第二十一話 苦しみ
守ノ
妃を迎えると云っても、正式な婚姻の儀式は守人が十五歳を過ぎてからになる。
迎えられた三人の妃たちは、皆守人と歳の変わらぬ娘ばかりだった。只一人、守人よりもふたつばかり歳上の
皆容姿端麗な娘たちだったが、只ひとつ云えるのは、守人の方がその誰よりもずっと美しいという事だろう。
守人は、その妃たちの前でも笛を吹くのをやめようとしなかった。そんな守人の態度にほとほと嫌気がさしたのか、呵真凪を残した他の二人は月日も経たぬうちに神殿を後にしてしまった。
そして呵真凪が只一人の妃となってからは、タケルが守人の元へ呼ばれる事もなくなった。呵真凪が呼ぶ事を嫌がるのだろう。
タケルは、また一人になった。
そんなある日、タケルは再び
「久しぶりですね、タケル」
無理に微笑んだ顔が、痛々しい。タケルは、小さく頭を下げた。
「様々な出来事が度重なり、あなたも大変な思いをしましたね」
明らかに自分よりも苦しみや悲しみの深い者に労られるのは、酷く心苦しい。
「
母である龍貴妃の想いなど、きっとタケルには量り知れない。
「牙星なら、きっと大丈夫です」
慰めなどではない。牙星の逞しさは、タケルが一番良く知っている。タケルの言葉は、幾らか龍貴妃の表情を和らげた。
「あの子が一番心を開いていたタケルにも、先視の語った予言を話さなければなりません」
「予言……」
タケルの心臓が大きく波打つ。
「あの二人が出会ってしまった時、龍神を巡る争いが始まるという話は、以前にもしたと思います」
「はい」
牙星と守人の事だ。
「その歯車は、すでに回り出してしまったようです」
「じゃあ……」
「もう、二人の争いは、避けられぬものとなってしまったのです」
龍貴妃の落ち窪んだ眼に、暗い影が過る。タケルは、胸を突かれるような感覚を覚えた。
龍神は、只一体。
命を共にする龍神が居なければ、真の皇帝になる事はない。
龍神を得ない皇帝は、謀反を起こされる可能性が高い。龍神と命を共にする皇帝は、云わば不死の身。老衰以外で死ぬ事はない。
互いに争い、片方が命を落とさぬ限り、龍神は現れない。牙星か守人。どちらかが死ぬ。それは、避けられぬ宿命なのだ。
一対一の勝負をすれば、牙星が龍神を得る事は確実だろう。けれど大臣たちは、自分たちの
「けれども先視は、牙星と守人、そのどちらも龍神を得る事はないと語りました」
「えっ」
タケルは、その意味が判らなかった。
「そして先視は、この世界を真に手にする者の名を告げています」
タケルは黙したまま、龍貴妃の眼を見詰めた。黒い水晶のような妃の瞳が揺れる。
「タケル、あなたなのです」
タケルはすぐには、その言葉を呑み込む事ができなかった。
「この天上の世界を得る者は、あの二人のどちらでもなく、あなたなのです」
タケルは、戸惑い困惑した。
何故。
この自分が牙星や守人を差し置き、世界を手中にするというのか。
「どうして、僕が……」
「この世界は、龍神の
龍神の御子だから。
龍神の血を受けた御子だから、タケルを欲している。
只、それだけの理由で。
心臓の辺りが重く苦しくなるのをタケルは感じた。
「あなたが、この世界を手にするべきなのです。その為ならば……」
一瞬、龍貴妃は躊躇うように言葉を濁した。
「……その為ならば、牙星と守人、あの二人の命を絶つ事も辞さないのです」
タケルは、絶句した。
感情を圧し殺した
母親自らの、苦しい言葉。
それが定め。けれど。
己が腹を痛めて産み落とした我が子二人の命を、タケルが絶つ事を許すというのか。
タケルの前で、牙星は嬉しそうに笑っていた。誰よりも一番に母を慕い、母の話をする時はいつでも自慢気な顔をしていた。
