第十七話 引き離された温もり

「……眠れぬのか」 


 どれ程時が過ぎた頃か。双葉の間近で牙星きばぼしが囁いた。

 目蓋まぶたを閉じてからずっと、双葉は夢と現の境目を波に漂うように交互していた。その事に牙星気づいていたようだ。

 双葉はまなこを開き、ゆっくりとした動きで牙星を見た。だいぶ上まで昇った白い月の光に照らされ、その相貌はこの世の人とは思えぬ程に美しかった。双葉は、思わずうっとりと見入ってしまった。そして、頬を染める。自分は今、この人の腕の中に包まれている。その現実も、双葉の胸を高鳴らせた。


「やはり、この情況での安眠は無理だったかもな」


 そう云って牙星が苦笑する。何となく気恥ずかしさを覚え、双葉は俯いた。火照った頬を牙星に気づかれてはいないか、ほんの少し心配になる。


「ならば双葉、儂に昔語りをしてくれぬか」

 

 双葉がきょとんとして顔を上げた。


「私は、物語などひとつも知りませんっ!」

 

 双葉が困ったように首を振る。


「儂は、お前自身の昔を知りたいのだ」

「私の、ですか……?」

  

 双葉が眼を丸くして尋ねる。牙星は大きく首肯うなずいた。


「お前は、いつから巫殿に居たのだ?」


 牙星に訊かれ、双葉は少し黙った。僅かに視線を逸らし、月の照らす夜空を見詰める。そして一度眼を閉じて再び開くと、記憶の糸を手繰り寄せるように静かに言葉を紡ぎ始めた。


「私は、まだ五つになったばかりの頃に、生まれ育った村からあの巫殿へと連れて来られました。その時の事は、ぼんやりとしか覚えていません。外の世界での記憶は、もう殆ど曖昧です」


 双葉は、朧気な記憶を辿った。大切な、決して手離す事なくしまい込んでいた、記憶。霞みがかったように淡い、生まれた村の景色。父と母の顔すら、双葉は覚えていない。


「それからずっと、外へ出る事もなくあの場所に居たのか」

 

 双葉はゆっくりと首肯うなずいた。


「私は物心ついた時から、龍神様に仕える事だけを教えられてきました。お前は龍神様に仕える為だけに、ここに居るのだと、それが全てなのだと……」


 双葉が、眼を伏せ俯く。俯いた双葉の表情は、牙星からは見えなかった。

 お前は龍神様に、お前の全てを捧げるのだ。それが、お前の存在の意味。お前の定め。

 幾度となく繰り返し聞かされてきた、言葉。


「お前は何故、姫巫女に選ばれたんだ」

 

 心なし低いこえで牙星が尋ねた。


「……この額の、眼の所為せいです」

「何だと」

 

 牙星が顔をしかめた。


「私の生まれた家には、度々額に第三の眼を持つ女の赤子が誕生します。夫婦の間に最初に生まれた第三の眼を持つ女の赤子を、龍神様に差し出すのです」


 双葉はわざと感情を押し殺すように、淡々と言葉を紡いだ。まるで何処か遠い場所の、知らぬ誰かの事を語っているかのように。


「お前は、最初に生まれた女だったのか」

 

 双葉は、ゆっくり首肯うなずいた。


「只それだけの事で、お前は姫巫女にされたのか」

   

 双葉は何も答えなかった。

 そう、只それだけの事なのだ。

 双葉が姫巫女として差し出されたのは、只それだけの理由。条件さえ揃えば、双葉でなくとも誰でも良かった。


「何故……何故、額に眼を持つ女でなければならないんだ!」 


 牙星が僅かに聲を荒げた。双葉は口を閉ざしたまま黙っている。

 牙星は少し怒ったような顔で、双葉を見詰めた。


「……祭りに、関係があるのか」


 牙星の腕の中で、双葉の体が僅かに震える。



「祭りとは、一体何なのだ」

 

 その時だった。



 周囲が真昼のような明かりに晒された。

 二人は驚いて振り仰いだ。

 数え切れない松明の炎。その明かりに照らし出された、同じ数だけの兵士たち。気づかぬ間に、完全に囲まれていた。

 見渡す限り、松明の海。最早、逃げ道はなかった。



「甘かったようだな、牙星」


 牙星は、聲の主に鋭い視線を向けた。牙星に良く似た面差しの、皇帝の姿。牙星が、憎しみを込めて睨み付ける。


「やはり、童よのう。これで、我手中わがしゅちゅうから逃れたつもりか」

 

 牙星は、素早く剣を抜こうとした。と同時に、腕に冷たいものが触れた。背後に回っていた兵士の剣の歯。牙星がそれ以上動く事を許さなかった。


「文字通り、手も足も出んというわけだな」


 口元に笑みを浮かべた皇帝が云った。牙星は、きつく奥歯を噛み締めた。


 抵抗すらできぬまま、二人の体が引き離される。

 牙星と双葉は、兵士に両腕を掴まれ拘束された。先程まで分かち合っていた互いの温もりが、冷たい夜風に触れ、溶けていく。


「さあ、早急に神殿へ戻るぞ」

 

 野太い皇帝の聲が、夜も更けた闇に響いた。


 牙星は必死に抗い、掴まれた両腕を引き抜こうとした。だが、兵士の手は鉄のように頑丈でびくともしない。牙星は首を動かし、双葉を探した。松明が照らし出すのは兵士の姿ばかりで、双葉を見つける事は出来なかった。


