第八話 星空散歩      


 暖かくなってきたとはいえ、日の暮れた後の屋外はとても冷えていた。ましてや、車で数十キロ走った先の山中であり、冷えるのも当然と思われた。


「着きました」


 ぼく彼女かのじょを乗せた車は、大学から三十分くらいはなれた山奥やまおくまでやってきていた。そこは街中の光が届かない、都会のにおいが全くしない世界である。


 エンジンを切ると、途端とたん静寂せいじゃくおとずれた。彼女かのじょは「我慢がまんできない!」といった感じで我先にと外に飛び出した。


「うわあー、綺麗きれいですね!」


 興奮した様子の彼女かのじょがそうさけんだ。


先輩せんぱいも早く外に出て下さいよ!」


 そしてバンバンと助手席のドアをたたいてくる。


 外に出ると、森林の中特有のあのにおいがただよってきた。精神がおだやかになる、あのにおいだ。これがフィトンチッドというのは、後から彼女かのじょによって知るのだか、それはまた別のお話。


今宵こよいの空は肉眼からでも十分楽しめるくらい星々がかがやいて見えた。一面の星空である。


 雲は夜空をさえぎることなくただよい、天体観測をするには十分なスペースが確保できていた。これなら彼女かのじょも楽しめるだろう。


 ぼく早速さっそく機材の設置にかった。


 トランクには、三脚さんきゃく・望遠鏡・ランプ・それから双眼鏡そうがんきょうが傷つかないように毛布にくるまれて積まれていた。三脚さんきゃくをなるべく水平になるように地面に置くと、口径八十ミリ、倍率四十倍のレンズを望遠鏡にはめんだ。


「ううっ……」


 木の葉がれるほどの風がくと、体が冷えた。こんなことならもっと厚着をしておけばよかった。


 ぼく身震みぶるいしているのを見て、彼女かのじょは買っておいたかんコーヒーこーひー手渡てわたしてくれた。


「ありがとう」


「いえいえ。こればっかりは初心者なもので、手伝てつだえませんから」


 彼女かのじょは、望遠鏡をうかがけることを、今か今かと待ちわびているようだった。さっきから目がキラキラとかがやいている。しかし、久しぶりにいじったせいか、望遠鏡の設置にはもう少し時間がかかりそうだ。


「望遠鏡はもう少し時間がかかりそうだなあ。良かったら、双眼鏡そうがんきょうを先に見てみると面白おもしろいかもよ」


「では、そうします」


 彼女かのじょはトランクから小型の双眼鏡そうがんきょうを取り出すと、のぞみながら夜空を見上げた。


「おーおー」


 クルクルと回るようにして星空をのぞ彼女かのじょ。そのステップはかろやかで、まるで舞踏会ぶとうかいに招かれたお姫様ひめさまのようだ。


 双眼鏡そうがんきょうからは肉眼では見えないレベルの小さな星々が、丁寧ていねいえがかれた絵画のように見える。それはまるで、星空を散歩しているような錯覚さっかくおちいるほど、魅惑的みわくてきな世界が現れるのだ。


