2(前)


「──滝川さんでしょ?」

 マンションを出て二、三歩進んだところで突然声をかけられ、滝川は驚いて足を止めた。

 声のした方に振り返ると、焦げ茶色のペンキを塗った舗道の柵に座っている二十五、六歳の見たことのない小柄な男が、人懐っこそうな笑顔でこちらを見ていた。

「……誰や?」

 滝川は言うと咄嗟に身を退いた。どこかの組の鉄砲玉だと思ったのだ。

「あ、心配せんといてください。そんなんと違いますから」

 男は言った。「ちょっと話を聞いてもらいたいだけなんです」

 それでも滝川は後ずさりをやめなかった。女のところに行くからと言って、つい一人の子分もつけずに来たことを、今になって後悔していた。

「誰なんや?」滝川はもう一度訊いた。

「話を聞いてくれはるかどうかで、ちゃんと言いますよ」

 滝川は訝しげに男を眺めた。男は相変わらずへらへらと締まりのない笑顔で滝川を見つめており、顎をリズミカルに動かしてガムを噛んでいる。真っ白のTシャツに煉瓦色のブルゾンを着て、黒のストレートジーンズとごつい革のカジュアル・シューズを履いていた。どうやら本人の言うとおり、滝川の命を狙いに来たのではなさそうだ。しかし自分の名前を知っているくらいだから、まるっきりの堅気でもないのだろう。さしずめ、キタかミナミの繁華街でゴロを巻いているチンピラで、組に世話になりたいので口を利いてくれとでも言ってくるのだろうと滝川は男を眺めた。

「何の話や?」滝川は低い声で言った。

 ところが男は意外なことを言ってきた。

「十一日の夜、十三の『グラント』ってスナックでの話のことですよ」

「何やて?」

 滝川は大きく目を開いたが、すぐに眉をひそめて男を見た。

「一緒にいて酔っ払ってたの、上島さんでしたよね。同じ東条組の」

 男はにこにこ笑ったままだった。「あのあと、木川の歩道橋へ上らはりませんでしたか」

「知らんな」

 滝川は男に言うと背を向け、歩き出した。なおも男はその背中に問い掛けた。

「上島さんの女が拳銃チャカの仕事を台無しにしたからですか?」

「貴様──」

 滝川は振り返ると男の前に出て、その胸倉を掴んだ。

「あ、俺をどうにかしようなんて考えへん方がええですよ。ちゃんと仲間がいてるんやから」

 男は少し体を反らし、右手を上げて滝川を制する仕草をした。

 滝川は目を細めて男を睨むと、ブルゾンの襟を掴んだ手を離して舌打ちした。

「早よ言え。何が狙いや?」

「それも俺一人では決められへんのですよ」

 男は襟を正しながら言うと腰掛けていた柵を下り、またにっこりと笑って滝川を見た。「一緒に来てください。うちの兄貴と話してもらいますから」

「どこへや?」

「すぐそこですよ。あの信号の向こうに車停めてあるんです」

 男は言いながら五十メートルほど離れた小さな交差点のすぐそばに停めてある小型の黒いセダン車を指差した。

「誘拐するつもりもありませんから。東条組の武闘派代表をさらうなんて、俺にも兄貴にもそんな大それた勇気ありませんねん」

 滝川は車を見ながら小さく頷くと男に振り返り、言った。

「おまえらの命は、その言葉と引き替えなんやと思とくんやな」

「……分かってますよ」

 男はわざとらしく身震いして肩をすくめた。

 ブルゾンのポケットに両手を突っ込み、肩を上下に揺らしていかにも軽薄そうに進んでいく男の少しあとを滝川は車まで歩いた。そして男が車に駆け寄り、助手席の窓を軽く叩いて、「兄貴、お連れしましたよ」と言って中の男をじっと見つめているのを眺めながら、滝川はとりあえずはこの連中がどこまで知っているのかを突き止めてから、この場を上手くやり過ごさなければならないと考えていた。この連中の正体なんぞは二の次だ。いずれは死んでもらうのだから。

