第二十四話 上弦の月
門番の第一声に、夜の神殿は俄に騒めき立った。
門番の
その真っ直ぐに向けられた眼差しは、あの日のまま変わらぬようでありながら、更に強い光を宿していた。両の
牙星は、堂々と構えたまま眼差しを据えている。
その
その華奢な肢体から迸る雷電のような鋭い気に、兵たちは罪人である牙星を捕らえる事すら忘れていた。
まもなく、牙星の母である
すっかり痩せ細ってしまった龍貴妃の姿は、夜の闇の中で一層痛々しく見えた。
そんな龍貴妃の姿を目にしても、牙星は動じるどころか表情すら変える事もなかった。
タケルは、背後に現れた気配にはっとして振り向いた。上弦の月明かりに照らされた、細い影。
呵真凪と並んで現れたのは、仮の皇帝である
松明に照らされ、黒い影がみっつ並んで地面に落ちる。
牙星の紅の眼が、一瞬別の光を帯びた。
守人の眼。牙星に向けられた、瓜二つの紅の眼。その
牙星と守人。
対峙したふたつの眼差しが、寸分違わず重なり合う。
「な、何をしている! お前たち、牙星様を捕らえるのだ!」
大臣の聲に、我に返った兵たちは一斉に牙星を取り囲んだ。牙星を捕らえるべく、幾つもの豪傑兵の腕が伸びる。牙星は身を翻すと、瞬時にそれを交わした。
それを再び取り押さえようとした兵士の眼前から、弾けるように牙星の姿が消え失せる。
兵士たちは、驚いて頭上を振り仰いだ。
上弦の月を背に、浮かび上がる黒い影。高く飛び上がった牙星の姿が、月と重なった。
一同は、呆気に取られて木偶の坊のように立ち尽くした。
次々飛びかかってくる兵士たちを、牙星は人とは思えぬ身のこなしで、いとも容易く交わしていく。すばしっこい野性の獣を相手にしているようだった。
時も経たぬうちに、百の兵たちはすでに息が上がっていた。
「役立たず共が!」
大臣は、苛立ちに歯を食い縛る。
地べたにへたり込んだ兵たちの真ん中に、牙星は凛と構えて立っていた。
「……儂は、このような雑魚共を相手にしに来たのではない」
その一言に、顔を真っ赤にした大臣の口元がわなわなと震えた。
牙星の眼差しが、更に鋭い光を帯びた。殺気にも似た、剣の刃のような閃き。その視線は、迷う事なく一点に向けられている。牙星の眼が捉えるは、己と同じ姿形をした童子。
「牙星様、今のご自分の立場を
怒りを噛み締め、押さえた口調で大臣が云った。そんな言葉になど耳を貸さず、牙星の視線は獲物を定めた豹のように、守人から動く事はなかった。
「とにかく、我々の役目は、あなたを捕らえる事なのです!」
言葉が終わると同時に、大臣は剣を構えて牙星に飛びかかった。だが、その程度の動きを交わす事など牙星には造作もない。目標物を失った大臣の太い体は、不様に地面につんのめった。
牙星は大臣など相手にもせず、再び守人を見据えた。
「儂は、今宵はっきりとお前の気を覚えた。次にその気を感じた時には、迷わずこの剣でお前を斬る」
牙星の凛と通る聲は、月夜の静寂に溶けた。
桜霞の月光に映えるその姿は幻影のようでありながら、威風堂々とした存在感は肌からもはっきりと伝わってくる。
この感覚を、もう見失いはしない。タケルは今、強く誓った。
牙星が、身を翻す。その姿は、瞬時に闇に紛れた。
牙星の気配が動いた刹那、タケルは迷わず駆け出していた。手繰るように、牙星の気配を追いかけていく。タケルの名を誰かが呼んだが、決して振り返らなかった。
風の音のような、抑揚のない聲。それは、空耳であったのかもしれない。
タケルは、牙星の気配を手繰って走った。夜の草原。道を照らすものは、月の明かりしかない。視覚はほとんど頼りにならない闇道を、タケルは感覚だけを頼りに牙星を追い続けた。後を追ってくる者はない。
