第十四話 夕暮れ時に……    

  〇


「もうおそいなあ、香織かおりわたしたち先に行ってるからね?」


 友達ともだち不機嫌ふきげんな声に、「うん、ごめんね」と申し訳なさそうに彼女かのじょあやまった。そして、ガチャリととびらの閉まる音が聞こえると、更衣こうい室に静寂せいじゃくおとずれた。


 キキキキキッ、と躊躇ためらいがちにロッカーのとびらが開くと、


「もう出てきて大丈夫だいじょうぶだよ」


 光と共に天使と見間違みまちがうくらい綺麗きれいな女の子が現れた。若菜さんだった。いつの間にか着替きがえを済ませたらしく、テニスウェアから白のパンツにストライプのシャツ、その上にはすずしそうなむらさきのカーディガンを羽織っている。


 ほかの女子部員の姿はすでになく、若菜さんだけがかえ支度じたくを済ませて立っていた。


ぼく、生きてる?」


 思わずそんな言葉が口をいて出た。それを聞くと、若菜さんは「ぷっ」とした。


「何それ、大げさすぎ」


 彼女かのじょはそういうが、められた身としては寿命じゅみょうの縮まる思いだったのだ。運よく若菜さんに出会えたものの、これがほかの女子だと考えたら……。そう思うと、血の気が引いた。


 若菜さんを見てみると、彼女かのじょぼくの顔をじっと見つめていた。


「秋月君、鼻血出てるよ?」


「え?」


 鼻をぬぐってみると、確かにな血が、トクトクと流れ出ていた。どんだけ興奮してたんだよ、ぼく


「もう、ほら」


 手渡てわたしされたティッシュで鼻をきながら、ぼくはロッカーを脱出だっしゅつした。「ほら、下向いて」若菜さんは手当するためにぼくの眼前まで近づいてきた。ふわりと彼女かのじょあまかおりがただよってきて、ぼくの心臓はドキンッとがった。


 彼女かのじょのされるがままに手当を受けると、鼻血は物の数秒で止まってしまった。


「すごいね」


 そういうと彼女かのじょは、


わたし、教育学部健康スポーツ科だからね」とほこるようにいった。


 なるほど、それであんなに手当てがあざやかだったのか。ぼく納得なっとくした。


「もしかしたら、将来は保険の先生になるかも」


「え?」


 そんなことを聞いたものだから、ぼくは思わず彼女かのじょの白衣姿を想像してしまった。そこには、魅惑的みわくてき雰囲気ふんいきかもす若菜さんが立っていた。


 ぼくのニンマリした顔を見て彼女かのじょも察したのか、少しムッとした表情をすると、「エッチ」とそんな言葉をつぶやいた。


 その時の仕草が余りにも可愛かわいくて、ぼくの止まりかけていた鼻血は、またドピュっとした。


「あれ? ちょっと秋月君、大丈夫だいじょうぶ!?」


 彼女かのじょの仕草は人を殺しかねない。ぼくはそう思った。




 〇


「鼻血、大丈夫だいじょうぶ?」


 若菜さんの心配そうな声にかえると、彼女かのじょ自販機じはんきから炭酸飲料を買って来てくれていた。


 ぼくたちは更衣こうい室を後にして、近くのベンチにすわっていた。はすっかりかたむきかけていて、夕日がまぶしい。


「はい、これ」


 出された飲み物を「ありがとう」と受け取ろうとすると、彼女かのじょはひょいっとペットボトルを遠ざけてしまう。


「ちょっと」


 抗議こうぎすると若菜さんは「はははっ」と楽しそうに笑った。つられてぼくも笑ってしまう。ちょっかいを出すのも、彼女かのじょらしいくせだった。


「それにしてもびっくりしちゃったよ。更衣こうい室に入ったら知らない男がいて、よく見たらそれが秋月君だったなんてね」


 おどろかせてすみません。まさかぼくも入ってきたのが若菜さんだとは思わなかった。そして、彼女かのじょであって大変幸運だったのだ。


 本当に、若菜様様である。


「それで、どうしてあんな所にいたの? められたって言ってたけど?」


 彼女かのじょ詰問きつもん口調というよりも、単純に不思議がっているような口ぶりでたずねてきた。しかし、どう説明すればいいものか。


 まさか高野にめられたなどといえば、彼女かのじょぼくのことを信じてくれるだろうか? かれ上手うまくいきそうなことを聞いてしまった手前、どんな言い訳をすればいいのか迷った。


