第三話 龍の宮

 龍の宮は、里の最果てにある神社だった。

 祭りの儀式の後、村人たちの担ぐ輿に乗せられたタケルは、夜が白み始めた頃ようやくそこに辿り着いた。

 夜通し輿に揺られながら、タケルに眠りが訪れる事はなかった。眼を閉じても、頭の奧の方がじわじわと痺れているように感じられた。とりとめのない思考だけが、絶え間なく渦のように過ぎていく。

 タケルは輿にかけられた御簾みすの隙間から、外を覗き見た。

 幾つかの松明が照らす、村人たちの影。

 煌々と燃える松明の火が、闇に呑まれていた行く先を照らす。その光景は酷く現実味が薄く、自分は夢の中を辿っているのではないか。そんな疑心暗鬼にさいなまされた。

 このまま延々と、明けぬ夜の中を揺られ続けていくだけなのではないか。 

 眩暈を覚えたタケルは、空を仰いだ。白い月が、一際明るく夜空を照らしていた。

 夜半過ぎの欠けた月を見上げながら、タケルはもう果たすことのできない雪との約束を思い出していた。


 御簾を上げる気配に、タケルははっと目蓋を開けた。僅かばかりだが、眠っていたらしい。唐突に眠りを奪われた時の独特な倦怠感に、タケルは輿の中で凭れ掛かったまま暫しぼんやりと視線を彷徨さまよわせていた。長柄ながえを担いでいた村人が、御簾の向こうから龍の宮に到着した事をタケルに伝えた。恐らく、輿から降りるように促しているのだろう。

 タケルは、ゆっくりと輿の外へ足を降ろした。体が重い。ずっと同じような体勢でいた為か、膝から下が僅かに痺れている。


 空気の冷たさを感じた。湿った早朝の匂いが、タケルの鼻腔を掠める。

 タケルを輿から降ろした村人たちは、恭しくこうべを垂れると元来た道を引き返していった。

 誰一人、振り返る者はない。タケルはまるで置き捨てられたような気分で、小さくなっていく村の大人たちの後ろ姿を黙って見送った。

 小さな村では、皆が顔見知りの間柄だ。無論、ここまで輿を担いできた村人たちの六人とも、タケルの良く見知った顔の者だ。その中には、小さい頃からタケルを可愛がり、遊んでくれた者も居た。けれど何故だか、言葉を交わす気にはなれなかった。

 もう再び会う事すらないだろうに。

 その心中は、大人たちもきっと同じだったのだろう。

 タケルはそっと眼を閉じ、去っていった村人たちに無言のまま決別を告げた。


 只一人残されたタケルは、静かに見上げた。

 左右に玉石の敷き詰められた、石畳の参道。その先には、幾つも積み重ねられた石段が果てのない程続いている。遥か頭上には、僅かに鳥居の形が見えた。

 婆様が向かえと告げた、龍の宮の祠。そこへ辿り着いた時、一体何が待ち受けているのか。


 タケルは、急に恐ろしくなった。それと同じ程の、淋しさにも襲われた。

 けれど、きっと……。もうタケルが戻れる場所は、何処にもない。

 タケルは大きく息を吐き出すと、ゆっくりと参道を歩き始めた。参道を覆うように繁る樹々の間から、夜の終わりの空が覗いていた。

 玉砂利を踏み締める足音だけが、静寂を破る。それはまるで、純白の絹に糸を通した針を刺し込む感覚にも似ていた。

 

 タケルは、石段の前で立ち止まった。もう一度、ゆっくりと見上げる。延々と続く石段に隠され、その頂上の鳥居は見えなかった。

 小さく息を吐き、タケルは石段を登り始めた。ひんやりとした朝霧の中を、一段一段数えるように登っていく。

 

 幾百と続く石段。心的疲労もあり、次第に足が重くなっていく。タケルは一度足を止めて、その先に構える石段を見上げてみた。そしてまだ、半分も登っていない事に気づく。

 気が遠くなりそうだった。

 タケルは、振り向いて眼下を覗いた。遥か真下に、鬱蒼と樹々に守られた参道が見える。

 前に向き直ると、タケルは気力を奮い起こすように口元を一文字に結び、再び石段を登り始めた。


 息を切らし、ようやく登り詰めた先に現れたのは、見上げる程の巨大な金色こんじきの鳥居だった。その重厚な鳥居は、まるでタケルを呑み込もうとしている龍の口のようにも思えた。

 タケルは、ゆっくりとその鳥居をくぐった。

 その先には、やはり石畳の参道。

 更に先には、夜明けの薄闇にくっきりと浮かぶ立派な祠が構えていた。それは神々しく、静寂に鎮座していた。

 

