第十二話 彼女の名前は若菜香織 

   〇


 天文同好会のアイドル。


 それが若菜さんを思い出す時に一番しっくりくる言葉だった。かたまでかかるあでやかな黒髪くろかみに、秋田美人を思わせるような白いはだ。目元はくっきりと凛々りりしく、そして、長身でスタイルが抜群ばつぐんであった。


 向かう所敵なし、と言った美貌びぼうの持ち主であった彼女かのじょだったが、内面においても抜群ばつぐん素敵すてきであった。


 気さくで、だれにでもやさしく、時にユーモアで人を笑わし、そして自分も良く笑った。そんな彼女かのじょのコトだから、周りはいつも笑顔えがおあふれていた。


 彼女かのじょがみんなに好かれるのは至極しごく当然のことだった。男子から絶大な人気を博していたのは勿論もちろんのこと、女子にも抜群ばつぐんの人気をほこっていた。


 まさに、天文同好会のアイドルである。


 新入生歓迎会かんげいかいの日、った勢いで先輩せんぱいが「若菜ちゃんって、彼氏かれしいるの?」という質問に、ほほを染めながら「フリーです」と答えた彼女かのじょに、男子全員が胸をおどらせたのは間違まちがいない。


 ご多分にれず、ぼくもその一人ひとりであったと共に、彼女かのじょにフラれたことは、先ほどカミングアウトしたばかりだ。




  〇


「なんだ、秋月。さてはお前、おれ恋路こいじ邪魔じゃまする気だな?」


 いかりにも似た視線で、高野はぼくにらみつけてきた。というか、男子が恋路こいじとかいう言葉を使うな。


「いや、そんなつもりはないんだけど。結果的にはそうなるかも……」


「そうはさせん!」


 高野はそうさけぶと、いきなり後方へと走り出した。まさかの逃走とうそうである。不意の出来事にボケッとしていたぼくだったが、ハッと我に返ると、


「あっ! ちょっと待て!」と高野の背中を追いかけた。


「まさかお前も若菜香織かおりねらっていたとはな!」


「ち、ちがうって!」


 むしろ、すで玉砕ぎょくさいしてるんだってば!


「言い訳は止めろ、見苦しい。そういえば、前に会った時も変な反応していたよな? 今思えばあれは動揺どうようの表れだったのか!」


 確かに動揺どうようはしたが、それとこれとは話が別であって、ちょっと……、


「良いから止まれって!」


「聞く耳持たんな!」


 さすがは運動部。


 かれぼくの話などまるで聞かず、グングンと速度を増して遠ざかっていく。


「ちくしょう、オカッパちゃんはカモフラージュだったわけだ。秋月、お前がそういう男だったとは思わなかったぜ!」


 勝手に変な妄想もうそうしやがって。


 だからあの髪形かみかたちはショートボブヘアーであってオカッパではな――というか、彼女かのじょむんじゃない。話がこじれるだろうが……。


「だから、ちがうんだって……!」


 若菜さんをねらっていたのは随分ずいぶんと昔の話であって、そもそも彼女かのじょにとってぼくは眼中にもなかったんだってば!


 ぼくの言い訳は、むなしく中空へと散布した。


 高野にはグングンと差を広げられているが、ここであきらめるわけにはいかなかった。


 あの秘密がある限り、若菜さんに天文同好会の話をしてはいけない。そんなことしたら、せっかく忘れかけていた若菜さんが、ぼくのことを思い出してしまうじゃないか!


 それだけは何としても阻止そししなくては。 ぼくも負けじとかれの背中を追った。




  〇


 食堂の前を通り過ぎ、教育とうわきはしけ、ぼくたちは裏門近くのグラウンドまでやってきていた。


 グラウンドのほかにも体育館やテニスコートが隣接りんせつし、近くには運動部専用の部室も用意されていた。運動部以外、特に用事のないこの場所は、最早もはやかれらの聖域となっていた。


「しつこい野郎やろうだな……」 


 さすがにつかれたのだろうか、高野はムスッとした表情でぼくにらんだ。


「そりゃ……、お前が……。げるから……だろう……が……」


 一方のぼくは死にそうである。こんなに走ったのは高校の持久走以来であった。


 「しつこい男はきらわれるぞ!」などとてる高野に、元気があればぼくも同じことを言ってやりたい。


 いい加減、若菜さんはあきらめてくれ……。


「これはもう、おくを使うしかないな」


 高野は不気味なことをつぶやくと、運動部専用の部室の一つ、明かりの消えたその部屋へやへと姿を消してしまった。


 ぼくは少しばかり躊躇ちゅうちょしたが、高野の後を追った。




  〇


 暗い。部屋へやの中には、とびらの上に設置された採風窓からの光しか届いていなかった。


 ぼくは目を細めて中の様子をうかがったが、高野の姿はおろか、ここが何の部室なのかも確認かくにんできなかった。


 あらしぶる呼吸を整えながら、ぼく暗闇くらやみにらみつけた。一歩、また一歩と部屋へやの中に足をれていく。


「おい、ここにんだのは分かってるぞ!」


 反応はない。まるでだれもいないような錯覚さっかくおちいったが、しかし、高野は確実にこの中に入っていったのだ。


 かれの姿を見逃みのがすまいと目を細めていると、ゴトンッという音と共に、何かが出口に向かって走り出しているのが見えた。あわててその後を追ったが、寸での所で間に合わなかった。


 高野はとびらを少しだけ開くと、そこに体をすべませ、ぼくが追い付くよりも先にとびらを閉めてしまった。


「あ、こら待て!」


「はい、残念でした!」


 ガチャリ。とそう、何かが施錠せじょうされる音がした。


「おい、今なにした?」


「はっはっは! カギ、閉めといたから」


 なんてことをしてくれるんだ! ぼくは力任せにドアノブをらしたが、とびらはびくともしない。


「お前がおれおとしいれようとするからだ」


「それは誤解だ。これには深い理由があるんだよ」


「理由?」


 高野は少し聞く耳を持ってくれたらしい。


 しかし、なんて説明する?