それなのにこの母は、その牙星の命を絶てと云うのか。
タケルは、眼の前の龍貴妃に激しい憤りを覚えた。強く握り締めた、拳が震える。
「あの二人は、僕の大切な友達です。その友達の命を、奪うなんて絶対にできない‼」
タケルは強く云い放つと、そのまま背を向け部屋を飛び出した。これ以上、龍貴妃の顔を見ていたくなかった。
龍貴妃が、酷い母親に思えた。生まれてすぐに守人を暗い地の底へ閉じ込め、自分の手で育てた牙星を、苦しみの末とはいえ殺しても良いと口にした。
牙星と守人が、あまりに憐れに思えてならなかった。
母親というものは、皆あのような決断を降すのだろうか。タケルは、心の中で激しく否定した。
自分の母は、きっと違う。タケルは、せめてそう信じたかった。
長い廊下を渡りながら、タケルは開けた空を見上げた。今牙星は、何処でどうしているのだろう。
懐かしい、牙星の笑い聲。
タケルは澄んだ青い空の彼方に、想いを馳せた。
◆
緩やかに優しい音色。低い午後陽射しを受け、
広いこの部屋に居るのは、守人と呵真凪の二人だけ。守ノ皇帝の正妃候補となった呵真凪は、毎日繰り返されるその光景を呆れながら眺めていた。
ふいに、笛の音が止む。
「タケルを呼んで欲しい」
「あのような得体の知れぬ者、皇帝の元へなど招けません」
そう頼む守人を、呵真凪は鋭く睨んで云い捨てた。
「……そうか」
一瞬の間を空けて、納得したのか守人が呟く。無知な守人は、人の云う事を何でも鵜呑みにしてしまうのだ。そして守人は、再び笛を口元に近づけた。
「もう、お止め下さい!」
咄嗟に呵真凪は、守人の手から笛を奪い取っていた。他の逃げ帰った娘たち同様、呵真凪もいい加減この音色に嫌気がさしていた。
手のひらに掴んだ、ひやりとした硬い笛の感触。
守人は、ゆらりと顔を上げた。紅の
瞬間、呵真凪は息を呑んだ。
これまで表情すら見せた事のなかった守人の両眼には、激しい怒りが宿っていた。
呵真凪の全身に、鳥肌が立った。思わず、握っていた笛を落としてしまった。呵真凪の手からすり抜けた笛が、音を立てて床に転がる。
守人はそれを静かに拾い上げると、何事もなかったかのように再び旋律を奏で始めた。その顔は既に、いつもの人形のような無表情に戻っていた。
呵真凪は、まだ心臓の高鳴りが治まらなかった。すっかり青ざめた呵真凪の額から、冷や汗が滑り落ちる。怯えきった呵真凪は、逃げるように部屋を飛び出した。
父親の計らいで妃におさまったものの、呵真凪は守人の事を何も知らない。だが、いくら気味が悪いからといって、他の娘のようにみすみす正妃の座を降りる気など毛頭ない。
呵真凪は以前に、皇子であった牙星の姿ならば幾度か眼にしていた。本当は守人ではなく、兄である牙星の方に好意を寄せていたのだ。
呵真凪はこの神殿の内情を知る者に金品を握らせ、こっそりと守人の笛について話させた。その者は少し躊躇いながらも、圧し殺した聲で語った。
「……あの笛は、守ノ皇帝が胎内から生まれ出でる時に、既に手の内に握り締めていたと聞きます」
「胎内から……」
呵真凪はその異様な話に、顔をしかめた。
母親の胎内から、笛までもが共に産み落とされたというのか。俄には信じがたい、奇妙な話だった。
「最初は豆粒程の大きさであったそうですが、守ノ皇帝の成長と共に丈が伸び、今に至ったといいます」
呵真凪の額に、冷たい汗が滲んだ。先程垣間見た守人の眼を思い出し、再び背筋に寒気を覚えた。
笛を手に握り締めたまま生まれ落ち、表情も感情も示さない童子。
呵真凪は守人に対し、最早愛情など抱けるわけもなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます