3(前)

 田所兄妹とともに西天満署で夜を明かした鍋島と芹沢の両刑事は、翌朝、まだ兄妹が眠っている間に近所のカフェで朝食を済ませた。本来なら九時から次の張り込み番が回ってくるはずだったが、子供たちを豊中の施設まで送り届けることになったので、二人は朝食後署に戻り、子供たちが目覚めるのを待った。そして十時前になって子供たちが目を覚ますと彼らにも食事を摂らせ、それから豊中に向かった。


 施設に到着してすぐ、兄妹は着替えのために職員に連れて行かれ、鍋島と芹沢は園長室に案内された。

 園長室では園長の他にもう一人、兄妹を最初にこの施設に連れてきた児童福祉課の小林が二人を迎えた。小林のどことなく自信のなさそうな表情を見た瞬間、刑事たちは直感的にいやな勘を働かせた。

「──お二人には、本当にお世話になりました」

 六十前後の見るからに温厚そうな園長が、にこにこと笑いながら二人を見て言った。

「仕事ですから」鍋島は極めて無感情に答えた。

「本来なら、昨夜もあの子たちが見つかった時点でこちらから迎えに行くのが筋やったんでしょうが、お二人がお気遣いくださったのでつい甘えてしまって」

「真夜中でしたからね。子供たちも疲れてましたし。こっちはいつでも二十四時間体制ですから」

「それにしても、二人が無事で良かったです。二人がいなくなったのに気づくのが遅かったので、もしやと思っていましたから──」

「あの、園長先生」芹沢が言った。

「はい?」

「俺たちに何か話でも?」

「いや、話というほどのことでも──」園長の笑顔に困惑の色が混じった。

「でも、何かあるんでしょう?」

 鍋島が言って、向かいに座った小林に振り返った。「わざわざ小林さんまで来られてるんやから」

 小林は困ったように園長の顔を見た。

「どういう事情なのかは分かりませんが、俺たちもあんまり時間に余裕のある方じゃないんでね」と芹沢。

「ああ、そうですね」

「はっきりおっしゃっていただいて結構ですよ。仕事柄、たいていのことでは驚きませんから」

「……分かりました」

 園長は咳払いをして、それから続けた。

「実は──さっきまで小林さんにもご説明申し上げていたんですが、うちではもうあの子たちを預かることはできないんです」

「は?」鍋島が思わず聞き返した。「何です、それ?」

「いや、ねえ……昨夜あんなことがあったんで……」

「あんなことって、逃げ出したことですよね?」芹沢は首を傾げた。「一度逃げ出したら、それでもう駄目ってことなんですか?」

「ここにはそんなに優等生が揃ってんのか」

 鍋島は皮肉っぽく言って苦笑した。

「いや、そういうことではないんです」

「じゃあどういうことなんですか」

「ああいうことをされると、うちとしては大変困るんです」

「……ちょっと待ってくださいよ」

 できるだけ平静を保とうとしてか、芹沢もわざと笑顔を見せて言った。

「あの子たちにしてみりゃ、無理もないことでしょう。自分たちはアパートでおとなしく母親の帰りを待ってたのに、突然知らない連中に勝手に連れてこられたんですからね。その上、自分たちがこの先どうなるのかも知らされないまま、ずっとおとなしくしてろっていう方が無茶なんですよ。一度くらい逃げようとするのも当然でしょ?」

「ええ、それはよく分かってます。ほとんどの子供たちがここへ来た当初はそうですから。我々はそれを長い時間かけて子供たちが自分から納得していくよう、手を貸しているんです」

 園長は自信たっぷりに、そして深刻な顔で言った。

「それやったら、あの子たちにもそうしてやってくださればええんやないですか?」

「ええ、うちも当初はそのつもりでした。でもいろいろ考えるうち、それは難しいと……」

「俺たちには専門知識はありませんし、今ここでお二人と議論するつもりもまったくないんですよ。ただ、どうしてあの子たちを預かってもらえないのか、納得のいく説明を聞きたいだけなんです」

「ええ、おっしゃることはごもっともですが──」

「園長先生、私からお話しします」

 ここで小林が口を開いた。そして目の前の二人に向き直ると、静かな口調で話し始めた。

「──昨日、園長先生からあの二人がいなくなったという連絡をいただいた私は、二人がアパートに戻ったのかも知れないと思って大家さんに連絡を入れたんです。結局子供たちは戻ってはいませんでしたが、そのとき、大家さんからあの子たちの部屋が得体の知れない男に荒らされたと聞いて──」

