い合わせて、に掛けるんや」

「よせよ──!」

 芹沢は慌ててカウンター越しに受話器を取り上げ、スイッチを切った。

「シャレや、シャレ」

「……シャレになるかよ」

 芹沢の恋人は神奈川県警の刑事だった。三ヶ月近く前、彼女が強盗を追って大阪へやって来たとき、西天満署刑事課が協力したのがきっかけで芹沢と恋に落ち、つき合い始めたのだ。

「それやったら言わせてもらうけどな」と鍋島は真顔になった。

「何だよ」

「俺も、ガキやないから他人の女癖をとやかく非難するつもりもないし、野暮なことも言いたくないけどな──」

「今さら遠慮か? ガラにもねえ」

「離れてつき合うてると会うこともままならへんし、つい他の女に目移りするのも分かる。そうやなくてもおまえはマメやからな。ただ……問題はそのやり方や。昨日も言うたけど、おまえの場合は場合によっちゃフルコースメニューや。いくらなんでも、決まった相手のいる今はもうそれはやめとけよ。知らんからええようなものの、一条いちじょうが可哀想や」

 芹沢の彼女の苗字は一条と言った。

「分かってるよ。それに、フルコースはない。嘘じゃねえ」

「それが当たり前や」と鍋島は言った。「さあ、メシでも奢ってもらおかな。ほんまのフルコースでなくてええから」

「おまえとそんなの食いたかねえよ」

 芹沢は溜め息混じりで言うと笑った。


 マンションは地下鉄の天六(天神橋筋六丁目)駅にほど近く、芹沢の言うとおり立地条件は良かった。二人はマンションの筋向かいにあるオフィスビルの地下の寿司屋で食事をし、その後隣のビルのバーで酒を飲んだ。九月に入ってもまだ日中は蒸し暑く、今日のように力仕事をするとあっという間にたっぷりと汗を掻いた。しかし夜になるとその暑さも幾分衰え、二人がバーを出た十時頃には、外では透き通った初秋の空気が流れていた。

「──さてと。ほな俺、帰るわ」

 交差点の前で鍋島が腕時計を見て言った。

「悪かったな。デートのキャンセルさせて」

「そう思うんやったら、最初から頼んでくるなよ」

 鍋島は笑いながら言うと前に伸びた横断歩道に足を踏み出した。

「じゃあな」

「ああ」

 そのとき、横断歩道の向こうから一人の少年が走ってきた。胸のあたりで腕を組み、少し俯き加減で全力疾走してくる。そして同じように下を向いて歩き始めた鍋島の腕に肩をぶつけると、バランスを崩して前のめりに倒れた。

「大丈夫か?」鍋島は少年に近づいた。

 六、七歳くらいのその少年は何も言わずに立ち上がり、転んだ拍子に抱え込んでいた両腕からこぼれ落ちて車道に散らばったインスタントラーメンの袋やレトルト食品を拾い始めた。

「おい、危ねえよ。信号が変わっちまう」

 舗道にいた芹沢が声を掛けた。

 しかし少年は相変わらず黙ったままで、夢中で地面に這いつくばっている。鍋島と芹沢は仕方なく彼を手伝った。

「ほら、これで全部や」

 鍋島は少年を舗道に引き入れ、拾った食品を差し出した。

「怪我ないか?」

 少年は二人を見上げた。真っ黒に陽灼けした小さな丸顔で、同じように丸い黒目がちの瞳を大きく見開いている。団子鼻が腕白そうだった。

 そして彼は鍋島の手から食品をひったくるとくるりと背を向け、再び全力で走り去った。

「ちぇっ、何やあれ?」鍋島は舌打ちした。「自分からぶつかって来といて、何の挨拶もなしか」

「よっぽど腹が減ってんじゃねえの」と芹沢が言った。「こんな時間にあんなガキが独りでうろうろしてるなんて、親は何やってんだろうな」

 すると、今さっき少年が走ってきたのと同じ方向から、今度は三十代半ばの男がこちらに向かって走ってきた。太めの身体を重そうに揺らして、黒縁の眼鏡を小鼻のあたりまでずらしている。やがて横断歩道の前まで来ると速度を落としたが、目の前の信号が青なのを確認するとまたすぐに走り出した。

「……解った。ガキが急いでたのはあれが原因だな」

 芹沢は走ってくる男を見ながら言った。

 鍋島も男を見た。そしてすぐにその意味を理解した。男はひと目見てそれと分かる、有名なコンビニの制服を着ていたのだ。

「す、すいません……!」

 男が二人に声を掛けてきた。「今、こっちに男の子が来ませんでしたか?」

「来たけど、行っちまったぜ」

 男は二人の前まで来ると立ち止まり、息を弾ませた。

「……どっちへ?」

「あっち」と鍋島は自分の後ろのビルの角を指差した。「けど、もうずっと先へ行ってしもてるで」

「ちくしょう……」

「派手にやられちまったってとこみたいだけど」芹沢は男に言った。

「ああ、迂闊やった」男は言うと首を振った。「こっちが別の客の相手してるうちに、ごっそり持っていきよった」

「そいつは気の毒に」

「どこの子供か、分かってんの?」

 と鍋島が訊いた。職業柄、つい尋問癖が出る。

「いや、分からん。見たこともない顔やった」

「おたくの店はどこ?」芹沢も尋問癖を出した。

「二筋向こうのコンビニ」

 男は親指を後ろに向けた。しかし二人の顔を眺めると、怪訝そうな表情を浮かべて言った。「あんたら、何モンや?」

「いや、別に。俺たちもあのガキにぶつかってこられて、腹立ててるもんでね」

「ああ、そうか。……ったく、油断も隙もない」

「盗んでったものって、インスタント食品ばっかりやったよな」

「そや、見たか?」男は鍋島に向き直った。「きっと、親が仕事か何かで留守なんや。それでこの時間になって腹が減って──」

「それにしたって、家に食い物くらい置いといてやりゃいいのにな」

 男はとんでもないとでも言いたげに顔の前で手を振った。

「親がちゃんとしとったら、子供があないなるかいな。子供と親は合わせ鏡やからな」

「だとよ」

 芹沢は言うと鍋島に振り返った。鍋島は面白くなさそうに口を歪めた。

 やがて男は「今度見つけたら、ただではおかん」と呟きながら疲れた足取りで来た道を戻っていった。鍋島ももう一度芹沢に別れを言うと、横断歩道を渡って天六方面へと向かった。残った芹沢は鍋島とは違う横断歩道を渡り、越してきたばかりのマンションへと帰っていった。




 少年はまだ走り続けていた。盗んだ食品を両手でお腹の辺りに押さえ込み、ビルの間の路地を通り抜けていく。路地が表通りにぶつかるとぐっと速度を落とし、人目を盗むように通りに出る。やがて上手に人の流れに紛れ込むと、今度はゆっくりと歩き出す……。

 こんなことを彼はもうひと月近くも続けていた。






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