第十八話 春の風邪は風と共に


「せん…い?」


 そんな声が、頭のすみの方から聞こえてきた。


ずかしながら、その時、ぼくは自分がどこにいるのか分かっていなかった。ただ、居心地いごこちの良い空間にいるということだけを、漠然ばくぜんと感じていた。


おき……下さい、せ…ぱい?」


 きっとここは、部室のソファーの上か、もしくは自室の布団ふとんの中か、あるいはれる列車の中か。きっとそのどれかだろうと思っていた。


だからぼくは目を開けるのが面倒めんどうで、その声は聞こえていたものの、ずっとこの居心地いごこちの良い空間でていたいと、そう思っていたのだ。


「仕方…いで…ね」


 そんな声と共に「ふうっ」とこそばゆい風が、ぼくの左耳をくすぐった。ぼくはびくりと体をふるわせながら目を開いた。


 彼女かのじょの顔がそこにあった。


「やっと起きた」


 彼女かのじょぼくの顔をまじまじと見つめながら、そんなことをつぶやいた。ぼくは自分の置かれている状況じょうきょうが理解できず、ただ唖然あぜんとして彼女かのじょを見つめていた。


 想像していた所と全くちがった場所にいて、ぼく一瞬いっしゅん、自分が異世界にでも飛ばされたような錯覚さっかくおちいった。


 実際にはそんなことは全然なく、ただ彼女かのじょの車の運転席で、ぐーすかねむっていただけなのだが……。


ぼくてた?」


「ええ。そりゃもう、ぐっすりとねむられていましたよ」


 彼女かのじょが目を覚ますのを待っていたつもりが、いつの間にかこっちの方がうたたをしてしまっていたらしい。逆に彼女かのじょに起こされるなんて、なんだかずかしい。


「ご、ごめん! 帰りの邪魔じゃましたね。ぼくすぐ帰るからさ!」


 あわてて身支度みじたくを済ませていると、


「うちまで送って行きますよ」


 と彼女かのじょが提案してきた。しかし、こんな時間まで彼女かのじょを付き合わせてしまうのは悪いと感じたぼくは、


「だ、大丈夫だいじょうぶだよ。夜も暗いし、君は寄り道せずに帰った方がいい」


 と、そういった。


すると彼女かのじょは、不思議そうな顔をして、


「夜も暗い?」


 とそうつぶやいた。


……そりゃ、確かにぼくの日本語はおかしくて、本来ならば「夜もおそい」とか「辺りは暗い」とか、そんなきっちりとした日本語を使うべきなんだろうけど……。でも、察してくれよ。


「いえいえ、そうではなくて。先輩せんぱい、ちょっと誤解していると思いますよ」


 誤解? 一体ぼくが何を誤解しているというのだろうか。


先輩せんぱい、今何時だと思ってます?」


「何時って……」


 そりゃ、裏山から降りてきたのが十一時くらいだったから、今は深夜を少し回ったくらいだろうか。そう思いながら時刻を確認かくにんして、


「え? 五時半? 朝の?」


「ええ、そうですよ。五時半です。ですので、これから夜が暗くなるのではなく、夜が明るくなる時間なんですよ、先輩せんぱい


「そんな……、まさか……」


 まさか車の中で一晩を過ごしてしまうことになるとは、思ってもみなかった。


てか、となり彼女かのじょがいるということは、これはもしかして、もしかすると……。


女の子と一晩を過ごしてしまったということになるではないか!


これは秋月弥生やよいの歴史の中でも激震げきしんが走る重大事件だった。革新的出来事と言ってもいいかもしれない。


「すみません。わたしねむってしまったばっかりに、先輩せんぱい迷惑めいわくをかけてしまって」


 ぼくがそんな下賤げせんなことを考えていると、彼女かのじょは申し訳なさそうにペコリと頭を下げてあやまってきた。その素直すなおなしぐさに、今までの自分の考えがずかしくなった。


「いや別に、君があやまる事じゃないよ」


 ぼくもすっかりねむっていたのだから。


「どうですか? 今の時間ならきっと、暴漢も痴漢ちかんも悪漢もねむっていますので、わたしに危険はおよばないでしょう?」


「…………家まで送って下さい」


 こうして運転席をチェンジしたぼくたちは、二人ふたり、白みがかってきた空の下、ゆっくりと車を走らせた。





「へっくしゅん!」


 そんなくしゃみが飛び出したのは、ちょうどぼくの家の前までやってきた時だった。彼女かのじょぼくの顔を見ると、「風邪かぜですか?」と、そう聞いてきた。ぼくは鼻をすすりながら、


「いや、そんなはずはないんだけど。でも、どうだろう。ちょっと寒気が……」


「車の中が冷えていましたからね。もしかしたら体調をくずされたのかもしれません。部屋へやに入ったらきっちり静養して下さい」


「そうする。送ってくれてありがとう」


 そう言いながら車を降りると、彼女かのじょはなおも、


「良いですか? 本当にきっちり体調をもどして、来週からはまた部室に来て下さいね。新しい部員が入って、天文同好会にはやることが沢山たくさんありますから!」


 とそう、言い残し走り去っていった。


 ぼくは鼻をすすりながら、しばらく彼女かのじょの走り去った後をながめていた。


 階段を登り、自室のとびらを開けると、布団ふとんころがりんだ。車内でねむったせいか体は変につかれていたが、興奮していて、中々寝付ねつけなかった。天体観測を行った昨夜の出来事と、さっきまでの彼女かのじょの出来事を反芻はんすうしながら、「ムフフっ」と気味の悪いみをかべている男が、ここにいた。





