第二章 彼女の名前は若菜香織

第九話 悪夢と不機嫌と任務と……

 楽しかった雰囲気ふんいきが台無しだ。


「----」


 ぼくがその言葉を口にした途端とたん彼女かのじょの表情は一変した。みをかべてはいたが、明らかに動揺どうようしていたし、困惑こんわくしているようにも見えた。


 ぼく刹那せつなに、その言葉を彼女かのじょに告げたことを後悔こうかいした。


 彼女かのじょ遠慮えんりょがちに微笑ほほえむと、うつむき、地面を見つめた。そして、足元に転がっていた小石を、力なくり飛ばした。


 彼女かのじょだまっている間、ぼくしゃべりもせずに、彼女かのじょからの返事を待っていた。


 それは五分くらいの短い時間だったのかもしれない。あるいはもっと短かったのかも。しかしぼくにはそれが、一時間をえるくらい長い時間に感じられたのだ。


 彼女かのじょは「あのっ!」っと意を決したように顔を上げると、


『ごめんなさい!』


 そう言いながら、ペコリと頭を下げた。そして、背を向けてこの場を去って行ってしまったのだった。


 


  〇


 ねんばかりの勢いで身体を起こすと、寝汗ねあせまみれの自分がいた。びしょびしょになったTシャツが背中に張り付いて気持ち悪い。首筋や額にも多量のあせをかいていた。


 とっても気分が悪い。ぼく布団ふとんをおっぽり出すと、二、三度深呼吸し、精神をおだやかに保つことに集中した。


「……」


 まさか、あんな夢を見るとは思ってもいなかった。もう二年以上前の出来事だというのに、ぼくの心はいまだにあれをトラウマだと思っているようだ。


 悪夢、というほどのものではない。ただ、思い出したくない過去が夢となって現れたのだ。


いやあせをかいた……」


 悪夢は拝んで忘れるべし。ぼくは秋月家に伝わる家訓に従い、両手をゆかに付けると、深々と頭を下げ、阿弥陀あみだ経を唱え始めた。


 なんまーだーぶ、なんまーだーぶ、なんまーだーぶ、なんまーだーぶ……。


 十分ほどたっただろうか。


 落ち着いてみると、なんてことはない夢なのであった。事実とはちがっていたし、いくらか誇張こちょうもされていた。だって、ぼくは直接あんなこと言われていない。


 これが夢に現れたというのは、何かの前触まえぶれなのだろうか。何か良くないことが、これから起こるとか? まさか、彼女かのじょが何かやらかそうとしてるんじゃないだろうか。


 ぼくの心配はいつの間にかさっきの夢から、新しく天文同好会の部長になった南雲なぐも結月ゆづきへと移っていた。




  〇


『急務』


 彼女かのじょからそんなメッセージが届いたのは、晴れた日の昼下がり。  


 ブルブルとスマホが鳴ると、先ほどのメッセージと共に『至急、部室に来られたし』という文面が入ってきた。


「んん?」


 おそめの昼食をとっていたぼくは、カップラーメンをすすりながら、まじまじと文面を観察してしまった。


 彼女かのじょからメッセージが入ることは滅多めったにない。メールよりも電話を好む傾向けいこうがあるらしく、彼女かのじょからの連絡れんらくの大半が通話である。


 そんな彼女かのじょがメールを寄越よこしたということには、二つの理由が考えられた。


 一つは、彼女かのじょが今、通話ができない状況じょうきょうにいるということ。講義に出ていたり、うるさくできない場にいる可能性。


 そしてもう一つは……、あまり考えたくないんだけども。彼女かのじょ機嫌きげんがすこぶる悪いという可能性である。機嫌きげんが悪すぎて通話だとうまく会話できないからメールで済ませてしまった可能性である。


 ぼくとしては前者だと助かるんだけど、文面からして後者の方が、確率が高そうだ。


「…………」


 ぼくあわててカップラーメンを口の中にかきむと、上着を羽織り、部屋へやを飛び出した。




  〇


 春の気が色濃いろこくなってきた最近では、昼過ぎになればあせばむ暑さになっていた。それに加えて、あわてて大学に向かったのだ。部室に着くころには額や背中に大粒おおつぶあせんでいた。


 部室のとびらを開けると、ソファーに腰掛こしかけている彼女かのじょの姿が目に入った。足を組み、口をとがらせ、手元の手帳をにらみつけている。


 ぼくの存在に気が付くと、彼女かのじょは開口一番「おそい」と、そう毒づいた。


 ハハッ……。ぼくは苦笑いをかべた。


 彼女かのじょはとってもおかんむりのようだった。眉間みけんにシワを寄せ、今にも「お前を死刑しけいに処す」と宣告しそうな勢いだ。


 そんなご立腹な彼女かのじょを表しているかのように、今日きょう彼女かのじょは紅色のニットを着ていた。 薄手うすでのゆったりとした種類でデニムと良く似合っていた。


 彼女かのじょいかりが何に対してなのか分からず、ぼくはおずおずといった調子で丸椅子いすこしかけた。


「どうしてダメなのか、全く分かりませんが……」


 そう前置きしてから、彼女かのじょ不機嫌ふきげんのワケを話し始めた。彼女かのじょいかりの矛先ほこさきぼく、ではなく今回は学務に向いていた。


「部員が二人ふたりだけじゃ予算は出せないというんです」


 彼女かのじょいかっていた理由はこうだった。


 今回、無事に部員が増え、晴れて廃部はいぶからした天文同好会だったが、二人ふたりでは部として認められず、それならば部費も支給されないと、そういうことだった。


「この部室に使った諸々の経費をどうにか部費として落とさなくては……」


 彼女かのじょは力なくそうつぶやくと、白い顔をさらに青白くさせて慄然りつぜんとした。普段ふだん、冷静な彼女かのじょなだけに、そんな表情が見られたのはまれだった。


 変な意味はないのだが、ちょっと新鮮しんせんな気持ちで彼女かのじょを見つめていると「なんです?」ジロリと厳しい視線がこちらに飛んできたので、ぼくあわててごまかした。


「そ、それで。どうするの?」


 彼女かのじょは足を組みえると、こちらに向き直った。


「これは、後回しにしていたプランだったのですが……」


 ぼくに分からないことを前置きしておきながら、


「大学が部費を支給してくれなければ、天文同好会は破産です。そうならないためにも、先輩せんぱい手伝てつだってもらいたいことがあります」


「具体的には?」


「任務をあたえます」


 任務?


 すると彼女かのじょはいつもの、あの「ニヤリ」といった意地の悪そうなみをかべるのだった。




  〇


 部費が降りる最低ラインが五人らしい。つまり、ぼく彼女かのじょ以外に、あと三人の部員が必要だった。


わたし先輩せんぱいで分担して部員を見つけましょう。友達ともだちでもなんでも構いませんから。必要な人数を確保するのです」


 彼女かのじょはそう言い残すと、「善は急げ」とばかりに部室を飛び出してしまった。


「部員を、探す?」


 ポツンと取り残されたぼくは、彼女かのじょの出て行ったとびらを見つめた。部員を確保すること。それはぼくにとってかなり厳しい条件だった。過酷かこくと言っても良いかもしれない。


 大学での友達ともだち


 それは、半ば引きこもりみた生活を送っていたぼくにとってはかない夢のように思われた。


友達ともだちなんて……。いるわけないじゃん」


 これは困ったことになった。

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