第二十二話 隠者
風を斬るざわめきが、僅かな陽射しの零れる森林に響く。荒く木の葉を蹴り、しなやかな肢体を波打たせ駆け抜ける鹿。全身から、激しい生命力が溢れる。
「ギャウンッ」
鹿は悲鳴を上げ、冷たい土の上に転倒した。仰向けに転がったまま白い腹で荒く息をする鹿の喉元には、鋭い槍が突き刺さっていた。
口の横から舌を垂らし小刻みに息をする鹿の前に、ひとつの影が近付いた。
鹿はその細い足を、幾度か痙攣するようにばたつかせた。腹を向けて倒れたまま、黒い
鹿は一度苦しげに喘ぎ細い脚をばたつかせると、半分目蓋を下ろしそのまま動かなくなった。
牙星は槍を再び刺し込むと、傷口を更に広げる。まだ体温を宿した血が、冷たい土の上に溢れて染み込んでいく。すっかり血を抜き去ると、牙星は鹿の後ろ足を両手で掴み体を半分持ち上げた。肩から背中に抱えるようにして、ゆっくりと歩き出す。
草木の間を縫い、牙星が辿り着いたのは小さな洞窟だった。入り口は狭いが奥行きもあり、広々とした空洞。高さもあり、牙星の背丈よりも頭ひとつ分は余裕がある。
牙星はごつごつとした洞窟の地面に、仕留めた獲物の体を横たえた。
「ずいぶんと早かったな」
暗がりに閉ざされた洞窟の片隅から、低い
聲の主は、骨と皮ばかりの老夫だった。皮膚は硬く黒ずみ、半分白い頭髪と髭はまるで
「だいぶ、狩りには慣れてきたようだな」
牙星は何も応えず、散らばっていた薪を集め荒っぽく腰を降ろした。傍らに置いた石をかち合わせ、薪に火をつける。
牙星は立ち上がり石斧を手にすると、横たえて置いた鹿の体に振り降ろした。躊躇う事なく、何度も何度も斧を振る。そして幾つかに切り分けた肉を、細い棒に突き刺さし火に
脂が滴り火に跳ねる音がした。生身の色をしていた肉が、火の中でこんがりと焼けていく。その様子を、牙星は物も云わずに眺めていた。炙られた煙と芳ばしい匂いが、洞窟の中に立ち込めた。
牙星が火の中から一本、焼けた肉を手に取る。まだ熱い肉を吹き冷ましながら、ちらりと老夫に目をやる。
「やはり、食わんのか」
牙星に尋ねられ、老夫は
「儂は、これで充分だ」
老夫は懐から干した木の実を取り出すと、そっと口に入れた。
「お前さんは、遠慮せずに食え」
云われずとも、そうするつもりだ。牙星は威勢良く、こんがり焦げ目のついた肉にかぶりついた。野性の鹿は肉が硬く、噛み切るのにも顎の力がいる。今牙星が噛み砕いている肉の主も、つい先程までは呼吸をし生きていた。
生きるものの命を奪う事は、最初かなりの抵抗があった。けれど、強くなるには肉を喰らう事も必要だ。生きていくには、他の命を犠牲にしていかなければならない。綺麗事では、決して片付けられないのだ。
牙星は、絶対に無駄に命を奪わないと誓った。
動物たちは、人間のように悪戯に命を奪ったりしない。それがどんなに無意味な事か、本能で悟っているのだ。
牙星は、自分も動物たちと同じ、野性に生きる獣になろうと決めた。そして、獲物はできるだけ大きなものを選んだ。犠牲にする命は、可能な限り最小にとどめたかったからだ。
牙星は肉にかぶりつきながら、目線を上げて老夫を見た。先程から、全く身動きしていない。牙星にとって、この老夫は謎だらけの存在だった。
名前すら知らぬこの老夫と洞窟に棲むようになって、どれ程経つのだろう。
この洞窟で暮らし始めた最初の二日間、牙星は奥にこの老夫が座っているのに気づかなかった。
牙星は人一倍感が鋭い。その牙星にすら、気配ひとつ感じさせなかった。この老夫が只の人ではない事を、牙星は早々に知る事となった。
先住者が居るのならば、当然後から来た者が出ていくべきなのだろうが、牙星はそのような性分ではない。老夫も何も云わなかった為、牙星はそのまま居座るようになった。
老夫はほぼ一日中胡座をかいたまま、必要以外は動く事がない。石像のように佇むその様子は、牙星の眼にかなり異常に映った。その場に留まる事のできない性分の牙星と老夫が顔を合わせるのは、食事の時か夜くらいだ。
燃え盛る炎に照らされた老夫は、眠ったように目蓋を閉じている。
牙星は何故だか食欲が失せていくような気がしたが、再び目の前の肉に歯を立てた。余った肉は陽に干せば、何日分かの食糧になる。
牙星は口の中の肉を噛み砕き呑み込むと、もう一度老夫を見た。ざんばらに伸びた斑の髪と長い髭。その下に埋もれた顔からは、表情すら見て取れない。
牙星は洞窟の外に眼をやった。明るい陽射しが、まだ夕刻まで時がある事を告げている。
肉を平らげ火の始末をすると、牙星は表へ飛び出した。陽があるうちから、こんな鬱陶しい処になど
生い茂る草を風のように掻き分け、虎のように山道を駆けていく。そうして辿り着いたのは、一帯が見渡せる切り立った斜面だった。二本だけ伸びた高い樹と樹の間に、丸い綺麗な形の石が座すように置かれている。その傍らには、小さな野花が添えられていた。
