第八章 忘れないで

1(前)

 それから二日が過ぎた。

 鍋島はあの翌日に芹沢の部屋から引き払い、自分のアパートに戻っていた。

 署からの連絡はまだなかった。二人は互いに連絡を取り合うこともせず、自分たちの部屋の澱んだ空気の中でただ時をやり過ごし、ホームの老人のように一日を送った。


 そして三日目の朝九時を回った頃に、芹沢はベッドの中で電話を受けた。

「はい」

《──やだ、本当に家にいるんだ》

「──みちる──」

《もう……心配しちゃうじゃない》

 一条は溜め息をついた。《この二日間、携帯の電源は落ちっぱなし、家にかけてもずっと留守電なんて》

「ちょっと……いろいろあってさ」

《聞いてるわよ、おたくの課長さんから。ずいぶんカッコいいことやっちゃったんだって?》

「皮肉はよせよ」芹沢は起き上がった。「……でも、何で課長がおまえに?」

《決まってるでしょ。あなたと鍋島くんの尻拭いに奔走してらっしゃるのよ。わたしが逮捕した湊組の鉄砲玉を、何とか殺人予備罪で追起訴してもらえないかって言って来られたわ。そうすれば、あんたたちが例の幹部を緊急逮捕するに足りる理由の一つになるって考えたからじゃない? ちょっと苦しいけど》

「そんなことしなくたって、どうせ十三署の方で滝川が上島殺しを喋ってるだろうに」

《それがそうでもないらしいわよ。肝心なところは黙秘らしいわ》

「……何だあの野郎。十三署が手緩いんじゃねえか?」

 芹沢はベッドから出て廊下をダイニングに向かった。

《でも、何だってそんなことしたの?》

「聞いてねえのかよ、課長から」

《聞いたわよ。田所杏子が殺されたんでしょ?》一条は平然と言った。《あなた、あれだけ彼女に腹を立ててたのに、どうして急に仇討ちになんか立ち上がっちゃったの?》

「……女の子も死んだんだ」

《まあ》と一条は驚いた声を上げた。《……お気の毒》

 芹沢は一条がときどきこうしたお上品な言葉遣いをするのが好きだった。知り合った頃は耳について鼻について嫌だったが、今では聞くのが愉しかった。清楚な顔立ちで、でも思いきり人を見下したような眼差しで、そして上品な話し方。いいなぁ、このギャップが。めちゃくちゃ可愛いんだよなぁ。俺はやっぱり屈折してるんだな──。

「で、そっちはその方向で動いてくれてるってわけか?」

《当たり前でしょ。そうじゃないとあんたたちが不当逮捕したってことが大バレじゃない》

「俺はいいよ、もう」

《どういうこと?》

刑事デカを辞めたっていいってことさ」

 芹沢はダイニングの椅子に腰を下ろし、背を預けた。「その覚悟でやったんだから」

《ふーん……》

「何だよ、嘘じゃねえよ」

《嘘だなんて言ってないじゃない。ただ呆れてるのよ》

「今度のことでは、みんなそうさ」

《みんなって?》

「うちの課の連中」芹沢は急に言葉を切った。「……いや、あすこはもう俺の課じゃねえのかもな」

《……貴志。あなたそのマンション買ったばかりなのよ》

 一条はちょっと怒っていた。《鍋島くんだって、そろそろ結婚を考えてたんじゃないの? あんたたち二人とも、ちょっと頭がイカれてるんじゃない?》

「そういう俺が好きなんだろ?」芹沢は面白そうに言った。

《ふざけてる場合じゃないわよ》一条も笑っていた。《まあいいわ。思ったより元気みたいで安心した》

「へえ、落ち込んでるとでも思ったのか?」

《ええ。課長さんが解ってくれないってクサってるか、馬鹿なことしたと後悔して弱気になってるかのどちらかだと思ってたから》

「もしそうだったら、おまえはどうしようと思ってたんだ?」

《別に。少しはおとなしくなって、余計なこともしないだろうから、ちょうどいいと思っただけ》

「信用ねえんだな、俺は」

《あるわけないでしょ。胸に手を当ててよく考えてごらんなさいよ》

「おまえがそんなに遠くにいて、ちっともくれないからだよ」

《何言ってんのよ、こんな時に》一条は呆れていた。《とにかく、もう切るわ。仕事中なの。また夜にでも掛けるから》

「いいよ、俺から掛けるよ」

《……なに予防線張ってるのよ》一条の声が低くなった。《まさか、女の子とよろしくやってるときに、わたしからの電話が掛かってくるとヤバいとでも思ってるわけ?》

「違うって、疑いすぎだぜ。俺はどうせ暇だから、こっちから掛けるのがいいと思ったんだ」

《ほんとかしら?》

「ほんとだって」

《じゃ、そうしていただくわ。九時過ぎには解放されてると思うから》

「分かった」

 芹沢は言うと、ずっと穏やかな声になって呼びかけた。

「みちる」

《なあに?》

「俺──もうおまえだけを見てるから」

 一呼吸あって、一条は静かに言った。

《……貴志。やっぱりあなた、弱気になってるわ》

 それから嬉しそうに笑った。《それとも、とりあえずそう言ってわたしを喜ばせといて、後は好き放題やろうって魂胆ね?》

 芹沢はやっぱ甘くないな、と思いながらにやりと笑い、電話を切った。  




 

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