第二章 招かれざる客

1(前)


 状況証拠としては充分だった。

 東条組との薬物密売ルートをがっちり結んでいたと言われる西川一朗が殺されたのは九月四日(正式には五日)の夜中の一時から二時の間。その約三時間ほど前に、東条組の上島武と思われる男が西川の死体の見つかった路地のすぐ隣のスナックで彼と激しく口論しているのを目撃されている。

 西川は身体のいたるところを殴打されており、上島は粗暴で、腕っ節だけを武器に組での地位を確立させたような男だった。

 そして昨日、鍋島と芹沢が上島のマンションを調べているとき、戻ってきた彼は二人に気づいて逃げ出した。

 上島が西川殺しの最有力容疑者であることに疑いの余地はない。刑事の勘などというものに頼らなくても、手堅い線だろう。ただ、これだけでは逮捕状は出ない。物的証拠が何もないのだ。スナックの主人の井出和之も、上島と西川が口喧嘩していたのを目撃しただけで、殺人の犯行現場を見たわけではないのだ。

 したがって、上島は今のところ限りなく容疑者に近い参考人、つまり重要参考人だ。仮に見つかっても、逮捕ではなくあくまで任意同行を求めるにとどまる。ましてや、行方が分からないからと言って指名手配することなどできないのだった。

 というわけで、昨日井出の証言を得た時点ではスピード解決も期待されたこの事件だったが、ここへ来て振り出しに戻った。いや、「振り出しに戻る」とまでは行かないにしても、とりあえずはよくある「一回休み」だった。どんな事件でもそう簡単に解決しないのが当たり前と言えば当たり前で、今回は上島のような人物の存在が早くから判明しているだけまだ順調な方だと言えた。ただその「一回休み」に至る経過がまずかった。そう、つまり、上島を取り逃がした鍋島と芹沢がこの「一回休み」にコマを進めたのも同然だったからだ。


「──せやから、もっと慎重に行けと言うたんや」

 一係のデスク脇に立ち、植田課長は昨日と同じことを言った。

「……申し訳ありません」

 課長に真横に立たれた芹沢は俯いた。

「おまえらは、まだどうも青いとこがあるな」

 それも昨日聞いた。ボケるのはまだ早すぎるんじゃねえか。

「西川みたいな街のダニを退治してくれたんやから、上島には逮捕状どころか感謝状でも出してやりたいくらいやがな。居場所が分からんことには渡すこともできん」

 ここまで言って課長は鍋島と芹沢の後ろに回った。「おまけに、誰が吹き込んだか知らんが、スナックの親父が妙にビビってる。喧嘩を目撃した自分の身が危ないんやないか、早いとこ捕まえてくれって、そらもううるそうてかなわん。民間人に騒がれてる以上、もたもたしてるわけにもいかんやろ。なあ鍋島?」

「でも、上島は昨日で自分のところに俺たちの手が回ってきてるってことを知ったはずですよ。今さら危険を冒してまで口封じになんか来ますかね」

 鍋島は淡々と言った。

「そんな結果論を言うな!」

「まあ、課長──」

 鍋島の向かいの島崎が口を挟んだ。「東条組が上島を匿ってるとは考えられませんか」

「女絡みのトラブルで殺しをした男に、あれほどの組が手を貸してやるとは思わんがなあ。逆に不始末をしでかした言うて、破門状を突きつけてもええくらいやと思うけど」

 一係の係長である高野茂たかのしげる警部補が答えた。

「それにあの組は今、の四課が目をつけてるらしい。近々家宅捜索ガサかけるかも知れんし、そんなときにたかだか売人殺しぐらいで余計な刺激を与えるわけにも行かんのや。うちがガサ入れるのは無理やな。令状も出んし」

 課長は愚痴をこぼすように言った。

「そうなると、確たる証拠を掴んで指名手配に持って行くしかありませんね」

「ああ、王道を行くしかないんや」課長は強く言った。「鍋島に芹沢、おまえらのミスで思いがけずこんな遠回りをする羽目になったんや。マスコミに騒がれんうちに、死ぬ気で汚名返上しろ」