 タケルは只立ち尽くしたまま、祠を見詰めていた。

 龍神を祀る、祠。

 鳥居から先のこの空間は、人々の棲む場所とは切り離された神聖な領域なのだ。タケルは肌から感じる空気に、それを悟った。

 空が、白く明るくなっていく。祠の屋根に、光が射し始めたていた。


 タケルは、天に陽の光とは違う何が閃くのを見た。一瞬の間を置いて振り仰いだタケルが眼にしたのは、光を放ち翻る巨大な尾だった。

 タケルは真上を見たまま茫然とした。

 それは祠の何倍もあろうかという、銀色の龍の姿だった。

 タケルはこえを失った。


 天を泳いだ銀の龍は、タケルに眼を向けた。その頭は、村で見た造り物の龍など比べるに及ばぬ程に恐ろしく巨大だった。びっしりと鱗に覆われた姿は、滑るような輝きを帯びていた。鋭い牙と爪は、人間など意図も容易く真っ二つに切り裂くだろう。


 ……お前は、我が姿が視えるのか


 重く轟くような聲。

 その聲は、タケルの中に直に響いた。

 首肯くタケル。

 不思議と恐ろしくはなかった。


 ……我が姿は、人には視る事すらかなわない。お前は何者だ


「タケル」

 

 ……タケル


 銀の龍の濡れた光を宿す双眸そうぼうが、タケルを見据える。


 ……確かにお前の眼は、人以外の者の眼だ


 タケルは、琥珀の色をした眼を持つ。村の誰とも、違う色をした眼。


 ……ならば、我とともに来るがいい


 その刹那、辺りは無数の粒子に包まれた。粒子は淡い光を孕みながら、柔らかくタケルを包み込んでいく。

 タケルには何故か、その感触が酷く懐かしく思えた。それはまるで、母の胎内に抱かれて眠る……そんな感覚に似ているような気がした。

 覚えている筈もない、遠い記憶。タケルは、母の顔すら知らない。父も母も、知らずに育った。タケルの家族は只一人、婆様だけだった。


 その時タケルは、顔も知らない筈の母の胎内の鼓動を聞いたような気がした。

 自分は、帰るべき場所へ還っていくのだろうか。

 瞬間、タケルは何ともおかしな心地を味わった。腕や足、五体の感覚が失われ、その内側にある筈の意識が晒されたような不可思議な状態。云うなれば、魂だけが浮いているような感覚。

 これから向かうのは、この空のずっと彼方の世界。肉体を伴ったまま、行く事のできぬ処なのかもしれない。

 自分は今、銀の龍に魂だけを抜かれて天上へ連れられていく途中なのだろうか。それならば抜け殻となった肉体は、元の世界では骸となって転がる事になる。あのまま祠に置き去りにされた自分の骸は、数日も経たぬうちに獣達に荒らされ無惨な有り様になるに違いない。それは、あまり気分の良いものではない。

 そんな心配をしているうちに、いつの間にか五体の感覚は戻っていた。タケルの不安は、どうやら要らぬもので済んだようだ。


 徐々に粒子の先に、朧気な草色が現れていく。風の気配。そして、空気の匂い。

 タケルを取り巻いていた粒子は消え失せ、瞬時に大気の冷たさを感じた。母の胎内から産み落とされた、瞬間のように。


 タケルがゆっくりと、周囲を見回す。

 視界一面に、樹々の緑が映る。そこが龍の宮ではない事は、明らかだった。

 空気の匂い。風の肌触り。ここは、全てが似て、異なる処。

 タケルは、本能でそれを悟っていた。

 ここは、只の人が立ち入る事を決して許さない場所。


 タケルは顔を上げ、天にとぐろを巻く銀龍を見た。

 ここが婆様の云った、タケルの還るべき場所なのだろうか。

 穏やか光を湛え、見下ろす龍の眼。銀の龍は、緩い輪を描くように天に浮かんでいた。


 ……この山の先にある、神殿へ向かうがいい


 鋭く銀の尾を翻すと、龍は踊るように舞い上がった。天高く登り、雲の彼方へ一筋の光となり、そして消えていった。


 知らぬ場所に、タケルは只一人残された。

 ここは、タケルの育った村より高い処にあるのだろうか。雪の云っていた、龍神の棲む処なのだろうか。何か、その実感は薄かった。直感では異なる世界だと悟っていても、そこに広がる景色はタケルの居た村と然程変わりがない。

 