星が瞬いている。何処までも同じ空。
タケルはまるで、疲れる事を忘れたかのように只ひたすら走った。牙星を追う為に、風の速度を手に入れて。
突然、牙星の気配が動きを止めた。タケルが、一瞬遅れて足を止める。その瞬間、全身が思い出したように熱を帯びた。火照った皮膚から、じわり汗が吹き出す。その汗を拭う事もせずに、タケルは立ち尽くした。
静かに草原を駆け抜ける、風の音。
「足が速くなったな」
タケルは、はっとした。正面に見える、月明かりの少年の姿。
「けれど、儂に追いつくには、まだまだだな」
そう云って牙星は、悪戯っぽく笑った。
目の前に立つ懐かしい牙星の表情は、何ひとつ変わってはいなかった。
タケルは、嬉しさと走り続けた為の鼓動で、胸が苦しかった。聲が上手く出てこない。
「何だ、タケル。暫く会わんうちに、言葉を忘れたのか」
何も喋ろうとしないタケルに、牙星が業を煮やす。
タケルは、一度唾を呑もうとした。喉が張り付いたようで、上手くいかなかった。
牙星はそんなタケルの様子を、黙って見ている。
「……元気だった?」
やっと絞り出した聲は、酷く掠れていた。その聲を聞き、牙星が吹き出す。
「何だ、暫く離れていたうちに、タケルはすっかり爺だな!」
感動で言葉も続かないタケルを前に、牙星は腹を抱えて笑い続けた。
◆
一晩中歩き続け、タケルと牙星はふたつの山を越えた。牙星の足ならば軽々越えられる距離であったが、タケルと一緒ではそうもいかない。
牙星は、タケルを追い返そうとはしなかった。タケルを置き去りにするような事もせずに、共に歩幅を合わせて歩いていた。
そして夜が明ける頃、二人はようやく牙星の隠れ棲む洞窟のある山まで辿り着いた。
洞窟の中は伽藍として、珍しく老夫の姿がなかった。
「安心して休め。ここには追っ手も来ん」
そう云うと牙星は、枯草を敷き詰めただけの地べたに仰向けになった。タケルもそれに習い、牙星の隣に寝転ぶ。
疲れの
どれ程経った頃だろうか。
タケルは泥のような眠りから覚め、ゆっくり目蓋を開いた。
薄暗い空間。ここが洞窟なのだと思い出す。まだぼんやりとした視界の先に、何かがあった。
タケルは幾度か眼をしばたたかせ、焦点を合わせた。じわりと、暗さに眼が慣れてくる。
眼前に見えたのは、伸び放題の頭髪と髭に埋もれた人間の顔だった。異様に爛々とした眼が、じっとタケルを覗き込んでいる。
「わっ!」
タケルは、ぎょっとして飛び起きた。腰を下ろした体勢のまま、僅かに後ずさる。
老夫は血走った眼を見開いたまま、タケルを凝視している。
「……お前は、龍神様の……」
老夫の髭に埋もれた口から洩れた言葉に、タケルの心臓が波打った。
「……お前のその眼は、龍の眼……」
老夫が、にじり寄るようにタケルに近づく。その老夫のただならぬ様子に、タケルは身を硬くした。老夫の枯れた手が、震えながらタケルに伸びる。
その時だった。
「貴様、タケルに何をしている!」
洞窟の入り口から、鋭い聲がした。何処からか戻って来た牙星が走り寄り、老夫の手を払い除けた。
「タケルは儂と同じ、神殿に棲む者だ! 貴様のような者が気安く触れるでない!」
牙星の怒声が、洞窟に谺した。
「……お前は、聖龍神様の御子ではないのか」
牙星の聲の余韻が消え去った後、老夫が静かに云った。
タケルは老夫の言葉に、眼を見開いた。老夫は恐ろしいまでにタケルを凝視していた。
「……まさか、こんな処で出会うとはな」
この老夫は、何かを知っている。老夫の言葉に、タケルは察した。
「……あなたは、僕の」
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