第二十四話 上弦の月

 門番の第一声に、夜の神殿は俄に騒めき立った。

 牙星きばぼしが戻って来た。

 門番のこえより先に下に辿り着いたタケルは、眼前に立つ牙星の姿を見据えた。

 その真っ直ぐに向けられた眼差しは、あの日のまま変わらぬようでありながら、更に強い光を宿していた。両のまなこは紅蓮の炎のように、桜散る闇に映えた。衣は処々破れて風を孕み、漆黒の髪はざんばらに煽られている。女人のように美しい相貌は、僅かに精悍さを得たように思えた。


 牙星は、堂々と構えたまま眼差しを据えている。

 そのなりは荒れ果ててはいたが、気高さはそのままに。タケルと同じ程だった身の丈は、だいぶ高くなったように窺えた。

 その華奢な肢体から迸る雷電のような鋭い気に、兵たちは罪人である牙星を捕らえる事すら忘れていた。

 

 まもなく、牙星の母である龍貴妃りゅうきひも駆けつけた。夜着に絹の羽織だけの姿で現れた龍貴妃は、眼前の我が子を青ざめた顔で凝視した。その体は、小刻みに震えている。

 すっかり痩せ細ってしまった龍貴妃の姿は、夜の闇の中で一層痛々しく見えた。

 そんな龍貴妃の姿を目にしても、牙星は動じるどころか表情すら変える事もなかった。


 タケルは、背後に現れた気配にはっとして振り向いた。上弦の月明かりに照らされた、細い影。

 呵真凪と並んで現れたのは、仮の皇帝である守人もりびとだった。二人は、震えながら立ち尽くす龍貴妃の隣に並んだ。守人と正式に婚姻を結んだ後には、この呵真凪が龍貴妃の名を継ぐ事となる。

 松明に照らされ、黒い影がみっつ並んで地面に落ちる。


 牙星の紅の眼が、一瞬別の光を帯びた。

 守人の眼。牙星に向けられた、瓜二つの紅の眼。その双眸そうぼうは、感情すら浮かべず虚ろに牙星を見詰めている。

 牙星と守人。

 対峙したふたつの眼差しが、寸分違わず重なり合う。


「な、何をしている! お前たち、牙星様を捕らえるのだ!」


 大臣の聲に、我に返った兵たちは一斉に牙星を取り囲んだ。牙星を捕らえるべく、幾つもの豪傑兵の腕が伸びる。牙星は身を翻すと、瞬時にそれを交わした。

 それを再び取り押さえようとした兵士の眼前から、弾けるように牙星の姿が消え失せる。

 兵士たちは、驚いて頭上を振り仰いだ。


 上弦の月を背に、浮かび上がる黒い影。高く飛び上がった牙星の姿が、月と重なった。

 一同は、呆気に取られて木偶の坊のように立ち尽くした。

 次々飛びかかってくる兵士たちを、牙星は人とは思えぬ身のこなしで、いとも容易く交わしていく。すばしっこい野性の獣を相手にしているようだった。

 時も経たぬうちに、百の兵たちはすでに息が上がっていた。


「役立たず共が!」

 

 大臣は、苛立ちに歯を食い縛る。

 地べたにへたり込んだ兵たちの真ん中に、牙星は凛と構えて立っていた。


「……儂は、このような雑魚共を相手にしに来たのではない」

 その一言に、顔を真っ赤にした大臣の口元がわなわなと震えた。


 牙星の眼差しが、更に鋭い光を帯びた。殺気にも似た、剣の刃のような閃き。その視線は、迷う事なく一点に向けられている。牙星の眼が捉えるは、己と同じ姿形をした童子。


「牙星様、今のご自分の立場をわきまえて頂きたい。あなたは今、先の皇帝であるお父上の命を奪った、この世で一番の罪人なのですぞ」

 

 怒りを噛み締め、押さえた口調で大臣が云った。そんな言葉になど耳を貸さず、牙星の視線は獲物を定めた豹のように、守人から動く事はなかった。


「とにかく、我々の役目は、あなたを捕らえる事なのです!」


 言葉が終わると同時に、大臣は剣を構えて牙星に飛びかかった。だが、その程度の動きを交わす事など牙星には造作もない。目標物を失った大臣の太い体は、不様に地面につんのめった。

 

 牙星は大臣など相手にもせず、再び守人を見据えた。


「儂は、今宵はっきりとお前の気を覚えた。次にその気を感じた時には、迷わずこの剣でお前を斬る」


 牙星の凛と通る聲は、月夜の静寂に溶けた。

 桜霞の月光に映えるその姿は幻影のようでありながら、威風堂々とした存在感は肌からもはっきりと伝わってくる。


 この感覚を、もう見失いはしない。タケルは今、強く誓った。

 

