第二十五話 母

 目の前の老夫は、全てを知っている。

 タケルの父である龍神の事も。そして、タケルを産み落とした母の事も。正体すら判らぬこの老夫は、タケル以上にタケルの出生の事実を知っている。

 タケルは察した。



「……お前の母は、儂の妻の姉だった」


 老夫の語った事実に、牙星きばぼしまでもが眼を剥いた。


「聖龍神様は、先代の皇帝と命を共にする龍神だった。そしてお前の母は、その龍神に仕える、只一人の姫巫女だった」


 タケルの母は、姫巫女だった。双葉と同じ、龍神に仕える唯一の巫女。額に第三の眼を持つ選ばれし娘だけが、姫巫女としての定めを与えられる。

 タケルは初めて聞かされた母の事実に、胸の動悸を押さえられずにいた。

 老夫が、言葉を続ける。


「聖龍神様と命を共にする皇帝は、久遠の時を生きる為に、姫巫女を贄に捧げる祭りの儀式を行おうとした」


 祭りの儀式。 

 双葉を亡き者にした、犠牲の儀式。

 硬く握られた牙星の拳が、癒えぬ怒りに震えた。


「……何故、永遠の命を得るその儀式に、姫巫女の犠牲が必要なんだ」


 懸命に感情を抑えたこえで、牙星が問う。


「龍神を、堕天にする為だ」 

 

 老夫の頭髪の隙間から覗く眼が、一瞬だけ憂いを帯びた。


「額に眼を持つ娘は、貴き神の遣い。云わば、生き神。その穢れなき姫巫女を喰らう事で、龍神は穢れた神となる。穢れたものは、天に忌み嫌われるからな」


 堕天。

 祭りが行われた日の明け方、白髪巫女が云っていた言葉。

 双葉は、自分の定めを知っていた。最後の御祓を行いながら、双葉は何を思っていたのだろう。

 タケルは、眼を落とした。その落とした視線の先に、小刻みに震える牙星の拳が見えた。


「お前の母も、龍神を堕天にする為に捧げられた。だが聖龍神様は、お前の母である姫巫女を喰らう事ができなかった」


 姫巫女だったタケルの母も、あの祭りの日の双葉と同じように、己の仕える龍神と対峙した。これから己の身を喰らおうと構える、爪と牙を持つ龍神と。

 けれど龍神は、姫巫女を生かした。


「聖龍神様は、人間に姿を変えると、姫巫女を連れ、人里離れた山奥へ隠れ棲んだ」


 人の姿と化した龍神と、姫巫女。

 二人は、誰の手も及ばぬ、遠くへと逃げ隠れた。

 只二人で巫殿から逃げ出した、あの日の牙星と双葉のように。


「そして姫巫女は、その胎内に子を身籠った」


 龍神と姫巫女。

 いつしか両者は、互いに心を通わせ合った。


「元々、額に眼を持つ娘は短命だ。龍の子は、人間の子よりもずっと母の胎内で過ごす時間が長い。もうすでに姫巫女は、龍の子を身籠った為にその命を繋いでいるようなものだった」


 その胎内に龍神の赤子を宿し、姫巫女は僅かな命を繋ぎ止めた。

 龍神と共に、残された時を過ごした。


「お前を産み落とすと間もなく、姫巫女は天命を終えた。聖龍神様は、お前を人の世界の巫女長に託し、天に還られた」


 龍神は、当時の巫女長であった婆様に、生まれたばかりのタケルを託した。

 人と龍の間に成された、小さな小さな赤子を。


「タケル。お前は、人の姿をした……龍」


 老夫の聲が強い余韻を残し、洞窟に響いた。


             ◆


 微かに頬を掠めた感触に、龍貴妃りゅうきひは目蓋を開いた。腰掛けに座した膝に舞い落ちたのは、桜の花弁だった。開け放たれた窓から、春の風に乗って舞い込んで来たのだろう。

 龍貴妃は、細い指で花弁を摘んだ。それとほぼ同時に、笛の旋律が止んだ。

 龍貴妃は、ゆらりと眼を上げた。正面に立った守人もりびとは口元から笛を離し、紅の眼で龍貴妃の指の動きをじっと見詰めていた。


「どうしたの? もう少し、あなたの笛を聞かせて頂戴」


 龍貴妃は眼を細め、柔らかな聲で守人に云った。守人は人形のような顔で僅かに首肯うなずくと、再び笛を唇に当てた。そして、旋律の続きを奏で始める。


 龍貴妃は、窓の外に眼を転じた。すっかり満開に咲いた桜の花は、後はもう散るばかりだった。風に吹かれては、一片ひとひら二片ふたひらと舞い落ちる。

 龍貴妃は旋律を耳に、目蓋を閉じた。我が子の奏でる笛の音だけが、今この場所に自分が居るという証だった。


 昨夜、一時だけ龍貴妃の元へ戻って来た、もう一人の我が子。少し離れていた間に、随分成長したように見えた。背丈は伸び、四肢の筋の肉も逞しくなっていた。そしてその面差しは、時を経るごとに父である皇帝に近づいていた。

