第二十三話 桜霞

 タケルは来る日も、何をするわけでもなく部屋の窓から外を眺めて過ごした。

 この窓からの風景も、時と共にその姿を変えていく。真っ赤に色づき染まっていた葉は、訪れる冬を前に、老いるように散っていく。


 あの初夏の祭りの惨劇から、幾時もの月日が流れた。

 そしてタケルの傍からは、誰も居なくなっていた。

 牙星きばぼしの面影が残るこの部屋で一人佇んでいると、いつでも泣きたいような気持ちになる。

 その牙星は、タケルよりももっと多くのものを失った。


 コンコン

 扉を叩く音に、タケルは振り向いた。


「誰」


 扉の向こうにタケルが尋ねる。すぐに聲が返ってきた。


「タケル様、客人が広間でお待ちです」

「僕に?」


 タケルは不審に思った。外からの客など、誰も思い当たらない。ましてや罪人となった牙星が、客として堂々と通されるわけがない。


 タケルは訪ねてきた客人の見当もつかぬまま、遣いの者に連れられ部屋を出た。最上階の部屋から階段を降り、通路を渡って広間の扉の前に立つ。

 遣いの者が軽く扉を叩く。そしてタケルを連れてきた事を告げると、静かに扉を開いた。


 大きな広間の真ん中に、佇む痩せた後ろ姿。

 俄には、信じられなかった。

 懐かしい、小さな背中。白い頭がゆっくりと振り向く。


「……婆様」


 穏やかに微笑む顔は、見間違みまごう事ないタケルの育ての親の婆様。

 タケルは、足が震えていた。何か話したいのに、言葉が出なかった。話したい事は山程ある筈なのに、何も云う事ができない。

 そんなタケルを、婆様は只見守っていた。村に居た頃と同じように。

 タケルは、震える足でゆっくり近づく。


「タケル」


 嗄れたこえを聞いた瞬間、タケルのまなこから涙が溢れていた。


「婆様の云った通りだ……、本当に、また会えたね」


 聲が上擦っていた。頬を伝った幾筋もの涙が、顎から滴り床に落ちた。止めどなく、雨の粒のように朱色の絨毯に水滴を落とす。


「お前も色々と、大変だったようだね」

 婆様の皺だらけの手が、タケルの肩に触れる。あの日触れたきりだった、優しい婆様の手。


「最後にどうしても、タケルに伝えたい事があってね」


 タケルの心臓が、大きく波打った。

 ここは、下界の只の人は、決して足を踏み入れる事のできない処。龍と、天上人のみが棲む世界。けれども、只の人である婆様は、今ここに居る。

 タケルは息を呑んで、婆様を見詰めた。


「龍に仕えた者は、最期は龍の元へ召される。この世界は、そこへ向かう途中の通り道なのだよ」


 正面の婆様は、只微笑んでいた。

 タケルは、聲すら出せなかった。ここに居る婆様は、もう肉体を持った人ではない。下界に生まれた者は、肉体を持ったままではこの世界へは上がれない。


「婆様……」


 タケルの眼から、再び耐えていたものが溢れ出す。


「悲しむ事はないよ。私は只、還っていくだけだよ。肉体も何も持たない、生まれる以前の形に」


 婆様の眼は、凪いだ海のように穏やかだった。

 それは、全てを受け入れ、許す者の眼。


 けれどタケルは、まだ生きる者の死を受け入れるには未熟過ぎた。まだ童子であるタケルには、漠然とした悲しみしか生まれてこなかった。

 それでも、目の前の婆様は穏やかに笑っていた。


「いいかい、タケル。もう二度と云わないから、覚えておくんだよ」

 タケルは泣きながら、しかと婆様を見詰めた。


「お前はまだ、何が一番正しいのかすら判らないだろう」


 タケルは僅かに首肯うなずいた。流した涙が、再び零れ落ちる。

 婆様は真っ直ぐに、驚く程強い眼差しでタケルを見据えていた。そして、静かに云った。


「自分がすべきと思った事を、思う通りになさい」


 それが、婆様がタケルに告げた最後の言葉。

 

               ◆

 

 自分がすべきと思った事を、思う通りになさい。

 あれから数ヵ月経った今でも、その言葉は度々タケルの中に繰り返し思い出された。けれど今の無気力なタケルは、自分が何をすべきなのかも見極められずにいた。婆様の言葉だけが、タケルの中に幾度となく巡り、胸ばかりが締め付けられた。