 双眼鏡そうがんきょうは、初めて天体観測に来た人の心をつかむのに最適なアイテムだった。


 ぼくも二年前、まだ天体望遠鏡をあつかえなかったころ、初めて見上げた夜空で「すげ……」と心をうばわれたものだった。


 あれからもう二年もってしまったのか。早いものだ。


「どう?」


「とっても綺麗きれいです!」


 そうだろう、そうだろう。


 なぜだかぼくほこらしくなっていた。


「春の大三角形を探してみてごらん」


挑戦ちょうせんですか? 良いでしょう、受けて立ちます」


 彼女かのじょは食い入るように夜空を見上げたが「分かりません」とすぐに根を上げた。


 早いな。


 春の大三角形はオレンジ色にかがやくうしかい座の「アークトゥールス」とおとめ座の「スピカ」、それからしし座の尻尾しっぽにあたる「デネボラ」の三つで作られる。


 オレンジ色の「アークトゥールス」は見つけやすいから、それをたよりにしてほかの二つを探し出せば、春の大三角形の出来上がりだ。


「ああ、ありました、ありました!」


 彼女かのじょうれしそうな声がひびく。


「そこから北にゆっくりと移動させて見えるのが北斗七星ほくとしちせいだよ」


「なるほどなるほど」


「デネボラの星座は「しし座」の尻尾しっぽって言ったけど、さらに進むと「かに座」があるね。かにの甲羅こうらに当たる「プレセペ星団」が見つけるヒントになると思う」


「ふむふむ」


 春の星座はほかにも「おおぐま座」「やまねこ座」「ケンタウルス座」などが見える。全体的に大きな正座が特徴とくちょうかもしれない。見ていてきないのだ。


 そうこうしているうちに、天体望遠鏡の設置が済んだのだが、彼女かのじょ双眼鏡そうがんきょうによる星空散歩に夢中になっている様子で、ぼくはしばらく彼女かのじょを見つめていた。


 彼女かのじょは時々「おー」とか「ははっ」とひとちては、楽しそうにクルクルと回っていた。星空に負けず彼女かのじょも十分かがやいていた。


「こっちものぞいてみる?」


「はい」


 双眼鏡そうがんきょうから目をはなした彼女かのじょもとには、ちょっぴりとのぞきアトが残っていた。


「何をのぞけば良いんです?」  


「そうだな……」


 と勿体もったいぶった言い方をしたぼくだったが、初めての天体観測では、のぞくものが決まっていた。星見同好会としての第一歩というか、なんとなく定番モノになっているやつだ。


「うん、一番初めは月を観察するのが良いと思うんだ」


「月ですか。良いですね!」


 彼女かのじょは目を細めながら、肉眼で月を見上げた。肉眼でも十分楽しめるのは月の良い所だ。


「でも今日きょうは満月ではないですね。折角見るなら満月だったら良かったのに……」


 彼女かのじょは残念がっているようだった。


「でも、そうでもないんだよ。満月は確かに明るくて綺麗きれいだけど、望遠鏡で見るにはちょっと立体感に欠けるんだ。逆に半月くらいが明暗がはっきりしていて、見応みごたえがあるんだよ」


「そうなんですか。それは目からうろこです」


 ということで早速さっそく、天体観測にかる。獲物えものひかかがやく半月である。


「まずは鏡筒きょうとうそのものを月面に向けてみよう。それからファインダーって言って、上の小さなレンズをのぞいてごらん」


 彼女かのじょはとっても素直すなおぼくの言葉に従ってレンズを調整し始めた。


「なんだかこちらのレンズ、変ですね」


「そうなんだ。ファインダーは倒立とうりつした状態の絵が見えるからまどわされないように注意して」


了解りょうかいです」


 彼女かのじょは器用らしく、ぼくが昔、散々手こずった作業を容易たやすくこなしてしまった。


「どうです?」


「うん、ばっちり」


 レンズをのぞきこむと、そこにはピンとの外れた月面があらわになっていた。


「あとは、手元のピントノブを回していけば、綺麗きれいな月面が見えるよ」


 彼女かのじょは無言のまま、ゆっくりとノブを回していく。慎重しんちょうに、タイミングをのがさないように。しばらく回したところで、ピタリと彼女かのじょの手が止まった。


 レンズをのぞいている彼女かのじょの横顔を、ぼく固唾かたずを飲んで見守った。彼女かのじょおどろいているだろうか、感動しているだろうか、それともがっかりしているだろうか、何も感じていないだろうか。


 その表情からはよく読み取れなかった。


 しくじったかな?


 彼女かのじょがあまりにもだんまりをむものだから、ぼくは不安になってしまった。


 ニヤリ。と彼女かのじょほおゆるんだかと思うと、


「見て下さいよ、これ! 大成功です!」


 まるで初めて書いた絵を母親に自慢じまんする子供のように、彼女かのじょは満面のみで喜んだ。


 ぼくもホッと胸をろす。


「今のレンズは倍率が四十なんだけど、百倍、百五十倍と上げてみると、もっと面白おもしろいものが見れるよ」


 ぼくは持ってきていた接眼レンズを手渡てわたした。


 夢中になっている彼女かのじょとなりで、ぼくも夢中になりかけていた。外気は冷たいが、気分は高揚こうようしており、体はポカポカだった。


 夜空にかがやく月面にせられた彼女かのじょは、もはや、天体観測のとりこである。


 夢中になっている彼女かのじょを他所に、ぼくいてあったマットにこしかけた。そして飲みかけのコーヒーをチビチビとすすった。


 望遠鏡をいじくり回している彼女かのじょの姿を見ていると、二年前初めて自分が行った天体観測を思い出した。


 そこには、ぼくたち新入生男女数人が苦戦しながらも、何とかピントを合わせようとしている姿と、それを少しはなれた位置から微笑ほほえましそうにながめている先輩方せんぱいがたの姿があった。