 龍貴妃は、胸に切ない痛みを覚えた。


 十四年前の真夏、龍貴妃は二人の赤子を産み落とした。

 王家に授かった、双子の皇子みこ

 一人は生まれてすぐから良く動き、静止する事を知らぬ喜怒哀楽の激しい赤子。そしてもう一人は、生まれ落ちた瞬間すら泣きもしない、おとなしい赤子だった。

 

 生まれたばかりの二人の我が子を抱いた龍貴妃は、片方のおとなしい赤子が左手に何かを握っているのに気づいた。硬く握られた小さな拳の端から、白い物が覗いている。まるで何か、獣の牙のような物。赤子はそれをしっかりと握ったまま、決して離そうとはしなかった。

 

 そして皇子誕生から幾日経とうと、命を共にする龍神が天より現れる事はなかった。

 皇帝は、皇子が同時に二人も誕生した所為せいだと、産後の肥立ちも済まぬ龍貴妃に当り散らした。そして龍貴妃の意向も問わぬまま、笑わぬ赤子の方を巫殿の奥深くに閉じ込めてしまったのだった。

 それでも一向に現れない龍神に業を煮やし、皇帝は先視に予言をさせた。先視は巫女に近い者である為、女人である龍貴妃がその予言を伺う事となった。


 語られた、先視の言葉。

 あの瞬間の事は、今でもはっきりと思い出せる。先視の口から洩れた、天上界を手中にする者の名。

  

 タケル。


 我が子である二人の皇子を差し置き、天下を手中にする者。

 できる事なら、その者の命を奪ってでも、我が子どちらとも幸せを与えてやりたかった。

 けれど、できるわけがない。

 自分の子と同じ年頃の童子を殺すなど、できる筈もない。


 龍貴妃は目蓋を開くと、正面の守人を見た。

 守人は薄く目蓋を開き、只笛を吹いていた。一切の感情の伺えない、傀儡くぐつのような姿。ずっと離れていた、愛しい我が子。


「……守、こちらへいらっしゃい」

 

 守人は口元から笛を離すと、云われるがままに龍貴妃に近づいた。龍貴妃は腰掛けから立ち上がると、守人の体を引き寄せ、その胸に抱いた。

 赤子だった頃から、長く交わす事のなかった抱擁。守人の確かな温もりが、龍貴妃の胸に伝わってくる。牙星と同じ、暖かな体温。


 皇帝の強行とはいえ、この子を手放してしまったのは、自分の罪。

 やっと知る事のできた守人の温もりに、龍貴妃は涙を零した。

 決して動く事のない、守人の表情。

 この子から感情を奪ってしまったのは、きっと自分に違いない。我が子を胸に抱いたまま、母の涙は止めどなく溢れ続けた。


             ◆


 赤い空を、薄い雲がゆっくりと通り過ぎていく。タケルは一人、高い樹の陰からそれを眺めていた。タケルの生まれ育った村と、何ひとつ変わらぬ空。

 牙星を追いかけ神殿を飛び出して、最初の一日が暮れようとしている。


 お前のその眼は、龍の眼だ。

 蓬髪ほうはつの老夫は、タケルに云った。そして、タケルの父は先代の皇帝と命を共にする龍神であった事、タケルの母はその龍神に仕える姫巫女であったとも。

 龍神と姫巫女。

 いつしか両者は心を通わせ、そしてタケルは生まれた。


 龍と人との間に生まれた自分は、龍なのか。それとも人なのか。

 タケルは人の姿をしている。けれど、あの老夫はタケルの眼を龍のものだと云った。


 タケルはずっと、堂々巡りにそんな事ばかり考えていた。いくら考えても、タケル自身に答えなど出せるわけもなかった。


「タケル」


 降り注いだ聲に、タケルは見上げた。向かいの樹の上に、牙星の姿があった。葉の間から射し込む夕陽に染められ、紅の眼は炎のように揺らめいている。

 牙星は猿のような身のこなしで、あっという間にタケルの眼前に降り立っていた。


 いつかも見たような、そんな場面。

 その瞬間、タケルはまるで閃くように気づいた。


「そうだ、この場所は……」


 草の生い茂る山道。高い樹々の形。そして、繁みの向こうの急斜面。

 タケルの記憶と、今目の前にしている景色が重なる。


「そう、ここだよ」


 それは、丁度一年程前の出来事。懐かしい感覚が、タケルの胸をくすぐる。


「牙星、覚えてない?」

「何をだ」 


 嬉しそうに尋ねるタケルに、牙星が怪訝そうに問い返す。


「僕たちが、初めて出会った場所だよ」


 この山道で、タケルは牙星と出会った。牙星は、云われてようやく気がついたように、辺りを見回した。


「ここで、出会ったばかりの牙星に、いきなり酷い目に合わされたっけ」

 

