第十六話 二人
炎に揺られた小さな弧影が、ゆっくりと振り向く。
「……
刹那、双葉は息を呑み、そして
「何故、またこのような処へ……」
もう、会えないと諦めていた。双葉は、まだ幻を見ているような心地だった。
「もう一度、お前のその眼に儂の姿を映してみたくなった」
牙星は、双葉の肩に手を伸ばした。まだ
牙星に初めて触れられ、双葉の内が小波のようにざわめいた。
「皇帝に知れれば、さぞお怒りになられます」
「構わん」
牙星は炎の明かりの中で微笑んだ。その笑みに、双葉の不安が溶けるように拭い去られていく。まるで雪を溶かす、春の陽射し。
もう会える事はない。
そう諦め、無理やり封じ込めようとしていた淡い恋心が、再び熱く焦がれていくのを双葉は感じた。
初めて名を呼ばれたあの瞬間に、この灯火は宿った。恋と呼ぶにはあまりにも
もうこの気持ちを止める事など、誰にもできはしない。
喩えそれが、禁じられた想いだとしても。
二人は、真っ直ぐに眼を合わせていた。まるで互いの心を確かめ合うように。牙星の眼は炎を映し、より深い紅に染まっている。双葉はその何処までも続く紅の中に、己の恋心を見透かされていくような気がした。
誰にも悟られたくない領域まで、見透かされていく。けれど、牙星ならば構わない。
そう思った。
双葉の眼の中で、柔らかく牙星の姿が揺れる。この人の形を、ずっと眼の中に宿していたい。叶うのならば、この身が失われる、その時まで。
双葉は、強くそう願った。
これ程まで、誰かを求める日が自分に訪れるなど、双葉は思ってもいなかった。生涯、姫巫女として生きるであろう事を疑いすらしなかった。
けれど目の前に佇むこの人は、自分を姫巫女以外の者にしてくれた。
双葉。
この人に名を呼ばれ、自分は只の娘に戻っていた。
この人の聲が、自分を只の娘に戻してくれた。
誰よりも貴く、愛しい人。
失いたくない温もり。
この人と共に生きていきたい。
心の底から、双葉は望んだ。
「双葉、儂と一緒に来ぬか」
「えっ」
儂と一緒に来ぬか。
聞き間違えだと思った。牙星の心を探るように、双葉が見詰める。
「儂と共に、ここを出るのだ」
双葉は己の耳を疑った。
寸分逸らさぬ、真っ直ぐな牙星の眼差し。その美しい紅の
「さあ、来い!」
牙星は返事も待たずに、双葉の手を引いた。その強引さに、双葉の体が前によろめく。
駆け出す、ふたつの影。
双葉のか細く白い腕は、牙星の手の中にしっかりと握られていた。女人のようにしなやかで、白く美しい牙星の手のひら。けれど双葉にとっては、誰よりも強く暖かな手だった。
長く暗い、巫殿の通路。何処まで続くのか、果てがないように思えた。
牙星の長い髪が、すぐ先で馬の尾のように揺れている。牙星に手を引かれ走りながら、双葉は不思議な心地でそれを見ていた。今の自分が何をしているのか、何をしようとしているのか、信じられない気分だった。
今自分は、巫殿の外へ出ようとしている。長い間、自分を外界から引き離し、閉じ込めていた巫殿から。
夢を見ているのではないかと疑う。けれど、この地面を蹴る足の感覚は間違いなく現実のもの。
何処へ行くのか、行き先すら告げずに自分を連れ出した牙星。
けれど何故か、双葉の中に不安はなかった。
牙星さえ傍に居てくれたなら、何も恐ろしくなどない。
全てを失っても、二人ならば生きていけると思った。
この通路は、胎児にとっての苦しく険しい産道のようだった。ここを抜ける事ができなければ、外界へ生まれ出でる事はできない。
双葉は、牙星の背中だけを見詰めながら走った。こんなに走ったのは、生まれて初めてだった。苦しくて、酷く呼吸が乱れていた。けれど、双葉は足を止めなかった。