牙星は少し萎びかけたその花を取り除くと、たった今摘んだばかりの瑞々しい野花を置いた。そして慈しむように、俯いたまま石を見詰めた。
この下に、双葉は眠っている。今も、夢を見たまま。もう目覚める事のない、眠りの中で。
陽の射さぬ場所で生きてきた双葉は、皮肉にも骸となってから外の世界を許された。
牙星は毎日野花を摘んでは、ここへやって来る。
もう何も見る事の叶わない双葉の代わりに、たくさんのものを見た。けれどもきっと、双葉の瞳が映し見る光景の美しさには敵わないだろうと思った。
双葉の額のもうひとつの眼。あの瞳に、この澄みきった空を見せてやりたかった。けどその想いは、もう届く事もない。
牙星の正面で微笑んでいたあの少女は、もう何処にも居ない。只僅かな欠片を残して、黄泉と
悲しみと喪失感は、今でも牙星の真ん中にぽっかりと穴を空けて渦巻いていた。けれど、牙星の眼から涙が流れる事は、もうない。涙など、疾うに渇れ果ててしまった。
あの日から、牙星は人の皮を抜き捨て、獣になったのだ。
◆
この洞窟で迎える、何度目かの夜が訪れた。
篝火の炎が、僅かに吹き込む風に揺れている。牙星と老夫、ふたつの影が終始形を変えながら岩壁に映っていた。
牙星の眼は、じっと老夫を見据えていた。牙星の視線に多分気付いていながら、老夫は目蓋を閉じたまま動かない。牙星の知る限り、老夫は大抵こうして眼を閉じ口を開く事もない。いつも、沈黙の夜が過ぎていく。
「おい」
牙星の呼びかけに、老夫はゆっくり目蓋を開いた。
この夜、牙星は初めて沈黙を破った。静かに、それでいて力強い老夫の眼差しが牙星を射る。
「お前はいつから、ここにこうして居た」
牙星の言葉使いは、とても年長者に対するものではなかった。ずっと皇子として敬われ育てられた牙星にしてみれば、自分より遥か年上の人間であろうが目下の者に変わりはない。
そんな牙星の傲慢な態度にも動じず、老夫は黙したままじっと視線を向けていた。
「これからも、こうして生きていくのか」
牙星が問いかけても、老夫の口から言葉が洩れる事はなかった。
「何か答えたらどうなんだ」
牙星が、少し苛ついて云う。それでも老夫は口を開こうとしなかった。
神殿では召遣いや大臣から機嫌を損なわぬように扱われてきた牙星は、他人からこのような態度をとられる事に慣れていない。すっかり気分を悪くした牙星は、老夫を一度睨み付け、そっぽを向いた。
「……雨が来る」
突然静寂を破った低い聲に、牙星は振り向いた。髭と頭髪の間から、異様に大きな爛々とした眼が覗いていた。
「天で龍が暴れる日には、雨になる」
「儂は、雨が降るかどうかなど聞いていない!」
質問の主旨と全く違う答えが返ってきた事が、更に牙星の不機嫌さを逆撫でした。老夫は苛立つ牙星を尻目に、言葉を続けた。
「龍は、人間の生まれるずっと以前から存在していた。全ての龍は大気から生まれ、八百万の神とされてきた。だが今、私欲に憑かれた人間たちの
龍。
老夫の言葉に、牙星は押さえていた憤りが再び顔をもたげていくのを感じた。
愛しい者を、奪い去った化け物。牙星は老夫に反発する事も忘れ、黙り込んだ。
「人間たちは、我が物顔でこの世界に君臨している。森羅万象の恩恵を忘れ、あたかも自分たちが全ての支配者であるかのように、思うがままに操ろうとする」
老夫が、重く一呼吸吐く。
「お前も儂も、その人間だ」
「儂は違う!」
老夫の言葉に、牙星反発した。
「儂をそのような者どもと一緒にするなっ!」
「お前は何故、ここに居る」
鋭い視線で睨む牙星に、老夫が問いかけた。
「お前こそ、何故ここに居る?」
問い返す牙星。
「儂は、人間たちの
「では、お前は逃げ出したのだな」
牙星の言葉に、老夫の
「そうとも云うな」
老夫は穏やかに、牙星の言葉を受け入れた。
「儂は、お前とは違う。儂は強くなる為にここに居る。龍にも勝る程、強くなる為にな」
牙星は老夫の眼を真っ直ぐに見据え、云った。
「何故、強くなりたいのだ」
老夫が問う。
「お前になど、教えるまでもない」
牙星が、老夫の問いを突き放す。
「お前は何かに負け、ここへ逃げて来たのだろう」
「何っ!」
牙星は険しい眼で老夫を睨んだ。
「誰に向かって、そのような口を利いている!」
「その気位の高さからして、お前は高い身分の人間なのだろう。そのような者が、こんな深い山奥へ隠れ棲むとは、それ相応のわけがあるのだろう」
「黙れっ! 死に損ないが、余計な口を叩くな!」
牙星は腰の剣を引き抜くと、老夫に振り翳した。瞬間、老夫は疾風のように身を交わした。半ば小馬鹿にしていた老夫の俊敏な身のこなしに、牙星は驚いたように口を開けた。
「いつまでも、ここに隠れていてどうしようというのだ。お前は、何をすべき者なのだ」
牙星は剣を握ったまま、黙り込んだ。
雑草のように伸びた頭髪の下で、年輪を刻んだ窪んだ眼が静かな光を宿していた。
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