 案内してきた男に促されて、滝川は後部座席に乗り込んだ。その男があとに続いてドアを閉めた。

「早速ですが、滝川さん」

 運転席の男が振り返った。明るい焦げ茶色のジャケットの中にライトベージュのストライプのシャツを着た清潔感の漂う男で、先の男より少し年上に見えた。その落ち着いた話しぶりから、かなり度胸も据わっているようだ。滝川は警戒した。

「まず言え。どこまで知ってる?」

「どこまででも」と運転席の男は答えた。

「何……?」

「だから、何でも知ってるって言ったんですよ」

 男は言うと勝ち誇ったように静かに笑って滝川を見た。

「あんたが兄貴分の山瀬の命令で矢野って男と二人で上島を木川の歩道橋へ連れて上がり、そこからトラックが走ってくるのを見計らって突き落としたこと。それだけじゃありませんよ。他にもいろいろとね」

「……何もんなんや、おまえら」

「知りたいか?」

「まあ、そうやな」と滝川は鼻で笑った。「こんなアホな人間がこの世にいたってこと、誰かが知っといてやらんとな」

「確かに、アホかも知れんな」と滝川の隣の男が苦笑した。

「ああ。怒りにまかせてこんなことしてるけど、実は結構ヤバいのかもな。そこんとこは、まだ自分たちでもはっきりと認識できてねえんだ」

 運転席の男は言うと、その瞳に激しい憎悪の炎を燃やして滝川を睨みつけた。

「西天満署刑事課の芹沢だ。そっちは鍋島」

「西天満署──」

 滝川ははっとして息をのみ、すぐに隣の男に視線を移した。

「一係や。おまえらとはあんまり馴染みがないやろけどな」

 そう言った鍋島は、すでに拳銃を抜いて滝川の首筋に突きつけていた。

「おまえら……」

「ヘタな抵抗はなしやで。これが空砲やなんて、そこまでめでたい脳味噌やないやろ?」鍋島は銃口を滝川のこめかみに押しつけた。

「案内しろ。山瀬のところへ」

「何をしようって言うんや」滝川は静かに言った。「こんな芝居じみたことをするところを見ると、令状フダの一つも取れてへんのやろ?」

「そんなもんは必要ないんや」

「何やて?」

「俺たちは、組と取り引きしたいのさ」芹沢が言った。

「取り引き?」

「そうさ。そういう交渉ごとは何でもまず山瀬に通さなきゃならねえんだって聞いてるぜ。それであんたに取り次いでもらいたくて、こうして荒手に出てるんだ」

「断る」

「断る?」鍋島は片眉を上げた。「てめえ、その高そうなスーツを血で汚されたいんか?」

「何とでも言え。うちの兄貴は、たかがそれくらいで取り引きに応じたりせん。おまえらにとったら殺しかも知れんが、こっちは組員に不始末の落とし前をつけさせただけや」

「まさか。こっちだってそんなつもりはねえよ」

 芹沢はシートに頬杖を突き、不適に笑った。「もっとでかいネタを掴んでるさ」

 滝川の表情が厳しくなった。「……焦らさんと言え」

「そっちの下を見てみろよ」

 芹沢は空いた助手席の足下を顎で示した。鍋島に銃でつつかれ、滝川は首を伸ばして芹沢の視線の先を覗いた。

 そこには、見覚えのあるアタッシュケースが、主人を待つ賢い犬のように静かに横たわっていた。

「ハッタリなんかじゃねえよ」

 呆然とそのケースを見つめている滝川に、運転席の芹沢は囁くような声で告げた。

「兄貴分に引き合わせてもらうには、結構な手土産やと思うけどね」

 鍋島は言うと手に握ったリヴォルバーの引鉄に指を掛けた。

「さあ、おとなしくドライブしような」





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