 ぼくの無言を察したのか、若菜さんは大きなびを一つすると、


「まあ、良いや。君のコトだから、きっと悪いことではないと信じるよ」


 あっさりと許してくれた。


「その代り、“貸し”一つだからね」


 そういって片目をつぶり、ウインクをして見せる彼女かのじょに、ぼくの心はもうメロメロです。


 しずみかけている夕日が視界をさえぎる。


「変わらないね、秋月君は」


 カラカラと笑う若菜さんもお変わりなく。


「困った時、苦笑いと一緒いっしょに右ほおに小さなえくぼが出来る所とか」


 いやはや、そんな所まで見られていたとは。ちょっとずかしいです。


かみは少しびたね。そのチリチリってした感じ」


 チリチリって……。天然パーマって言ってしいな。


「まあ、わたしばしてるんだけどね。どう、似合ってるでしょ?」


 彼女かのじょはそういうと、後ろに流していた黒髪くろかみを持ち上げ、こちらに見せつけてきた。


 そりゃあ、似合っていますとも。


「でも、意外だなあ。まさか秋月君とまたこうして話せるなんて」


 ぼくも同感だった。


 まさか、若菜さんとこれだけ会話ができるなど、いったいだれが想像しただろうか。彼女かのじょとはその、あんなことがあったものだから……。


「だって秋月君、わたしのことけてたでしょ?」


 不意に核心かくしんかれ、ぼくははっとした表情で彼女かのじょを見た。若菜さんはいかっているような、悲しんでいるような、そんな表情をしていた。


「気づいてるんだからね。君が部室に来なくなったこと。君は勉強がいそがしくなったって言ってたけど、あれはウソでしょ? それから、おかあさんが病気になったとか、運転免許めんきょの取得にいそがしいとか、バイトを始めて時間がないとか。全部、ウソね」


 当時、くるまぎれについたうそは全く役に立っていなかったらしい。若菜さんは、そのすべてに気が付いていたのである。


「傷ついた」


 少しうるんだひとみで言われたその一言に、ぼくだまむしかできなかった。かろうじて出た言葉は「ごめん」の三文字。高野なら、もっと気のいたことを言えたのだろうか。ぼくの謝罪を聞いた彼女かのじょは、


「ううん。わたしからもあやまらなくちゃいけないの」


 そう言ってかぶりをった。あやまらなくちゃいけないこととは何だろうか。少し考えたが、よく分からなかった。


「あれから、色々考えたの。どうして君がわたしのコトけるのかなって。わたし先輩せんぱいに言われるまで気がつかなくて」


 彼女かのじょずかしそうにほほを染め、地面を見つめた。……ん? なんだか、彼女かのじょの言い方には違和感いわかんを覚える。気づかなかったって何に?


「ひどい話だよね。ほかの女子とか、先輩せんぱいはずっと前から知ってたのに。わたしだけ知らなくて」


 ……彼女かのじょは何を知らなかったのだろうか? ぼくの疑問は、次の彼女かのじょの言葉で理解できた。


わたし、あれがまさか“告白しようとしていた”なんて思わなくて。あのプラネタリウムにそういううわさがあること、全然知らなかったの」


「え?」


 ぼくは思わず頓狂とんきょうな声を上げてしまった。当時、天文同好会ではプラネタリウムを見た後に告白することで、いちじるしく成功率が上がることがうわさされていた。


 その真偽しんぎはともかく、星見同好会らしいロマンチックなその場所は絶好の告白スポットであった。


 類にれずぼくもその考えの一人ひとりであって、あの日、若菜さんにおもいを伝える場所にそこを選んだのだった。


「ごめんね、その日は用事があって……」


 若菜さんをさそったその日、やんわりと断られたぼくは、遠回しにフラれたと思っていた。


 しかし、それはちがっていたということ?


 告白する前からフラれたと勘違かんちがいしていたのはぼく一人ひとりであって、彼女かのじょはプラネタリウムのうわさのことも、ぼくの気持ちも、あの日告白しようとしていた決意も、何も知らなかったということなのか。


 二年しに聞いてしまった真実に、ぼく唖然あぜんとするしかなかった。


「ごめんね。ホントはもっと早く言わなくちゃいけなかったんだけど。でも、君もわたしのことけてたし」


 そりゃ、若菜さんは悪くない。悪くないんだけど……。ぽっかりと空いてしまったこの気持ちはどうすれば?


 あれ?


 ということはつまり、ぼくはまだ彼女かのじょの返事を聞いていないということになる。二年前はぼくの気持ちを知らなかったから返事ができなかった。


 じゃあ、今はどう思ってるんですか?


 彼女かのじょを見ると、やっと秘密を打ち明けられて、みょうに清々しそうだった。そんな彼女かのじょに告白の答えをせまれるはずもなく、


「そっか、そうだったんだ……」


 とただ笑うしかなかった。ぼくもフラれたわけじゃないと分かってホッとしたのは事実だから、お相子様である。


「話したらスッキリしちゃった。そろそろわたし行くね。加奈子かなこたち待たせてるから」


 加奈子かなことは先ほど、カフェに行こうと話していた友達ともだちだろうか。若菜さんは立ち上がると、「バイバイ」と小さく手をってきた。


 告白の返事は聞けなかった。


 でも、それで良いと思う。今は。


「あの!」


 帰ろうとかかとを返した彼女かのじょに、ぼく精一杯せいいっぱいの声で話しかけた。彼女かのじょは不思議そうにかえる。


「最近また、天文同好会が復活したんだ。昔みたいになれるかどうかは分からないんだけど、その、もし若菜さんが良かったらでいいんだけど――」


 彼女かのじょから告白の返事は、まだ、聞けていない。でも、今はそれでも良いと思った。


 今日きょうの所はこの返事が聞けただけで、ぼくは大満足なのである。

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