 土曜・日曜と貴重な休日を保養に努めていたぼくだったが、体調は回復するどころか、むしろ悪化の一途いっとをたどっていた。それこそ、今までに見たこともない体温を観測してしまい、自分でも不安になるほどだった。


 病院に行こうとも考えたが休日でやっておらず、仕方ないので市販しはんで買った風邪薬かざぐすりと、冷蔵庫の中にあったわずかな食べ物で、体力を回復しようとしていた。


 それがいけなかったのだろう。


 月曜日の朝になるころには、高熱と強烈きょうれつ、意識は朦朧もうろうとし、「ああ、このまま死ぬんじゃないか」という不安におそわれていた。


 一人暮ひとりぐらしの大学生がさびしい時、第三位にランクインしている『風邪かぜを引く』ことに参ってしまっていたぼくはすっかり心細くなっていた。


 ちなみに、一人暮ひとりぐらしの大学生がさびしい時、第二位が『自分の誕生日に祝ってくれる人がいない』ときであり、第一位は『クリスマスに予定がない』である。


 ぼくとしては、そのどちらよりも、風邪かぜを引いた方がさびしいと思うんだけど。二つはまだ良いじゃん、元気なんだから。


 でも風邪かぜになってしまうと、何もできなくなる。元気もなくなり、看病してくれる人もいない。そういった状況じょうきょうで二、三日過ごしてみてしい。


 きっと、ぼくの気持ちも分かってくれると思う。


 さびしさをまぎらわすようにテレビをつけてみたが、全く役にたたなかった。


「そうだ、今日きょう休むって連絡れんらくしないと……」


 ぼくはフラフラと立ち上がると、小机の前まで近づいた。週末からずっと充電じゅうでんもしないで置かれたスマホを取ると、彼女かのじょが作ってくれたグループに連絡れんらくをいれた。


『ごめん、風邪かぜを引いたので今日きょうのサークル休みます』


 すぐに、既読きどくがついた。


 お、早いな。と思い、次にどんなメッセージが来るのか期待していると、五分たっても十分たっても何もなかった。


 既読きどくが付いただけだった。


「ま、まあこれは返事を必要としないメッセージだからな。うん。この既読きどく了解りょうかいしたということなんだろうな、きっと……」


 と、そう自分をなぐさめた。


 急に目眩めまいおそってきたので、ぼくはモゾモゾと布団ふとんの中にんだ。


 ピロリン。


 すると、一つのメッセージが入って来た。


了解りょうかいです! ゆっくり休んで、早くなおしてね!』


 若菜さんからのメッセージだった。さすがは若菜さん。こんな報告文にもきっちりと返信を寄越よこしてくれた。


 ぼくはニンマリと顔をほころばせた。心なしか体調もよくなっている気がする。彼女かのじょはもしかしたら、本当に女神めがみなのかも知れない。それは、病気や怪我けが一瞬いっしゅんにして治してしまう、治癒ちゆ女神めがみだ。


若菜さん療法りょうほうなるものを、ぼくはみんなに教えたい。風邪かぜや熱にかされたら、若菜さんに連絡れんらくをとるのだ。すると、彼女かのじょから応援おうえんのメッセージが送られてくる。そうすると、患者かんじゃの心はふわふわとうかれわついた気持ちになり、風邪かぜどころではなくなってしまうのだ。


 その効用を実際に経験したぼくがいうんだから、間違まちがいない。


 とまあ、冗談じょうだんはこの辺にして。若菜さん以外に連絡れんらくが入らなかったことは、少なからずぼくにダメージをあたえた。高野から連絡れんらくが来ないのはいいとして、そして真紀ちゃんと明音ちゃんから連絡れんらくが来ないのは仕方ないとして、彼女かのじょから連絡れんらくが来ないのは、ちょっぴりがっかりだった。


了解りょうかい』とか『わかりました』とか『お大事に』とか、彼女かのじょならそんなそっけないメッセージでも寄越よこしてくれるかと思ってたけど。それは図々しいというべきなのだろうか。


「あっ」


週末から充電じゅうでんをし忘れていたからだろう。ぼくのスマホは今の気持ちを示しているかのように、プツリっと電源が切れてしまった。


途端とたん悪寒おかんおそわれ、ぼくは深いねむりについた。





強烈きょうれつな頭痛に、ぼくは目を覚ました。


 視界はボヤボヤとゆがんでおり、よく見えない。


 あれから何時間たっただろうと、壁掛かべか時計とけい確認かくにん下が、まだ一時間ほどしかっていなかった。


「うっぷ……」


 急にせてきたえきれず、ぼくはトイレにんだ。


うげえええ。


 胃袋いぶくろの中身はすでに空となっているのに、せるぼくは何度も嗚咽おえつらしてしまう。


 呼吸も十分にできないくらいのに、ぼくは軽くパニックになっていた。


 頭は痛いし、体は熱いし、意識は朦朧もうろうとして、そして、なんだか、もう、わけがわからない。


 …………。


 やっと止まった嗚咽おえつに、顔をあげると、口元をぬぐった。


 少しスッキリとはしたが、頭がグルグルとおかしい。


 布団ふとんの中にもどりたいが、ていがいうことを聞かない。なんだ宙にいているような気分だ。


 ぼく…………。

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僕と彼女の事情 白玉いつき @torotorokou

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