 この山の先にある神殿。

 タケルは、銀の龍に教えられた方角に眼を向けた。何処迄も続く、山の緑。神殿らしき形など、全く見えない。けれど今のタケルに、迷うなどという選択肢はなかった。

 草の生い茂る山道を、タケルは真っ直ぐに歩き始めた。



 陽はだいぶ高く昇っていた。

 天に近いであろうこの世界でも、陽の大きさはタケルの居た村と変わらなかった。背の高い樹々が陽射しを遮ってくれるおかげで、タケルは比較的快適に山道を進む事ができた。

 けれど、喉の渇きと空腹は時の経過とともに容赦なくタケルを襲った。だが当然、食料どころか飲み水すら持っていない。

 村を送り出された後のタケルに、このような旅路が待っているとは婆様も想像していなかったのだろう。知っていたなら握り飯のひとつやふたつ、持たせてくれたに違いない。

 ずっと歩き通しで、足の裏が異物を踏んだように痛む。


 タケルは見上げた。

 伸びた枝と葉の向こう、遥か先には真っ青な空が広がっている。タケルの居た村から見る空と同じ色。これだけ高い処に来たのに、いくら背伸びしても空には手すら届かない。

 同じ村の爺様は、空は天上人の鏡で、海の色が映し出されているのだと云っていた。ならば何故、陽が沈むと空は真っ赤に染まるのか。

 そう尋ねたタケルに爺様は、その鏡にも夕陽が映っているからだと答えた。


 真上を向いていたせいで、首が疲れてきた。

 顔を前に向けると、木漏れ日の山道が見えた。額に、たっぷりと汗をかいている事に気づく。

 タケルは汗を拭おうと、片腕を上げた。


 バチッ!

 瞬間、腕に痛みが走った。何かが、腕に当たって弾けた。

 タケルは、腕に当たった何かが転がった方に視線を向けた。草の上に落ちたそれは、小石だった。

 何処から。

 周囲を見回したタケルは、向かいの樹に影が動くのを眼にした。

 

 獣、……人?

 素早い動きだった。一瞬、眩しく光が反射した。


 ザザッ

 樹の上からタケルの前に降り立ったのは、人の姿をした童だった。年の頃も背丈も、タケルと寸分も変わらぬ少年。けれどここに棲む者である以上、只の人とは違う存在なのだろう。

 現に少年のその相貌は、只の人では到底敵わぬ程に端正なものだった。

 漆黒の長い髪は濡れたような艶を湛え、その肌は陽に焼ける事を知らぬかのように白い。かたちの良い大きな双眸そうぼうは、美しい紅に澄んでいる。

 少年の鋭く見開かれた眼は、まるで龍のそれを思わせた。

 人形のような鼻梁。きりりと結ばれた口元。まるで、気高い獣のように。


 タケルは思わず、その姿に見惚れた。女人ですら、これ程端麗な者は居ないだろう。

 少年は、タケルから視線を逸らさなかった。その堂々とした態度に、タケルの方が気圧されるようだった。

 鋭い眼が、くるくるとタケルを見回す。


「お前は旅の者か」

 

 少年が訊いた。凛としたこえ。そして、ずいぶんと威圧的な物云い。


「そうだ」

 少々気圧され気味なのを悟られまいと、タケルは毅然を努めた。


「それにしては荷物のひとつも持っていないではないか」

 少年に云われ、タケルは言葉を詰まらした。確かに何も持たずに旅をする者はない。


「怪しい奴めっ!」

 少年はいきなり、腰の鞘から剣を抜き出した。


「うわっ」 

 

 その剣の輝きに、タケルは腰を抜かしそうになった。人を斬る為の刃など、タケルは眼にした事もなかった。それが今、すぐ眼の前に構えているのだ。

 正面に突き出された剣に、陽の光が反射した。


「まっ……待って!」

 

 有無を云わせぬ少年を、タケルは必死で制す。


「僕は、銀の龍に云われて、神殿に向かう途中なんだ」

「神殿だと⁉」

 

 少年の眼が鋭さを増し、タケルを睨みつける。


「低俗の者の分際で神殿へ向かうなど、許さん!」

 

 少年はためらう事なくタケルに剣を振りかざした。タケルの言葉は、何故か少年の逆鱗に触れてしまったようだった。


「うわっ!」

 

 タケルは、驚いて後ろへ飛び退いた。すれすれに交わしたものの、少年はなおも剣を振りかざす。タケルは慌てて茂みの中へ逃げ込んだ。

 と、その瞬間。

 足元が、不安定に沈み込んだ。何が起きたのか判らぬうちに、タケルの体は滑るように落下していた。茂みが目隠しになっていたその先は、山の斜面だった。柔らかくなっていた斜面の土が、急にのしかかった重みで崩れたのだ。


 タケルの体は真っ逆さまに、急な斜面を転げ落ちた。眼球の中で、風景が凄まじい速さで回転していく。上下左右など判らない。

 転げ落ちながら、タケルの意識ははっきりとしていた。僅かな障害物に当たりながらも、転がる勢いは衰えない。

 タケルはふと、昔山で弁当の握り飯を落としてしまった時の事を思い出した。あの時落とした握り飯も、今の自分のようにコロコロと斜面を転げていった。

 あの握り飯も、きっとこんな気分だったのだろう。

 タケルはぼんやりと思った。


 意識が薄れそうになった瞬間、タケルは何か柔らかいものに全身が受け止められるのを感じた。

 

 一瞬の無音。沈む意識を呼び起こす、喧騒。

 幾数もの人のざわめき。


 徐々に甦る感覚に、タケルは目蓋を開いた。

 周りを取り囲む、たくさんの影。逆光を浴び、それらが眩しく浮かび上がった。 


                    

  

 

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