第十八話 龍神の花嫁

 陽は真上から少し傾き、午後を回っていた。

 昨日の逃亡劇の一件で、牙星きばぼしは自室から一歩も外へ出る事を禁じられた。

 怒りおさまらず、牢獄に監禁しようとする皇帝を必死に宥めた龍貴妃りゅうきひの恩恵により、自室軟禁で済まされた。扉の外には見張り番が二人、牙星の気配に常に神経を傾けている。

 朝昼の食事も、この部屋の中で一人で済ませた。

 今は、誰の顔も見たくない。父や母の顔を見ずに済む分、それはむしろ都合が良かった。皇帝と顔を突き合わせて食事を取るなど、真っ平御免だ。


 けれどいくら穏便な刑とはいえ、この情況は気に食わなかった。

 牙星は露台から身を乗り出し、下を覗いた。真下には、兜を被った見張りの頭がふたつ見える。再び牙星が何か仕出かさぬよう、四方八方隈無く見張り兵たちが眼を光らせている。

 牙星は、眼下に向かって唾を吐き付けた。

 荒々しい足取りで部屋の中へ戻る。もどかしかった。苛立ちだけが、牙星の中でどんどん膨れ上がっていく。

 剣さえ奪われ、牙と爪を盗られた虎のように無力だった。

 牙星は、悔しさに奥歯をぎりぎりと噛み締めた。

 父が憎い。そして何より、自分の非力さが憎い。牙星は怒り任せに、寝台の帳を引き裂いた。


 ふと、窓の外に広がる青い空が見えた。

 双葉……。


 触れ合った双葉の体温は、まだ牙星の中に残っている。温もりを交わし合う程傍に居たのに、今は遠く引き離されてしまった。


 二人で、本気で逃げようと思った。誰の手も及ばない、遠く、遠くへ。

 双葉を、何者からも守ると決めた。それは、今でも変わらない誓い。

 互いの眼と眼を重ね合わせたその刹那、揺るがぬ心を確かめた。皇帝からも、龍神からも、この娘を奪い守っていくと。


 祭り。

 それがどんな儀式なのかは知らない。だか、そんな事はどうでもよい。

 双葉は、誰にも渡さない。そう決めたのだ。

 だから、こんな処で大人しくしているわけにいかない。

 牙星の中に、再び強い苛立ちが沸き上がる。双葉を奪っていった者たちを、一人残らず剣で切り裂いてしまいたい。


 開け放たれた窓から吹き込んだ強い風が、牙星の長い髪を掻き乱した。

 この風になれたなら。

 今この身を風に化す事ができたなら、幾多の矢も吹き散らし双葉の元へ行けるだろう。双葉もろとも包み込み、彼方へ吹いて行けたなら。

 牙星は苦々しく、口元を歪ませた。

 露台へ出て遠くへ眼を転じた牙星は、庭園の繁みの脇に人の姿があるのに気付いた。


 タケルだった。

 かなり遠目ではあったが、常人よりも遥かに眼が利く牙星にははっきりと判った。

 タケルの視線は、只真っ直ぐにこちらへ向けられている。確かに、牙星を見ていた。


 牙星は、何故か一瞬大きく心臓が鳴った。

 何かを必死に訴えるような、タケルの眼。

 嫌な予感を覚えた。

 気にはなったが、牙星は素っ気なく視線を逸らした。今は、誰とも顔を合わせたくない。それは、例えタケルであっても。

 牙星は身を翻すと、部屋の中へと姿を隠した。

 

              ◆


 陽は西に傾き、空は黄昏に染まっていた。

 露台に立った牙星は、昼間と同じ場所にタケルの姿を見つけた。

 牙星は、訝しく眉をひそめた。あのままずっと、あの場所に居たのだろうか。

 先程感じた、あの嫌な予感がした。

 タケルはやはり昼間と同じように、真っ直ぐにこちらを見詰めている。その表情は、昼間見た時よりも酷く焦燥していた。


 牙星は、急に胸騒ぎを覚えた。

 ドックン

 刹那、心臓が大きく波打った。全身が冷水を浴びせられたように総毛立つ。

 血のように、赤く染まった空。


 牙星は空気に混じり、途轍もなく巨大な気配が蠢くのを感じた。

 心臓が、再び大きな鼓動を打つ。

 これは……。

 牙星は、この気配を知っていた。

 人間など、幾千束になっても到底及ばぬ、底知れぬモノの気配。


 そうだ。何故気づかなかったのだろう。

 牙星は明朝から、この気配を感じ取っていた。地の底から蠢き立つ、この不気味な気配。

 これは、明らかに……。


 

 龍神。



 事は既に、動き始めていたのだ。


 ……双葉っ!



 牙星は扉を開くと、放たれた矢のような勢いで部屋を飛び出した。


「牙星様っ、何処へ‼」

 

 一瞬の事に、番をしていた兵士の制する間もなかった。くうを切る鷹のように、番人の手をすり抜ける。

 兵士たちのこえも振り切り、牙星は疾走した。

 長い階段を飛ぶように降りる。擦れ違う者が、手を伸ばす間すらない。

 下の階に降り立った牙星は通路を駆け抜け、庭園へ飛び出した。誰一人、追い付く事が出来ない。

 芝を駆け抜け、樹をすり抜ける、タケルの居る場所まで辿り着くのはあっという間だった。


 獣のような勢いで現れた牙星に、タケルは驚いて眼を丸くした。だかすぐに事の重大さを思い出し、すがるように牙星の肩に手をかける。


「牙星っ! 早く……、早く龍神の岩場へ行って‼」


 血の気の引いた顔で、タケルが捲し立てる。


「大変なんだ! 姫巫女が、早くしないと姫巫女が……」


 タケルの口から出た姫巫女という言葉に、牙星の血相が変わる。


「双葉がどうしたっ!」

 

 今度は牙星の方がタケルの肩を鷲掴み、激しく揺さ振った。

 タケルはすぐに、双葉という名が姫巫女の事だと察した。

 牙星が、恐ろしい剣幕でタケルを問い詰める。タケルは何故だか急に喉が詰まり、聲が上手く出なかった。

 牙星は業を煮やしタケルを押し退けると、身を翻した。疾走するその足は、迷う事なく巫殿へ向かっていた。


 前方の巫殿入り口に、番をする兵士の姿が見えた。

 疾風の如く駆ける牙星を取り押さえようと、二人の兵士が掴みかかる。

 瞬間、牙星は素早い身のこなしでその手を交わした。そして、襲いかかってきた兵士の腰から鞘ごと剣を奪い取る。所詮は童と見くびっていた兵士達は、只唖然とするばかり。

 牙星はそのまま剣を抜くと、更に手を伸ばしてきた兵士に切っ先を向けた。悲鳴を上げて、兵士が飛び退く。牙星はそのまま一気に巫殿の入り口に飛び込み、長い階段を駆け降りた。

 

 牙星は、狂った獣のように通路を駆け抜けた。

 双葉は絶対に守る。

 渡すものか。何者にも渡すものか。

 双葉を奪う者は、何者であろうと許さない。

 不気味に暗い冷たい通路を、韋駄天いだてんの速さで駆けていく。

 牙星は今、全てを捨て去り風になった。


              ◆


 双葉は、静かに仰ぎ見た。

 赤々とした松明の炎に照らされた岩壁に、大きく伸びた双葉の影が揺らいでいた。

 ごうごうと、地鳴りのような音が何処からともなく聞こえてくる。他に聞こえる音はない。風の音すら、ここへは届かない。

 見送りの巫女たちとも別れ、今は只一人。

 最後の御祓を終え、冷たく濡れそぼった髪が白装束を湿らせた。


 祭り。

 唯一の姫巫女が、花嫁として龍神に身を捧げる儀式。

 神に等しい第三のまなこを持つ、尊い姫巫女だけに許された儀式。

 

 双葉は今、自分の五体を喰らおうとしているモノの処へ、己の足で歩を進めている。こうして自ら龍神の元へ向かっている己の心が、双葉にも判らなかった。

 酷く、恐ろしかった。

 全身に立つ鳥肌は、寒さの所為せいばかりではない。

 けれど、双葉には逃げ出す事さえできなかった。これが、姫巫女として生まれた自分に定められた事。三つの眼を持って生まれた娘の、生かされた意味。

 物心ついた時から龍神に祈る事だけを教えられ、尊い生き神として敬われてきた。

 お前は龍神様の為に生を受けた、尊い存在なのだと。


 そして、祭りという儀式の為だけに今日まで生きてきた。

 双葉自身も、今までそれを疑わなかった。自分の本当の名すら思い出す事もなく、姫巫女として生きてきた。


 双葉。

 

 優しいこえ

 只一人、そう呼んで無邪気に笑ってくれた。

 暖かな体温。

 強く握られた手のひら。繋いだ、手と手。

 目の前で揺れていた、黒い髪。

 正面で見上げた、綺麗な紅のまなこ


 苦しくなった。


 ほんの、一日前の出来事。

 束の間に過ぎた時。牙星と共に生きたあの瞬間、双葉は只の少女だった。

 他の少女と、変わらぬ夢を見た。

 牙星の花嫁になる、刹那の夢。

 大切な願い。


 双葉は、泣いていた。

 生まれて初めて、只の少女として泣いた。

 

 双葉はいつの間にか、牙星に恋をしていた。


 恋を知ってしまえば、姫巫女としては生きていけない。姫巫女であり続ける事はできない。

 今ここに居るのは、崇高な姫巫女ではない。只の一人の少女、双葉なのだ。

 けれど、もうどうする術もない。


 止めどなく涙は溢れた。眼の奥が、熱く痛い。


 苦しい、苦しい。 

 淋しい、恋しい。

 叶うわけのない願い。


 会いたい。牙星に、会いたい。


 もう後僅かで、双葉は龍神の元へ辿り着く。

 何も残さず、龍神に喰われる。


 最後に只ひとつ、只ひとつ叶うのならば。


 もう一度。

 もう一度だけ、牙星に会いたい。


 もう一度牙星に会えたのなら、また二人で逃げよう。今度こそ、誰にも追い付く事のできない遠く、遠くへ。

 二人だけで逃げよう。

 もう二度と、離れる事のないように。


 抗えぬ運命に背を押されるように、双葉は龍神の待ち構える岩場の先へと歩を進める。

 只の娘となった双葉の、姫巫女としての最後の運命さだめ

 龍神の花嫁という名の、捧げ物になる為に。



 

 



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