第二十話 罪
「……やはり、この様な末路を辿ってしまったのですね」
石のように固まったまま岩壁を見上げていたタケルは、振り向いた。
聲の先には、白髪巫女とその両脇に二人の巫女が居た。
「時が早すぎたのか、姫巫女が只の娘に戻っていたのか、……それとも、最初から祭りの儀式による効力など迷信にすぎなかったのか」
蒼白のタケルに、冷静な面差しで白髪巫女が云った。この惨劇の後を眼の当りににしても、白髪巫女は一切取り乱す様子すら見せていない。
号泣し叫び続ける
「龍神に姫巫女を生け贄として捧げる。それは、龍神を永遠に地上へ留める為の儀式」
白髪巫女は、目蓋を閉じ
ここに残っているのは、その儀式の跡形。
「皇帝は、もうすでにこの世には居られないでしょう」
白髪巫女の言葉に、タケルは息を呑んだ。
皇帝と命を共にする龍神は、もうこの岩場には居ない。牙星に片眼を突き抜かれ、天へと還ってしまった。命を共にする龍神が天に昇れば、皇帝も命を失う。
「龍神を天に還してしまった牙星様は、皇帝の命を奪った罪人です。例えそれは皇子であっても、死罪に値する罪なのです」
タケルは、愕然として牙星を見た。
牙星は地べたに膝をついたまま、
「牙星様、この神殿を離れるのです。誰の手も及ばない、決して誰の目にも触れぬ場所へ」
白髪巫女が云った。それは、全てを失った若い
神殿を離れ、身を隠す。
それが、皇帝の命を奪った罪人である、牙星が生き延びる術。
愛しい者を失ったばかりの牙星は、同時に全てを失ったのだ。もう神殿へ戻る事はできない。皇子として敬われていた童子は、皇帝の命を奪った罪人となった。
この世で最も罪深い者。
今の牙星に、あまりにも酷な運命。
タケルは己の身が切り裂かれるように苦しくなった。
牙星の叫び聲が、不意に消えた。
はっとしてタケルが振り向いた時には、もうそこに牙星の姿はなかった。
◆
巫殿を飛び出し、神殿の敷地を駆け抜ける。
牙星はまるで荒れ狂う手負いの獣の如く、疾走した。鋭い枝に傷つけられるのも構わず、険しい山道を駆け登る。血に染まった腕に双葉の手のひらを抱いたまま、
その足は止まる事を知らぬかのように、地を蹴り続けた。
牙星は、止まる事を恐れていた。動きを止めれば、双葉の死を目の当りにしなければならない。しゃくり上げるような嗚咽を洩らしながら、樹々の間をすり抜ける。
走って走って、走り続けた。
だが、山道は無情だった。
樹々を潜り抜けたその先にはもう道がなく、見渡す限りの空が広がるばかりだった。
ここまで、ずっと走り続けてきた。さすがの牙星も、肩で息をしていた。まるで雨を食らったような汗が、全身を流れていく。
訪れた夕刻の濃淡に染まる空。明るい星がひとつ、見えていた。
腕の中には、疾うに温もりを失った、双葉の欠片。牙星の内側に、堪えきれず感情の波が押し寄せてくる。
「……ううっ、くっ……」
牙星の喉元から、絞り出すような聲が洩れた。
双葉は、もう居ない。
「うああああああああああああっ‼」
牙星は叫んだ。獣のように吠え続けた。聲は響き、幾重にも重なり、谺していく。
牙星を穏やかに見詰めていた、双葉の眼差しを思い出す。もう、取り戻す事のできないもの。
腕に抱いた、物云わぬ小さな骸。
何も、できなかった。差し伸ばされたこの手を、掴む事さえしてやれなかった。
守ってみせると、約束したのに。龍神から奪ってみせると、約束したのに。
ほんの寸分で手が届く程に、傍に居たのに。
二人で生きていこうと、約束したのに。
花嫁にすると、誓った筈なのに。
双葉に、嘘をついてしまった。
牙星は生まれて初めて、己の無力さを知った。今までずっと、自分にできぬ事などないと信じて疑いもしなかった。
酷く自惚れていた。
双葉を守る事すらできなかった童が。自惚れ、天狗になっていた、只の童が。
牙星は憤った。龍神よりも、皇帝よりも、今は己自身が憎い。
双葉を、姫巫女という定めから、救う事もできなかった己を。
牙星は、強くなりたいと願った。父よりも、龍神よりも強く。
それが、唯一の双葉への酬い。
双葉の骸を抱いたまま、牙星は今一度、夜の獣のように吠えた。
◆
タケルの前から姿を眩ましたまま、牙星が戻ってくる事はなかった。
祭りの惨劇の後、神殿は大変な騒ぎとなった。
皇帝が絶命したのだ。
何の前触れもなく突然地に伏せた皇帝は、そのまま息を引き取ったという。
白髪巫女の言葉通りだった。
何も知らぬまま、皇帝はその生涯に幕を閉じたのだ。皇帝は、龍神と共に天へと召された。祭りが終われば、永遠に皇帝として君臨できると信じたまま。
そして、龍神を天へと還してしまった牙星は、父である皇帝の命を奪った罪人とされた。今の今まで皇子として敬われていた牙星は、この世で一番の罪人となったのだ。
そしてこの世界は、王を失った。
だが、この期をほくそ笑んだ者も居た。皇帝側近の大臣たちだ。
皇帝が居なくなった今、この世は自分たちの手中にあるも同然。あの我が儘な皇子は今は罪人の身であるし、妃は居ないも同じような存在だ。