「分かりました」鍋島はデスクに視線を落としたまま頷いた。


 課長が自分のデスクに戻り、一係の刑事たちはそれぞれに小さな溜め息をついた。

「……やれやれ、このところ機嫌が悪いな」

 島崎が顔をしかめて言った。

「すいません、俺らのせいで」と鍋島は頭を下げた。

「そうやないって。上の息子の進路のことで親子の意見が合わんともめてるらしいぞ。そのせいや」

 島崎と同じく一係の主任である湊潤一郎みなとじゅんいちろう巡査部長が端の席から小声で言った。

「課長の上の息子さん、確か成績優秀で前途洋々やて──」

「その前途洋々が、前途多難になりつつあるみたいや」

「と言うと?」

「高校を中退して専門学校へ行きたいって言い出したらしい」

「専門学校って、何の?」と芹沢が訊いた。

「放送技術の専門学校らしい。将来テレビのカメラマンになりたいって」

「それにしたって、高校中退じゃ無理なんじゃないですか」

 湊の相棒である北村学きたむらまなぶ巡査が言った。

「いや、中にはそれでも行ける学校があるらしい」答えたのは高野だった。

「係長、ご存じなんですか」

「ああ。最近この部屋で終日過ごすことが多かったからな。課長の奥さんからよう電話がかかってきてたし、聞くとはなしに」

「親としちゃ高校はもちろんのこと、一流大学に進んで欲しいってのが当然の望みやろ。あの人自身が国立大出やから」

 島崎が言った。

「なるほどね」と鍋島は頷き、芹沢に振り返った。「そんなときにドジ踏んだ俺らはええカモやったってことやな」

「ああ」

「ま、とにかく早いとこ奴の行方を突き止めることや」

 高野は言うと皆を見回した。「無駄かも知れんが、交替で奴のヤサを張り込もう。一番手は──板東ばんどう浜崎はまさきで頼む。小野おのと島崎、湊と北村は奴の立ち回り先を徹底的に洗ってくれ。鍋島と芹沢は昨日上島が言うとった『キョウコ』とか言う女の正体を突き止めてくれ」

 係長の指示を受け、八人の刑事はそれぞれに頷いて席を立った。


 そして一番最後に鍋島と芹沢が刑事部屋を出ていこうとしたところへ、四係の松本巡査部長が声をかけてきた。

「おい、お二人さん」

「はい?」と鍋島が振り返った。

「ちょっとええかな。耳に入れときたい話があるんや」

「いいですよ」

 二人は松本に促されるまま彼のデスクへと向かった。

 松本はデスクから電子煙草を取り上げ、ポケットに仕舞いながら二人に向き直って言った。

「昨日言うてた上島って男のいる東条組のことやけど」

「はい」

「今、あの組でどんな大仕事が進行しつつあるか知ってるか」

「いいえ」と鍋島は首を振った。「四課がガサ入れの機会を伺ってるらしいって言うのは、さっき課長から聞きましたけど」

 松本は小刻みに頷いた。「厳密に言うと──四課と銃対課や」

「あ、拳銃の密輸ね」

「いや、ちょっと違う。確かにそれもやらんことはないけど……近頃は難しいやろ。せやからなんと、自主生産するんや」

「密造ってことですか」

「そうや。ヤァ公も不景気のあおりを食ろて、資金繰りがキツなってるからな。これまた不況で仕事のなくなった町工場の親父の中から、ちょっとは度胸のあるやつを抱き込んで造らせるんや。外から入ってくるのはそのサンプルや。それは数が少ないから、見逃される確率も高いし」

「本店はそれをどの段階まで掴んでるんです?」芹沢が訊いた。

「連中が抱えた工場の見当はつけたらしい。最近、組の連中が何人か出入りしてる節があるってな。そこへサンプルが持ち込まれる日も近いと、本店は見てるんや」

「ガサをかけようってのは、そっちの方ですか」

「場合によってはな」

「で──今度の売人殺しもそのことと関連があるとか?」

 松本は目を細めて二人を見た。「それは分からん。上島は拳銃の仕事には関わってなかったはずやし、殺られたのもヤクの売人や。けど、そんな大仕事を控えてるときに組の中に殺しなんかするようなもんがいるとは思えんやろ。四課や銃対課だけと違て、一課にまで目をつけられることになるんやで。いくら上島が嫉妬深い凶暴なやつやとしても、そこまでアホかどうか」