「……そうでしたか」と鍋島は溜め息を漏らした。

「私も、小林さんからそのことを聞かなければこんなことも考えなかったと思いますがね。しかし、聞いた以上はやはり考えないわけには行きません」 

 園長が話を引き取った。「いつかその男がここを突き止めて、今度はここを荒らしに来るのではと」

「そんなことはさせませんよ。お望みなら、警官を張りつけることも可能ですから」

「刑事さんにそうおっしゃっていただいて、心強いとは思いますよ。でも、たとえ警察がここを見張ってくれたとしても、それはそれで困るんです」

「何でですか?」

「つまり、他への影響です」

「他への?」

「ここでは、あの二人の他にも大勢の子供たちが暮らしているんです。そして、みんなとてもデリケートな子ばかりです」

「……みんなそれぞれに、自分たちがここへ連れてこられた事情をよく分かっていますからね。大人に対しては、ものすごい不信感があるんです。職員の方々にだって、長い時間掛かってやっと心を開いたっていう子供たちばかりなんです。ですから、見知らぬ人間が一人でもいると──私も含めてですが──たちまちその開いた心を閉ざしてしまって、元の情緒不安定な状態に戻ってしまわないとも限らないんです」小林が言った。「あの子たち二人だけのために、そんな他の子供たちを犠牲にはできないでしょう?」

「じゃあ、あの二人は犠牲になっても構わないと?」

 芹沢が顔を上げた。

「……芹沢さん、水掛け論ですわ」

 鍋島と芹沢は大きく溜め息をついて俯いた。小林の言うとおり、これ以上の議論はどうやら無駄なのだと分かり始めていた。同時に、自分たちには亮介と菜帆のこれからを決める権利も義務もないことも、二人にはよく分かっていた。

「……俺たちにどうしろと?」

 やがて鍋島が訊いた。

「しばらくの間、警察の方で二人を預かっていただきたいんです。その──危ない目に遭う心配がなくなるまで」

 小林が答えた。

「その心配さえなくなれば、うちはいつでも二人を受け入れますから」

 と園長が付け加える。

「分かりました。ただ、俺たちにはその要請をのむかどうかの決定権はありませんから、今ここですぐに返事をするわけにもいかないんです。とりあえず上司うえに相談してみないと」

「ええ、それはもちろんです」

 園長はほっとしたように頷き、そして途端に笑顔を取り戻した。


 園長室を出た二人は、重い足取りで廊下を歩いた。芹沢はジャケットのポケットに両手を突っ込んで俯き、鍋島は腕組みして顔をしかめていた。二人とも、何も言おうとはしなかった。

「──あの、刑事さん」

 後ろから小林に声をかけられて、二人はゆっくりと振り返った。

 小林は二人の顔色を伺いながら訊いた。

「……今すぐ、あの子たちを連れて帰るんですか?」

「そうしろって言うたのはあんたがたでしょ」鍋島が答えた。

「じゃあ……あの子たちは今夜も警察署に?」

 小林の言葉に芹沢は苦々しく笑い、そして低い声で言った。「何なんですか、今さら同情ですか?」

「えっ──」

「……冗談じゃねえよ。あんたいったい、あいつらの何の役に立ったって言うんだよ?」芹沢は声を荒らげた。「なあ、あんたこの前、うちの署で鍋島相手に大人の役目とやらについて一席ぶってくれたよな。子供たちにとって今が辛くても、将来のためになすべきことがあるとかどうとか。それがこういうことかよ?」

「……ごめんなさい」

「謝ってもらいたくて言ってるんじゃねえ。それに、どうせならあいつらに謝れよ」

「芹沢」鍋島が止めた。

「心配しなくたって、あいつらを留置所に入れるようなことはしねえよ」

 芹沢はなおも言った。「案外、署に寝泊まりしてお巡りの仕事がどんなものかを観察するのもいい社会勉強になるかも知れないぜ。将来のためにはな」

「芹沢、もうええやろ」

「そ、その……二、三日なら、私があの子たちを預かってもいいと思ってるんですが」小林は言った。

「二、三日経ったら、そのあとはどうなるんです?」鍋島が訊いた。

「それは──」

「結局こっちに押しつけるんだろ」芹沢が吐き捨てる。

「なら結構ですよ」

 鍋島は即座に言うと小林をじっと見据えた。「あんたの自己満足のために、子供たちをたらい回しにはできませんから」

 小林は観念したように、力なく俯いた。



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