とうとう、自分たちが天下を握る日が訪れたのだ。だが取り敢えず、形としての玉座に座す者を据えなければならない。
そして大臣たちは次の皇帝として、牙星の双子の弟である
◆
ずっと巫殿で育った守人は、その日初めて外の世界を眼にした。
生まれて一度も陽射しに晒された事のなかった守人の肌は、透けてしまいそうに青白かった。
そして守人と共に、タケルも神殿へ迎え入れられる事になった。守人が、そう望んだのだという。
遣いの者に連れられ、二人は長い通路を並んで歩いた。
ずっと表情のないままの守人は、神殿の開けた廊下の庭園辺りに差し掛かった時に只一言、
「向こうを見ると、眼が瞑れてしまう」
と云った。
そこには、正午の強い陽射しに照らし出された草花があるばかりだった。陽の光を見た事のなかった守人は、その眩しさに眼が焼かれてしまうと思ったのだろう。
タケルはその様を、ふと憐れに感じた。
そして二人は、それぞれがこれから暮らす部屋へと案内された。
タケルが宛がわれたのは、かつて牙星の部屋とされていた一室だった。
決して自分は暮らす事も叶わぬであろうと思ったこの部屋で、牙星に入れ替わって生活する。タケルは何か、因縁めいたものを感じずにはいられなかった。
窓から吹き込む風。
以前牙星は、ここに立ち風に長い髪を遊ばせていた。ほんの
双葉の小さな欠片を抱き、牙星は何処へ消えてしまったのだろう。罪人となった牙星は、捕まればその命はない。
何処でも良い、どうか無事で生きて欲しい。
タケルは、開け放たれた露台の窓一面に広がる晴れた空を眺めながら、小さく祈った。
◆
玉座に就き、守ノ
誰が話しかけても気のない返事をするか、辻褄の合わぬ事を云うばかりだった。そしてやはり、その表情が動く事はなかった。
そんな様子の守人だったが、唯一タケルにだけは心を許した。何故か好んでタケルを呼び寄せては、一言二言話しをし、また笛を吹くのだった。
「その笛は、誰に貰ったの?」
タケルは、守人が笛をその手から離した姿を一度も見た事がない。
「判らない。気がついた時から、手にしていた」
守人が表情を変えぬまま、いとおしむように笛を撫でる。そして、再び笛を吹いた。
守人はタケルと居る時でも、笛の
守人の奏でる旋律は、まるで吹く者の感情を全て余す処なく吸い付くしているかのように、切なさを孕んで響いた。
守人はこの笛の音に、己の心を委ねているのではないか。タケルはそんな風に感じる事が、しばしばあった。なのだとすれば、この笛の音が真の守人の心。
「ねえ、外に出ない?」
タケルは、守人を誘ってみた。せっかく巫殿からこちらへ移ったのに、守人はまだ一度も外へ出ていない。
「けれど、眼が瞑れてしまう」
守人はまだ、陽の光が眼を焼いてしまうと信じているらしい。
「大丈夫だよ、慣れれば眩しくなくなるから」
「ならば、行く」
守人は、素直にタケルの言葉を呑み込んだ。
タケルと共に外へ出た守人は、暫くの間眩しそうに眼を細めていた。だが次第に慣れてきたらしく、ゆっくりと辺りを見回し始めた。やはり表情はないものの、明らかに外の様子に興味を示しているらしい。
だいぶ眩しさににも慣れてきた守人は、緩い動きで空を見上げた。
「この天井は、何故これ程高い」
「あれは、空と云うんだよ」
理解したのかしないのか、守人は空を見詰めたまま黙っている。
地上へ出て幾らかは人らしい色素に近づいていたが、それでもまだ守人の肌は透けるように白い。こうして陽射しの下で見る守人の姿は、兄である牙星そのものだった。この庭で牙星が見せた勝ち気な笑顔が、タケルの脳裏に鮮やかに蘇ってくる。その記憶は、いつでもタケルを切なくさせた。
「向こうにも行ってみよう」
守人はタケルの後に従い、草の上を進んだ。
こうして思うと、牙星の時とまるで立場が逆だった。楽しげに駆けていく牙星を、タケルは追いかけるだけでやっとだった。
ふとタケルは、背中に守人の気配がないのに気づいた。
「守ノ皇帝?」
見ると、守人は庭園の池を覗き込んでいる。
「どうしたの」
タケルは駆け寄り、池の前にしゃがみ込んでいる守人に訪ねた。
「中に、人が居る」
池の表面には、反射して映った守人の姿が揺れていた。
「これは、君の姿だよ」
隣に並んだタケルの姿も、水面に映り込む。
「私の、姿……」
守人は、じっと池の表面を見詰めた。
「私は前に、これとそっくりな者を見た事がある」
守人の口から洩れた言葉に、タケルの心臓が大きく波打った。
そうだ。守人は、あの祭りの惨劇の一部始終を目にしているのだ。
無論、牙星の姿も見ていた筈だ。
タケルは、
龍を求める二人が出会った時、定めの輪が回りだすと。
あの日、あの瞬間、二人は互いの姿を眼の当りにした。それは即ち、運命の歯車は回り出してしまったという事。
池に映った己の姿を、人形のような眼で守人は見詰めた。その隣に映り込んだタケルの顔は、不安そうに揺れていた。
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