第二十六話 決別
そしてタケルと
漆黒の洞窟の中、赤々と燃える焚き火の炎が二人の姿を照らし、影を揺らしていた。静寂の中に、時々火の粉の跳ねる鋭い音が響いた。
外は、雨が降っているようだった。微かな雨音と、湿り気を帯びた風が吹き込む。
タケルは、ちらりと牙星に視線をやった。膝を抱えて目蓋を閉じたまま、先程からずっと動いていない。だが、眠っているわけではない。それは微妙な息遣いから判る。
牙星の白い肌は、炎の映す赤に染まっていた。
牙星の姿は、神殿を追いやられて尚も、気高く美しかった。炎の色合いが、更にそれを際立たせる。こんなにも儚く繊細な姿をしているのに、他の何者よりも、ずっと激しい生命力を感じさせた。
この一年で牙星の相貌は精悍さを増し、更に端整さを極めていた。こうして眼を閉じている牙星は、雰囲気こそ全く違えど本当に
牙星と守人。離れてはいても、同じように成長している。
二人は、同じ瞬間に母の胎内から産み落とされた、同じ姿をした双生児なのだ。
そして。
そしてそのどちらかが存在を消さぬ限り、命を共にする龍は現れない。龍を得なければ、真の皇帝になる事はない。神殿の大臣たちは、守人を真の皇帝とする事を望んでいる。
タケルは、云い様のない息苦しさを覚えた。すぐ傍らで穏やかに息をしている牙星が、命を落とすかもしれない。
牙星の紅の眼が、唐突に開いた。真っ直ぐに、射るようにタケルを見据える。タケルは、どきりとして思わず視線を逸らした。
感の鋭い牙星の事だ。タケルの視線に、ずっと気づいていたのだろう。
牙星は黙ったまま、何も言葉を洩らさなかった。剣の切っ先のように鋭い眼だけが、タケルに向けられていた。
タケルは、気まずく唾を呑み込む。
何かを、話さなければ。タケルは必死に言葉を探した。だが結局、一言も見つける事ができなかった。
牙星は、只じっとタケルを見ている。タケルは俯いた。
「……雨か」
牙星が囁いた。タケルが弾かれたように顔を上げる。
「きっと、龍が天で暴れているのだな」
この洞窟に隠れ棲んですぐの頃、蓬髪の老夫が牙星に語った事がある。天で龍が暴れると、雨が来ると。
牙星はそう二言だけ言葉を口にすると、また黙り込んだ。
二人の影だけが、炎に揺られる。
「……牙星」
名を呼ばれ、牙星の眼が再びタケルに向く。
「牙星はあの時、本気で云ったの」
タケルは、伏し目勝ちに牙星を見た。
「何をだ」
牙星が問う。
「……あの晩、神殿で、守ノ
消え入りそうな、タケルの
タケルはあの上弦の月の晩、はっきりと聞いた。
牙星は云った。今度守人の気配を感じた時は、迷わず斬ると。
「本気だ」
短く発した牙星の
「……どうして……、そんな理由は、何処にもないのに……」
タケルは、唇を硬く結んだ。牙星の眼は、真っ直ぐにタケルを見たまま、動かない。
「そんな事は、関係ない」
揺るぎなく、堂々とした牙星の聲。タケルには、応える言葉もない。
「儂の忌むべき者は、この世界から消え失せたと思っていた」
龍神が天へと還り、皇帝は死去した。
龍神を天へと還したあの瞬間、この世からも牙星の中からも、忌むべき者は居なくなった筈だった。それなのに、牙星の中からはずっと、異物のような痼が落ちる事はなかった。
「儂が真に忌むべき相手は、まだ存在していた。儂は、あの者を前にした瞬間に気づいた」
桜霞のあの夜、牙星は悟った。
自分と同じ眼、同じ髪、同じ肌、同じ背丈、同じ眉、同じ鼻梁、同じ唇、同じ腕、同じ足。自分と同じ容姿をした、あの童子。
「……あの者を、斬らねばならぬ。運命なのだ。人が決めたわけではない、刻み込まれた定め」