「ということは……?」鍋島は探るような眼差しを松本に向けた。

「今のところ、そっちはこの殺しを怨恨と見てるんやろ。それも確かに異論はない。けどあるいは、もしかするとやで。何か他の事情も絡んでると、少なくともそう考えといてもええやろと、俺は思うんやけど」

「なるほど」

「推測の域は出んがな」

「分かりました」と芹沢が頷いた。

「ただしや。あくまで拳銃の件には手を出すなよ」

 松本は言うと、今まで話していた中で一番真面目な表情を二人に向けた。「俺らも控えてるんや。所轄の俺らは四課以上に完全に面が割れてるからな。あっちは人材豊富や」

「一係の俺たちでも?」

「分からん。けど、四課の連中には知られてるやろ」

 そして松本はいつもの悪戯っぽい眼差しに戻った。「あんたらは有名人やから」

「それはお互い様ですよ」

 松本はにやりと笑ってから俯いた。ゆっくりと顔を上げると、今度はそこに穏やかな頼もしさの滲む微笑みをたたえ、それに似合う落ち着いた口調で言った。

「ケツに火が点く前に、できたら俺に言うてこい。力になるで」

「ええ、分かりました」

 そこへ高野係長から声がかかった。「鍋島、電話や」

 鍋島はデスクに戻り、受話器を取って点滅しているボタンを押した。

「──お待たせしました、鍋島です」

《──鍋島さん、俺や》タツの声だった。

「ああ」

 鍋島はこちらを見ている芹沢を見ると、すぐに視線を手許に落とした。

「クラブで何か分かったか?」

《その前に、目尻に傷のある男の正体、もうそっちで割れてますか?》

「上島やろ。昨日判った」

《ほな、そいつのヤサは?》

「それも割れてる」

 そう言うと鍋島は昨日の失態を思い出して舌打ちした。

「踏み込んだけど逃げられた」

《と言うことは、そこで行き止まりってわけやね?》

 タツは嬉しそうに言った。《その先はこっちの得意分野や》

「ええから、早よ言え。何を掴んだ」

《西川がミナミのクラブに通ってたんは、やっぱりお目当ての女がいたからですよ。ここ一、二ヶ月ほどらしいから、奴が東条組の仕事を引き受け始めたのと一致しますよね》

「そうか、つまり──」

《ええ、上島ですよ。つまり西川が東条組の上島と顔なじみになった頃から、奴はあのクラブに通うようになったってことですよ》

「やっぱり、その女は上島の女やな」

《はいな。これで西川が痴情のもつれで殺られたってことの裏付けにもなるやろ》

「で、その女から何か探れたか?」

《それが──その女もちゃっかりドロンですわ。一昨日出勤してきたときに今夜で辞めるて言うて、そのまま》

「……当然か」

《ええ》

「女の名前と住所は?」

 鍋島はデスクのボールペンとメモ用紙を引き寄せた。

「ファースト・ネームはキョウコって言うはずや」

《ご名答。田所杏子たどころきょうこ、三十一歳。ヤサは北区の長柄ながら国分寺こくぶんじに近いボロアパートです。と言うても、最近は上島のマンションでやつと暮らしてたみたいやけど》

「分かった」

 鍋島は走り書きしたページを引きちぎってポケットに入れた。

「上島も女も、おそらくその店にはもう現れへんやろうけど、念のためにおまえ見張っててくれよ」

《ええ、分かってますよ》とタツは軽快な声で言った。

 電話を切った鍋島はそばまで来ていた芹沢に振り返った。

「早くも巻き返しのチャンスや」

「ありがてえ。収穫は?」

「杏子ちゃんのおうち

 そう言うと鍋島は高野に振り返った。「係長、上島の女のアパートが割れました。今から行ってきます」

「今度は制服を連れて行けよ」高野は顔を上げずに言った。

「……ええ、分かってます」


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