繋がれた手の先の牙星に、全てを委ねる。
双葉は今、この狭い産道をくぐり抜け、外の世界へ生まれ落ちようとしているのだ。
続く、階段を駆け登る。
正面から、冷たい風が当たった。
外の風。双葉の頬を掠めていく。
その風に触れた刹那、脳裏の奥にしまい込んでいた記憶が驚く程鮮明に溢れ出でる。
燃え暮れゆく、空の色合い。
野遊び、舞い上がるたんぽぽの綿毛、双葉の小さな手を大切に包み込むように繋いだ、大きな手のひら。
まざまざと巡る記憶。まだ、姫巫女になる前の記憶。双葉と呼ばれていた頃の事。
「もう直ぐだ。お前に、本当の世界を見せてやる」
牙星の聲が、風に呑まれた。
風の中に、瑞々しい樹々の香りを感じた。
光。
そして双葉は長い道を越え、赤子のように生まれ落ちた。
「そこまでだ!」
その瞬間、重く鋭い聲が響いた。
二人は、はっとしてその場に立ち尽くす。
見渡す四方八方、数えきれない程の兵士たちが一面を取り囲んでいた。
「愚かな皇子(みこ)よ、観念するのだな」
牙星は、その獣のように野太い聲のする方を見た。屈強の兵士にも劣らぬ隆々の肉体を鎧に包んだ皇帝の姿。
牙星は歯を喰い縛り、有り余る憎しみを込めて父である皇帝を睨んだ。紅蓮の眼と眼がぶつかり合う。
「さあ、大人しく姫巫女を返すのだ」
皇帝は眼を細め、
牙星は、目線を横に動かした。皇帝の隣には、母である龍貴妃の姿があった。悲しげに揺れる眼が、真っ直ぐに牙星を見詰めている。
牙星は、母の眼差しから逃れるように視線を逸らした。
そして、ゆっくりと自分の傍らを見る。僅かに震えしがみつく、小さな手。絶対に守ると決めた、いとしい者の手。
牙星は再び、皇帝を睨み付けた。
促すように伸ばされた、父の太い腕。
牙星は、素早く腰の鞘から剣を抜いた。
「何をっ!」
周囲がざわめき、騒然となった。
牙星が鋭い切っ先を、迷わず姫巫女の首に当てる。
「寄るな! 近づけば、この者と共にこの剣で自害する」
牙星の聲が、夕闇の帳に響いた。堂々とした
「この
皇帝の怒号が轟く。煮えくり返る怒りを顕に、牙星を睨み付ける。牙星は、一切動じない。
「お前に、その娘が切れるのか?」
試すような皇帝の言葉。紅をさしたような唇に、嘲る笑みが浮かぶ。
「口からの出任せなど……」
皇帝は、半ばで言葉を呑んだ。
牙星の剣の歯が、ぴたりと吸い付くように双葉の細い首筋に触れていた。ほんの少しでも剣を動かせば、少女の柔らかな皮膚などひとたまりもない。
皇帝は、思わず怯んだ。
皇帝を見据える牙星の
双葉の首に剣を当てたまま、牙星はゆっくりと歩き出した。周囲を囲んだ兵士たちが、仰け反るように道を空けていく。
剣を翳したまま、二人の童は身をぴたりと張り付けその道を進んだ。
今その童たちが、ゆっくりと皇帝の
牙星は一瞬だけ眼を動かし、母である龍貴妃を見た。真っ直ぐに向けられた母の
牙星は無言のまま、龍貴妃の前を通りすぎた。
ゆっくりと、だが確実に二人は先へ先へと歩みを進めた。
手を出す事も追う事もできぬ兵士たち。数集まろうが、これではほぼ無能と云ってよかった。
兵士の囲む道を過ぎ、二人の姿は夕刻の闇と樹々の陰に消えていった。
「……皇帝陛下」
年老いた側近が、おろおろと様子を伺うように皇帝を見上げる。
「焦るでない。今姫巫女に事があっては、全て台無しであろう」
憤りを圧し殺し、皇帝が云った。
「あの者の好きにはさせん。時を待ち、必ずあやつを見つけ出すのだ」
いつの間にか訪れた夜の闇の中に、重たい皇帝の聲が溶けた。
◆
神殿から遠く離れた山道で、牙星はようやく剣を降ろした。するりと鞘に剣を納めると、そのままその手を双葉の頭の上に置いた。
突然受けたその行為に、双葉は驚いて顔を上げる。