 あの高い樹の上から、牙星はタケルに石を投げつけてきた。そして、旅の者には見えぬタケルを怪しがり、いきなり剣を振るってきたのだ。

 あの時の牙星が本気でタケルを傷つけるつもりがなかった事は、今ならば判る。牙星が本気でかかって来ていたなら、タケルなど避ける事はできない。

 全てが、懐かしい記憶。タケルの心を震わせる。


「感情に浸るな。あの頃とは、何もかも違うんだ」


 牙星の乾いた聲が、タケルを現実に引き戻した。

 何もかもが、懐かしい思い出。たった一年前の事なのに、全てが遠く過ぎ去り、変わり果ててしまった。もうあの頃あったものは、何ひとつと戻ってこない。


「……そうだね」


 タケルは、小さく俯いた。牙星の言葉は、尤ものような気がした。

 それに、牙星の方が、タケルよりも多くのものを失っているのだ。


「それよりタケル、儂に着いて来い」


 牙星は、言葉が終わると同時に、駆け出した。


「あっ、牙星待って」


 牙星は、こういうところは相変わらずだった。タケルはそれがとても嬉しく、何だか心が救われたような気がした。


 牙星がタケルを連れてやって来たのは、一面に景色が見渡せる切り立った緩い斜面だった。

 牙星は立ち止まり、黙ったまま眼を落とした。その視線の先には、人の頭程の丸い石があった。牙星が、その石の前にしゃがみ込む。そしていつの間に摘んだのか、白い小さな野花をそっと手向けた。

 タケルは、牙星の背中を言葉もなく見詰めていた。何故なのか、話しかけてはならない気がした。ぽつんと置かれた、丸い石。まるで、その場所に座すように。

 その石が何を意味するのか、タケルは直感で悟っていた。


「……タケル、小さな聲で話すのだぞ。あまり大きな聲で話すと、双葉が起きてしまうからな」


 穏やかな聲で、牙星が囁いた。

 タケルは、やはり何も云えなかった。

 この石の下に、双葉は居る。眠りについたままの、小さな双葉の欠片が。




「タケルの母も、双葉と同じだったのだな」


 やがて、牙星が独り言のように呟いた。


「……うん」

 

 タケルの母も、額に眼を持つ姫巫女だった。洞窟の老夫は、タケルにそう告げた。


「ならばタケルの母も、一番最初に生まれた女だったのか」

「何で?」


 牙星の言葉の意図が判らず、タケルは尋ねた。


「姫巫女とされる者は、額に眼を持つ一族に、最初に生まれた女と決まっている」


 双葉と共に皇帝の手中から逃げ出した夜、双葉は牙星にそう語った。

 双葉と二人だけで過ごした、ほんの僅かな一時。


 タケルは、再び黙り込んだ。

 母について、老夫に聞かされた事以外タケルは何も知らない。姫巫女として龍神に捧げられる者の条件も、今初めて知った。

 第三の眼を持つ一族に、最初に生まれた女の赤子。只それだけの理由で、双葉もタケルの母も龍神に全てを捧げる定めを決められた。

 そして双葉はずっと仕えてきた龍神の牙にかかり、タケルの母はその龍神の御子を身籠った。


 タケルは、黙したまま考えていた。そして、はっと気づく。


「ねえ牙星、そう云えばあのお爺さん、云ってたよね」

「何をだ?」

 

 背を向けたまま、牙星が尋ねる。


「僕の母さんは、自分の妻の姉だって」

「それがどうした」

「額に眼を持つ血族は、短命だって」

「だから、何だ」


 中々核心をつかないタケルに、牙星は少し苛つく。


「生まれる子の数だって限られてくるし、結果として一族の数だって極僅かになる」

「……何が云いたい」

 

 牙星の鋭い視線が、タケルを睨む。


「だからもしかすると、あのお爺さんは双葉の……」


 言葉が終らぬうちに、もの凄い剣幕で牙星が立ち上がった。


「あんな陰気臭いじじいが、双葉の父のわけがなかろうっ!」


 血相を変えた牙星が、タケルのすぐ眼前で怒鳴る。


「けど、もしかしたら……」

「もしかも何もないっ!」


 牙星の唾が、タケルの顔に飛び散る。


「大体あんな髭むくじゃらのじじい、双葉には似ても似つかん!」


 牙星は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、再びタケルに背を向けた。タケルも慌てて後に続く。

 機嫌を損ねてしまった牙星の足に追いつくのは、酷く骨の折れる作業だった。



 夕闇が山を囲み、タケルと牙星は洞窟へと戻った。

 いつもは洞窟の奥に座したままの老夫の姿が、珍しく見当たらなかった。そして夜が訪れ朝がやって来ても、老夫が再び姿を見せる事はなかった。




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