それは、本能が欲するもの。衝動にも似た、定め。何者にも揺るがす事のできない、森羅万象の導く遥かなる決め事。
「血を分け合った、双子なのに……」
タケルは震えた聲で囁いた。
「だから、斬らねばならない」
凛とした牙星の聲が雨音に交じり、静かな響きを生んだ。
定めの輪は、回り続けているのだ。
牙星と守人。
同じ母から同時に産み落とされた、二人の童。
再び桜が咲く季節には、この双子のどちらかが、この世から消え失せているのかもしれない。
タケルは息苦しさと、眩暈を覚えた。
胸が詰まる。
牙星は、今生きている。確かに息をしている。
そしてタケルは、自分の中に芽生え始めている醜い欲望に気づいていた。
牙星に、生きて欲しい。ずっと生き続けて欲しい。そして牙星こそが、龍神を得て、皇帝になるべきだとも思った。それが、守人の命を犠牲にした上でも。
タケルは、きつく唇を噛み締めた。
心の内に、澱が巣食っていく。醜い欲望がそこにある。
牙星と守人、二人の命を天秤にかけている。本当は、どちらも生きるべきなのだ。
「牙星……、逃げよう……!」
突然のタケルの言葉に、牙星は隙を突かれたような顔をした。
「ねえ、そうしよう! 誰にも見つからないような、ずっと遠く、ずっとずっと……皆が僕らの事を忘れてしまうまで、何処までも逃げ続けよう……!」
肩に触れようとしたタケルを、牙星が睨みつけた。
「何故、儂が逃げる」
低く、怒りを抑えた聲。
「そうすれば、牙星は傷つかない。誰も死ななくて済む」
牙星は、伸ばされたタケルの手を払いのけた。
「父上亡き今、この世界の王は儂だ! その気高き王に、逃げ隠れして生きろと云うのか‼」
牙星の鋭い怒号が飛んだ。
眼前の牙星は、炎に染められ灼熱の色を帯びていた。
タケルの視界に映る風景が、黒く霞んでいく。酷く、情けなく。
こんなにもタケルは牙星の身を案じているのに、その思いは一切牙星に受け入れられてはいない。心が、拒絶されていた。
きっと牙星は、タケルが牙星の事を思う半分さえも、タケルの事を思ってくれてはいない。
泣き出したい程、哀れな気分だった。
刻一刻と時は過ぎていくのに、二人の心は重なり合う事はなかった。
◆
雨ばかりが続いていた。
その日も明朝から、酷い豪雨だった。濁流のような雨水が、天から地上に叩きつける。
洞窟の中でタケルは膝を抱えたまま、くぐもった雨音を聞いていた。
こんな日は、要らぬ事ばかり考えてしまう。牙星は黙ったまま、陽が明けてから一度も口を開く事はなかった。鋭く険しい眼をしたまま、炎で紅に染まった己の剣を見詰めていた。刹那すら、逸らす事なく。
タケルは僅かに視線を逸らして、牙星の様子を伺っていた。そんな時だけが、延々と流れていく。
タケルの内にはずっと、赤く重い溶岩のようなものがどろどろと巣食っていた。一時すら、落ち着く事もなく。
牙星の両の眼に宿った灼熱は、そのままタケルの心の内を映していた。人間の内側を映し出す、天の鏡のように。
タケルはゆっくりと息を吐いた。
神の逆鱗に触れたような、凄まじい雨、風。
この地上の彼方で、龍神たちは鱗に包まれた肢体をうねらせ、乱舞しているのだろうか。
タケルは、焚き火を挟んで向かいに座す、牙星を見た。
誰よりも強い生命力。
牙星は、生きている。
いくら牙星が常人を越えた身のこなしとは云え、所詮は年端もいかぬ童子。油断をすれば、死ぬ。
タケルは、堪え切れぬ程怖かった。牙星が、命を落とす事が。魂が離れ、その肉体が朽ちてしまう事が。この世から、牙星が居なくなってしまう事が、怖かった。尋常では居られぬ程に。