 まさか、二年前に若菜さんにフラれているものだから、その話題を彼女かのじょに話されるのは気まずい。などとコイツに言えるわけがない。


「その、なんだ。それは今度話すとして……」


「全然、理由になってないぞ」


 高野はそういうと、「じゃあな!」と去ろうとした。


「お、おい待て待て! ぼくはどうやってここから出ればいい?」


「そんなの、そこの部員がもどってくるのを待てばいいだろ?」


「そんなのいつになるんだよ?」


「さあね。それがいやなら脱出だっしゅつする方法を考えるべきだな」


 そんな無責任な。


「ああ、そうだ。忘れてた」


 高野はそういうと、まるで楽しむような口ぶりで、


「言っておくが、そこから早く脱出だっしゅつした方がいいぞ? そこ、女子更衣こうい室だから」


 なっ!?


 ぼくあわてて後ろをかえった。暗闇くらやみに目が慣れてきた今なら分かる。部屋へやの中央に置かれた長椅子ながいすと、両脇りょうわきに設置されているロッカー。おくの方にはシャワールームらしきものも見えている。


「おい、高野! ふざけるな、さっさとここから出せ!」


「ほんじゃあな。バイバイ、相棒」


 何が相棒だ。


 高野の遠ざかる足音を、ぼくはただ茫然ぼうぜんと聞いていた。これはまずい。本当にまずいことになった。


 ここの部員が帰ってくる=死、ということを瞬時しゅんじに理解したぼくは、あまりの恐怖きょうふおののいた。


 これは、早く脱出だっしゅつしなくては……。


 とびらからすことを早々とあきらめたぼくは、部屋へやの電気を付けると、部室の小窓、シャワールームの通風孔つうふうこう蹴破けやぶれそうなかべなど、様々な所を探した。


 しかし残念ながら、出られそうな所は見当たらなかった。ぼくあわてふためいていると、ふととびらの外でだれかが近づくのが聞こえてきた。


「あれ、電気がついてる? おかしいな」


 そんな声と共に、ガチャリ、と施錠せじょうされていたとびらが開いた。


 だれかが帰ってきた!


 ぼくあわててかくれる場所を探そうと試みた。が、それが逆効果だった。


 ガタリと、きしんだゆかが音を立てると、ぼくは盛大にコケてしまった。


だれ!?」


 緊張感きんちょうかんのこもった女子の声。それと共に、彼女かのじょぼくの視線がぶつかった。




  〇


「あっ」


 時が止まるような思いだった。


 まさか、こんな最悪の状況じょうきょうで再開するとは思ってもみなかったのだ。


 部室に入ってきたのはなんと若菜さんだった。警戒けいかいしたような表情で、こちらをじっとにらみつけている。


 久しぶりにみた彼女かのじょは、昔の面影おもかげを残していながらも、二年間という時を経て、随分ずいぶん大人おとなびて見えた。


 白のテニスウェアに身を包み、右手にはラケット。かみは昔よりも随分ずいぶんばし、後ろで一つにっている。


 太ももまでしっかりと見えるそのウェアーに、ぼくの視線は自然と下の方へと向かってしまっていた。


 若菜さんはぼく認識にんしきすると、ムッとした目つきで近づいてきた。


「あなた、こんなところで何してるの!」


 なぐりかからん勢いで目の前までやってきた彼女かのじょは、ぼくのことに気が付いていないみたいだった。


 キッとにらみをかし、


「ここが女子更衣こうい室だと分かって侵入しんにゅうしたのなら、わたしだって容赦ようしゃできないわよ?」


 久しぶりに彼女かのじょの声を聞いた高揚感こうようかんと、気づいていないという落胆らくたんが、同時にせてきた。


 まあ、もう二年も会ってなかったわけだし、しょうがないことなのだろうけど……。


「何か言ったらどうなの?」


 り飛ばさん勢いでせまってくる若菜さん。そういえば、今思い出したけど、彼女かのじょはとっても正義感の強い子だった。


 状況じょうきょうが悪化するのをおそれたぼくは、あわてて口を開いた。


「その、いかる気持ちは分かるんだけど、これは不運というか、悪意はなかったというか、められたというか……」


められた?」


 若菜さんの表情はいかりと戸惑とまどいが混ざっていた。ぼく曖昧あいまいに笑って見せる。そりゃ信じないでしょうね、はい。


「それって――」


 そこまで言いかけた時だった。若菜さんは口を閉ざすと、まじまじとぼくの顔を見つめた。それはそれは、じっと見つめるのでこっちがずかしくなるほどだった。


「秋月君?」とボソリ、彼女かのじょつぶやいた。


「あ、うん。秋月です」


 このタイミングで、若菜さんはぼくのことを思い出してくれたみたいだ。そのことは素直すなおうれしいが、この状況じょうきょうではうれしさも半減だ。


「どどど、どうして秋月君がここに? え、あれ?」


 若菜さんはとても動揺どうようしているようだった。


「話すと長いんだけど……」


「手短に!」


められました」


「なんでもっと先に言わないの!」


 さっき言ったんだけど……。


「まずいわね」


 彼女かのじょはバツの悪そうに顔をゆがめた。そして、「もう少し早く言ってくれれば良かったのに……」とうらみがましくつぶやいた。


 それとほぼ同時だった。


 キャハハハッ。


 なんていう、甲高かんだかい笑い声と共に、入口から練習終わりの女子部員たちがドッとせてきたのだった。

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