「双葉っ! 双葉っ!」


 牙星は、聲が擦り切れる程に叫んだ。双葉を、双葉だけは、絶対に守ると決めた。

 何度も何度も叫んだ。応える聲もないまま、牙星の叫びは虚しく夜に呑まれた。


 皇帝は一人の側近を手招きで呼び寄せると、耳打ちするように囁いた。


「巫殿の者に伝えておけ。明日の夕刻、早々に祭りを行うようにと」


 皇帝の言葉に、側近が狼狽うろたえる。


「しかし、そのような事……。姫巫女はまだ、十五になっておりませぬ」

「後半月も悠長に待っていられるかっ! つべこべ申さず云う通りにせいっ!」


 最早皇帝に聞く耳などない。有無を云わさぬ命令に、側近はすごすごと引き下がった。


                   ◆


 タケルはその日、明け方近くに目を覚ました。昨夜は殆ど眠れなかった。

 様々な事が、頭を巡っている。

 昨日の夕飯時だった。巫殿の中が、にわかに慌ただしくなった。決して取り乱さない巫女たちが、落ち着かぬ様子で走り回っている。


 タケルがそれを耳にしたのは、夕飯を終えて部屋へ戻る途中の通路だった。

 牙星が、姫巫女を連れ出し、逃げた。


 巫女たちが話しているのを、偶然聞いてしまったのだ。タケルは最初、耳を疑った。

 何故、牙星が姫巫女を……?

 成り行きが全く判らない。だいたい、あの二人の接点が判らなかった。


 牙星が、姫巫女を連れて逃げる理由。

 神殿の皇子と、巫殿の姫巫女。タケルが全く知らぬ間に、あの二人は出会い、互いの存在を知ったのだろうか。何故だか、酷く落ち着かない心地だった。


 牙星と双葉。二人の間に何があったのか、タケルには判らない。

 けれど、二人は逃げ出した。

 全てを捨てて、二人は逃げ出したのだろうか。まるで、駆け落ちのように。

 気になって、眠れるわけもない。

 タケルは寝台から起き上がった。

 逃げた二人の行方が、その後二人はどうなったのか、ほんの些細な事でよいから知りたかった。


 タケルは静かに扉を開くと、音を立てぬように部屋を出た。そして足音を忍ばせゆっくり通路を進んでいく。その足は、白髪巫女の居る広間へと向かっていた。

 白髪巫女の元へ行けば、何か二人のその後が判るかもしれない。タケルは胸の奥に僅かな期待を込めて進んだ。


 慎重に辺りを確認しながら、誰にも見つからぬように長く暗い廊下を進んでいく。確か白髪巫女が祈りを捧げる広間はこの辺りだ。タケルは誰も来ていない事を確かめながら、足音を消して角を曲がった。僅かに扉の開いた間から、赤い光が漏れている。

 タケルは壁に張り付いた。気配を殺し、中を覗き込む。白髪巫女と、もう一人巫女が居る。二人の巫女は、小声で何かを話していた。タケルは、そっと耳をそばだてる。


「……もうこれ以上、嘆いても仕方ありません」


 諭すように白髪巫女が云う。


「しかし、心穏やかにいられましょうか」


 もう一人の巫女が、悲痛な聲で洩らす。白髪巫女が顔をしかめた。


「一晩中御祓をなさっても、外界の穢れを全て洗い流す事はできないでしょう」

 

 嗄れた白髪巫女の聲。姫巫女の事を云っているのは間違いなかった。


「皇帝はもう、お許しにはなりますまい」

「……早急に、仕度をせねばなりません」


 重く、苦しい聲だった。

 二人の巫女の会話から、結局牙星と姫巫女の逃亡劇は未遂に終わったのだとタケルは察した。捕らえ連れ戻された二人は、どうなったのだろうか。皇帝の意に背き、何のお咎めもないわけがない。

 タケルは息を潜め、更に巫女たちの会話に耳を澄ました。


「皇帝のお怒りは、頂点に達しています。最早誰の言葉も受け入れる事はないでしょう」

「ああ……、それにしても、今日の夕刻とは……」


 夕刻……。

 一体、何の事を云っているのか。

 嫌な予感を覚え、タケルの胸の鼓動が速くなる。


「けれど……姫巫女様は、まだ十五になられるまでまだ半月もあります」


 巫女は一瞬、言葉を詰まらせた。


「龍神が堕天になられるだけでは、すまされないかも知れません」

「……判っています」


 白髪巫女が苦し気に答える。祭壇の炎が小さな火の粉を散らした。


「けれど、皇帝の命令は絶対です。例えそれが、どのような結果を招こうと……」

 

 二人の巫女の影が、炎に揺られ長く伸びる。


「神の御意思にたがいどうなられようと、それはもう、皇帝の自業自得です」


 一体、何の話をしているのか。

 タケルは、一言も聞き漏らすまいと無我夢中で耳をそばだてた。


「……さあ、仕度に取りかかりましょう」

 

 白髪巫女の影が、ゆっくり動く。




「姫巫女様を……龍神の花嫁という名の、貢物として捧げる為に」




 タケルは、冷たい岩壁に背を付けたまま棒立ちになった。全身から、見る見る血の気が引いていくのが判った。

 タケルは息を呑んだ。渇いた喉が張り付いている。


 姫巫女を生きたまま、龍神への貢物として捧げる儀式。

 それが、祭りの全容だった。





 


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