 あのころ先輩方せんぱいがたも、こんな思いでぼくたちを見つめていたのだろうか。今では廃部はいぶ一歩手前という、存続すらあやういサークルになってしまったのだが……。


「ふう」


 いつの間にか、一段落ついたのだろうか、彼女かのじょとなりすわんでいた。


「おつかれ、どうだった?」


素晴すばらしいですね」


 そうだろう、そうだろう。


 完全にあたたかくなってしまったもう一つのかんコーヒーこーひー彼女かのじょ手渡てわたした。


「ありがとうございます」 


 そして、しばらくの沈黙ちんもくが、二人ふたりおとずれた。


 沈黙ちんもくが苦手なぼくは何か彼女かのじょに話さなければと、あれこれ会話の種を探していたのだが、彼女かのじょを見るとむしろ真逆まっさかさまで、この静寂せいじゃくを楽しんでいるようだった。


 彼女かのじょはマットにゴロンと寝転ねころぶと、大の字になった。そして肉眼での星空を楽しんでいた。


先輩せんぱいもどうです?」


 彼女かのじょすすめられ、ぼく仰向あおむけに寝転ねころぶ。星や月明りを背景に、森の中で虫の鳴く声が聞こえてきた。静寂せいじゃくだとおもんでいたが、実はたくさんの虫たちが音楽をかなでていたのだ。


 ぼくだけが気が付かなかっただけで。


「あれはなんていう星です?」


 虫の声に気を取られていると、彼女かのじょが夜空を指さして聞いてきた。


「あれは、「うみへび座」のおなか


「じゃああれは?」


「あれは、「からす座」」


「「からす座?」 そんなのがあるんですか?」


「うん、ぼくも昔びっくりしたけど、あるんだよ。さっきの「うみへび」と「からす」の間にあるのが「コップ座」」


「「コップ座」……。ヘンテコな星座があるものですね」


 はは。


 星にはそれぞれ等級というものがあって、六等級と一等級では約百倍の明るさがちがうという。春の星座には三つの一等星があるが、それがさっき言った春の大三角形。その中でも、うしかい座の「アークトゥールス」は物凄ものすごい光を放っている。


 それは、古代ギリシャの詩人が歌にするほど、中世の人が航海の目印にするほど、昔々から人々の目に映っていたのだ。


「そして今はわたしたちがながめているんですね」


 ニヤニヤとした顔で彼女かのじょにそう言われ、ぼくずかしくなった。ロマンチックなことを話すのはじゃないのだ。


 くしゅん。


 とそう、可愛かわいらしい音が聞こえてきた。


「すみません」


「いや。もう寒くなってきたし、そろそろ帰ろうか」


先輩せんぱい


 彼女かのじょは急に起き上がると、マットの上で居住まいを正した。急にそんな姿勢になったものだから、ぼくまでも正座をして彼女かのじょと向き合った。


「……どうしたの?」


 彼女かのじょは一呼吸すると、意を決したように話し出した。


「やりませんか? もう一度。天文同好会を!」


「…………」


 彼女かのじょには強引ごういんな所がある。口は悪いし、マイペースだし、自分がやりたいことは何でも実行に移してしまう。


 そんな彼女かのじょかれてしまうのは、彼女かのじょ忌憚きたんのない立ち居いにあこがれをいだいてしまっている自分がいるからなのだ。


「はい」


 ぼくの返事を聞いた彼女かのじょは、怪訝けげんな顔になった。てっきり喜んでくれるかと思ったのだが。


「……ホントに?」


 彼女かのじょぼくの言葉を疑っていたみたいだ。


「え? う、うん。ホントホント。ウソはつかないよ」


 まさかここまでぼくの言葉は信用がないとは。苦笑くしょうがこぼれた。


「そう」


 彼女かのじょうれしい、というよりは、ホッとしたというような表情でほほんだ。


「では先輩せんぱい。よろしくお願いします」


 ぼくの引きこもりみた生活は、こうして幕を閉じたのだった。

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