「良く辛抱したな」
牙星は優しく微笑み、荒っぽく双葉の頭を撫で回した。やっと乾いた髪が乱れてぐちゃぐちゃになる。
「お前は、中々肝が座っている。それでこそ、儂の妃に相応しい!」
すぐ目の前で牙星が悪戯っぽく笑う。触れた牙星の手は、とても暖かい。先程までのぴりぴりとした緊張から、じわり解きほぐされていく。
牙星に触れられるだけで、双葉の心はふわりと舞い上がるようだった。
外の空気は、夜の
「お月様は、あんなにも明るいものだったのですね」
幼い頃に月を望んだ記憶など、双葉の中では朧気なものだった。
「ああ。けど陽の光に比べれば、月の光などとるに足らん」
「それ程眩しい光ならば、私には到底見る事など叶いませんね」
「あんなもの、直に見る奴など居るものか」
そう云って牙星は、愉快そうに笑った。
「今夜は、この茂みに身を隠そう。陽が登る前に山を越え、村の向こうまで行く」
「はい」
夜の間に山を越えるという手もあった。けれど双葉の体力を考え、牙星はそれを避けた。それに、夜の山を行くには灯りがいる。火を灯せば、追っ手に見つかる可能性が高い。
「腹は減らぬか」
「平気です」
実際牙星に尋ねるられるまで、双葉は空腹という感覚など全く忘れていた。
牙星と共に居ると、眼に見える現実さえ忘れてしまう事ができるようだった。自分が龍神に仕える、姫巫女である事までも。
双葉は少し寒気を感じた。初夏とはいえ、長く外界へ出る事のなかった双葉には、夜の風は肌にこたえた。白い腕に、ざらざらとした鳥肌が立っている。双葉は肩を縮ませ、両腕で抱え込んだ。
それとほぼ同時に、背後から暖かなものが双葉を包み込んだ。
柔らかな紺色の布地。それは牙星が羽織っていた衣だった。見ると牙星は、袖の短い薄手の衣しか纏っていない。
「いけません、牙星様が風邪を引いてしまいます」
慌てて羽織を返そうとする双葉を、牙星が制する。
「儂はこのくらいの寒さには慣れている。風邪を引きそうなのはお前の方だ」
双葉は困り果てた顔で牙星を見た。
「儂の親切が受けられんと云うのか」
眉をひそめ、牙星が
「そんな事はありません」
双葉はそう云うと、羽織を手繰り寄せ体に巻き付けた。
「暖かいです、とても」
「ははは、そうだろう」
牙星が嬉しそうに笑う。
「今日はたくさん走ったから疲れただろう。双葉はもう寝ろ」
「いいえ、とても眠ってなどいられません」
双葉は大きく首を振った。まだ気持ちが高揚していた。とても眠りにつける気分ではない。
「儂が見張る。双葉は何も心配しないでも良い」
「けれど……」
言葉を云いかけた双葉の体を、突然牙星が引き寄せた。双葉は、驚いて聲を呑んだ。頬に、牙星の髪が触れる。双葉の体は、牙星の腕の中に包み込まれていた。
呼吸が、止まりそうだった。
「こうしていれば、離れているよりも見つかり難い。それに、寒さも凌げる」
双葉は体を硬直させたまま、聲すら出せなかった。
牙星の心臓の鼓動が僅かに伝わってくる。体温が、羽織を通して感じられた。
双葉は戸惑い、どうして良いのか判らなかった。
規則正しく波打つ、牙星の鼓動。双葉の心臓の鼓動は、牙星に伝わっているのだろうか。双葉の鼓動の方が、牙星よりも倍に速かった。
「さあ、安心して眠るとよい」
耳に近い、牙星の聲。息がこめかみをくすぐる。
双葉は胸の高鳴りを静めるように、
まだ俄には信じられぬ思いだった。全てはまどろみの中の幻なのではないかとも思った。
けれど、今確かに牙星は双葉のすぐ傍に居る。
この体に触れる温もりは、確かに現実のものだった。
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