 そして月日は巡り、気づけばこの世界にも春が訪れていた。

 窓を覗けば、寂しかった樹々はいつの間にか薄紅に染まっていた。

 夜空に桜の花弁が、ふわり漂う。淡い月明かりに照らされ、仄かに白く。


 この桜が散れば、タケルはまたひとつ歳を重ねる。あの祭りの夜から、もうじき一年が経とうとしている。

 思えばここから見る風景も、ほんの少し目線が高くなった気がする。一年前の祭りの為に仕立てた羽織も、僅かに丈が短くなっていた。

 この過ぎた時間の間に、自分も変わっていったのだろうか。

 タケルは、横の姿見に眼をやった。透き通った板の向こうに立つ、自分の姿。笑う事すら忘れたその顔は、暗い影を落としてこちらを見詰めている。


 この真正面に映る少年は、これから何をしようとしているのだろうか。


 タケルは再び、窓の向こうに眼をやった。突如吹き荒れた春の夜風が、吹雪のように花弁を舞い上げていく。その幾枚かの花弁が、部屋の中にまでも舞い込んだ。

 桜吹雪に、淡く霞む眼下。

 その彼方の方向、桜の樹々の陰に灯る光にタケルは気付いた。

 篝火。

 上弦の月明かり。

 風に揺れる、満開の桜の枝。舞い上がる花弁。篝火に照らされ、靡く漆黒の長い髪。


 眼を凝らし、タケルは見詰めた。

 篝火に照らされた、人影。一人の童子の姿。舞い散る花弁。

 桜霞。


 タケルの全身に、衝撃が走った。


 桜吹雪に佇むその童子は、牙星だった。

 遠目にも、タケルにははっきりと判った。

 春風に煽られ、旗のように翻る衣。長かった髪は更に伸び、荒れ放題ではあったが、生まれ持ったその高貴さは拭い去る事はできない。


 タケルは身動きすらできぬまま、幻のようなその光景を見詰めていた。

 牙星の足は、真っ直ぐに神殿に向かっていた。速い歩みで、迷う事なく。


 まさか、牙星は神殿を訪れようとしているのか。今は反逆者となった牙星が神殿へ立ち入ろうなどとすれば、直ぐ様捕まってしまうのは判りきっている。捕らえられれば、命の保証すらあり得ない。


 タケルは、放たれた矢の如く部屋を飛び出した。全速で、朱色の長い階段を駆け降りていく。

 牙星は、すぐ間近まで来ている。

 その事実が、タケルにはまだ俄に信じられなかった。牙星が姿をくらまし、どれ程月日が流れただろう。

 牙星は、ここへ戻るべきではない。戻って来てはならない。一生、姿を隠し通したまま生きてゆくべきなのだ。それは、判っている筈だった。

 なのにタケルは、心踊らずにいられなかった。

 牙星が生きていてくれた。そして、もう一度会える。それだけで、先程までタケルの内側を締め付けていたものが、緩くほどけていくようだった。

 一刻も早く、牙星の元へ行きたい。

 まるで羽根を持つ獣のように、牙星が駆け降りたこの階段。今の自分に、牙星のような俊敏な速さがあれば。

 前のめりに駆けながら、タケルはそんなもどかしさを覚えた。

 

                ◆


 牙星は、眼前に聳える神殿を見上げた。桜吹雪に包まれ、その姿は淡く霞んでいた。

 どれだけの月日、ここから離れて暮らしたのだろうか。生まれてからずっと皇子みことして大切に敬われながら、ここで生きてきた。

 本当はもう、二度とこの場所へ戻って来るつもりはなかった。その神殿を目の前に、今牙星は立っている。


 父である皇帝が死去した事は、風の便りで知っていた。あの日以来、皇帝の気配はぷつりと途絶えた。

 そう。皇帝と命を共有する龍神を天へ還した牙星は、同時に父をも討ったのだ。この世界から、忌むべき者は、全て消えた筈だった。

 けれど、何故なのだろう。全身の血が、騒いでならないのだ。

 疼く、痼のようなもの。牙星の中に沸き上がる胸騒ぎと殺気は、神殿へ近づくにつれ、押さえようのないものになっていた。

 心臓の鼓動が、次第に速さを増していく。


 不意に牙星は、頭上天高くに何かの閃きを見たような気がした。

 夜空の、燐光。

 牙星は、はっとその姿に気付いた。

 神殿の最上階、露台の窓から見詰める眼。かつての牙星の部屋に揺れる、黒い影。


 タケル。


 牙星は、少し驚いて眼を見張った。

 それは、紛れもなくタケルの筈だった。遠目の利く牙星が、見間違うわけがない。だが牙星には、一瞬それがタケルとは思えなかった。

 タケルのその相貌は、明らかに以前とは異なっていた。

 姿形は、確かにタケルだ。けれど、何かが異なる。

 タケルは、真っ直ぐに牙星を見詰めていた。琥珀の眼が上弦の月を映したような穏やかな光を湛え、薄闇に浮かぶ。その双眸そうぼうはまるで、生まれたばかりの龍の眼のように。


 桜霞の夜に、二人の童子は紅と琥珀の眼を重ね合わせた。

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