牙星はきっと、何も恐れてはいない。
牙星の内には、恐れを抱く理由など何も存在しないのだろう。
牙星は、気高い皇子だ。生まれた時から皇子として敬われ、
けれど……。
タケルの体は、小刻みに震えていた。
「……牙星は、怖いと思った事、ある?」
タケルは、思い切ったように口を開いた。聲が少し、上擦っていた。
「この儂に、恐れるものなどはない」
凛とした聲。動じる事もない、強い聲。
一瞬の静寂。
「……嘘だね」
タケルの口をついた言葉に、牙星の形の良い眉が僅かに動いた。タケルが、いつになく強い眼差しで牙星を見据えた。
「牙星、お前は本当は、守ノ皇帝が怖いんだ」
「……何っ」
思いもしなかったタケルの言葉に、牙星は上体を構えた。
「……ほら、お前は、守ノ皇帝が怖くて堪らないんだ」
タケルはまるで挑むように牙星を見た。
睨み付ける牙星の紅蓮の眼と、タケルの琥珀の眼がぶつかった。タケルは一瞬だけ戸惑い眼を逸らしたが、すぐにまた意を徹して牙星と視線を重ねた。
「自分と同じ姿をした守ノ皇帝に追い詰められるのが怖くて、何もかも早く終わらせたいから、焦って決着をつけたがってるだけだろ!」
タケルは吐き捨てるように、言葉を捲し立てた。聲が詰まって、一瞬唾を呑み込む。
「皇帝という名に酔いしれただけの、お前は……只の臆病者だっ!」
刹那、タケルの眼前に鋭い切っ先が現れていた。
「……これ以上儂を愚弄すれば、この剣でお前を斬るっ!」
牙星の眼は、本気だった。タケルのこれ以上にない愚弄の言葉に、堪えきれぬ怒りが震える。
「……だったら、逃げろ」
そう言葉を洩らしたタケルの眼は、僅かに揺れていた。
「……逃げ延びて、もっと強くなれ! 姿を隠し通して、もっともっと強くなれ! 臆病者でないというのなら、何も怖くないというのなら、長い時を耐えてみせろ! ……逃げ通すんだ、牙星!」
タケルの言葉の最後は、泣き聲のように洞窟の壁に谺した。
その聲の余韻が消えぬうちに、牙星は紅の眼を真っ直ぐに向け、タケルに云った。
「儂は、生きとし生ける者、全ての王になる……!」
その言葉を紡ぎ終えると刹那、牙星は獣の如く駆け出し、もうそこから消えていた。その後から、冷たい風がタケルの前を掠めていく。
牙星が残したものは、その一陣の風のみ。その風もすぐに消え去り、後には何も残らなかった。
そして牙星の消えた洞窟に、タケルの号泣が響いた。
牙星が誰よりも強い事など、タケルが一番良く知っていた。だからこそ、牙星は逃げはしない。
命を失おうとも、決して逃げはしない。
だから、わざとけしかけた。
落ちぶれてもいい。笑って欲しかった。
敗者に成り下がろうが、構わない。生きて欲しかった。
傍に居てくれなくてもいい。
何処かで、生きてくれれば。
そして。
タケルは、いくら欲しても戻りはしない、大切なものを失ってしまった事に気づいた。
◆
来る日も来る日も、タケルは洞窟の中で膝を抱えて過ごした。
食物を口にしていない筈なのに、何故か腹は減らなかった。水さえ呑んでいないのに、ずっと喉は潤っていた。体も渇く事はなかった。
薄く眼を開いたまま、陽が明けるも暮れるも気づかずに過ごした。時が過ぎ行く事すら、知らずにいた。
音もなく、静寂がそこにある。
そして、悠久にも似た、闇。
タケルは、只生きていた。
すでに、人としてではなく。
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