 牙星が、身を翻す。その姿は、瞬時に闇に紛れた。

 牙星の気配が動いた刹那、タケルは迷わず駆け出していた。手繰るように、牙星の気配を追いかけていく。タケルの名を誰かが呼んだが、決して振り返らなかった。

 風の音のような、抑揚のない聲。それは、空耳であったのかもしれない。


 タケルは、牙星の気配を手繰って走った。夜の草原。道を照らすものは、月の明かりしかない。視覚はほとんど頼りにならない闇道を、タケルは感覚だけを頼りに牙星を追い続けた。後を追ってくる者はない。

 星が瞬いている。何処までも同じ空。

 タケルはまるで、疲れる事を忘れたかのように只ひたすら走った。牙星を追う為に、風の速度を手に入れて。



 突然、牙星の気配が動きを止めた。タケルが、一瞬遅れて足を止める。その瞬間、全身が思い出したように熱を帯びた。火照った皮膚から、じわり汗が吹き出す。その汗を拭う事もせずに、タケルは立ち尽くした。

 静かに草原を駆け抜ける、風の音。


「足が速くなったな」

 

 タケルは、はっとした。正面に見える、月明かりの少年の姿。


「けれど、儂に追いつくには、まだまだだな」

 

 そう云って牙星は、悪戯っぽく笑った。

 目の前に立つ懐かしい牙星の表情は、何ひとつ変わってはいなかった。

 タケルは、嬉しさと走り続けた為の鼓動で、胸が苦しかった。聲が上手く出てこない。


「何だ、タケル。暫く会わんうちに、言葉を忘れたのか」 


 何も喋ろうとしないタケルに、牙星が業を煮やす。

 タケルは、一度唾を呑もうとした。喉が張り付いたようで、上手くいかなかった。

 牙星はそんなタケルの様子を、黙って見ている。


「……元気だった?」


 やっと絞り出した聲は、酷く掠れていた。その聲を聞き、牙星が吹き出す。


「何だ、暫く離れていたうちに、タケルはすっかり爺だな!」

 

 感動で言葉も続かないタケルを前に、牙星は腹を抱えて笑い続けた。

              

             ◆


 一晩中歩き続け、タケルと牙星はふたつの山を越えた。牙星の足ならば軽々越えられる距離であったが、タケルと一緒ではそうもいかない。

 牙星は、タケルを追い返そうとはしなかった。タケルを置き去りにするような事もせずに、共に歩幅を合わせて歩いていた。


 そして夜が明ける頃、二人はようやく牙星の隠れ棲む洞窟のある山まで辿り着いた。

 洞窟の中は伽藍として、珍しく老夫の姿がなかった。


「安心して休め。ここには追っ手も来ん」


 そう云うと牙星は、枯草を敷き詰めただけの地べたに仰向けになった。タケルもそれに習い、牙星の隣に寝転ぶ。

 疲れの所為せいか、横になった途端激しい睡魔が襲ってきた。時を空ける事なく、タケルは眠りの底へ落ちた。


                  

 どれ程経った頃だろうか。

 タケルは泥のような眠りから覚め、ゆっくり目蓋を開いた。

 薄暗い空間。ここが洞窟なのだと思い出す。まだぼんやりとした視界の先に、何かがあった。

 タケルは幾度か眼をしばたたかせ、焦点を合わせた。じわりと、暗さに眼が慣れてくる。


 眼前に見えたのは、伸び放題の頭髪と髭に埋もれた人間の顔だった。異様に爛々とした眼が、じっとタケルを覗き込んでいる。


「わっ!」


 タケルは、ぎょっとして飛び起きた。腰を下ろした体勢のまま、僅かに後ずさる。

 老夫は血走った眼を見開いたまま、タケルを凝視している。


「……お前は、龍神様の……」

 老夫の髭に埋もれた口から洩れた言葉に、タケルの心臓が波打った。


「……お前のその眼は、龍の眼……」


 老夫が、にじり寄るようにタケルに近づく。その老夫のただならぬ様子に、タケルは身を硬くした。老夫の枯れた手が、震えながらタケルに伸びる。

 その時だった。


「貴様、タケルに何をしている!」


 洞窟の入り口から、鋭い聲がした。何処からか戻って来た牙星が走り寄り、老夫の手を払い除けた。


「タケルは儂と同じ、神殿に棲む者だ! 貴様のような者が気安く触れるでない!」


 牙星の怒声が、洞窟に谺した。



「……お前は、聖龍神様の御子ではないのか」


 牙星の聲の余韻が消え去った後、老夫が静かに云った。

 タケルは老夫の言葉に、眼を見開いた。老夫は恐ろしいまでにタケルを凝視していた。

「……まさか、こんな処で出会うとはな」


 この老夫は、何かを知っている。老夫の言葉に、タケルは察した。



「……あなたは、僕の」

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