第十話 姫巫女

 あれから数日が過ぎ、タケルは再び皇子牙星みこきばぼしの元へ呼ばれた。

 神殿の最上階にある牙星の部屋を出て、二人は庭園に居た。

 前に呼び出された時のやんちゃ振りが嘘であったかのように、牙星は大人しかった。いきなり走り出す事もせず、タケルの少し前を歩いていた。速足ではあるが、追い付けぬ程ではない。

 

 突然、牙星は歩みを止めると、そのまま草の上に仰向けに寝転んだ。


「タケル、お前も横になれ」


 戸惑い立ち尽くすタケルに、牙星は云った。云われるままに、タケルも牙星の隣に横たわった。覆い被さるように広がる空には、薄く絹層雲がかかっている。

 

「儂はあの後、タケルが云った事を母上に尋ねてみた」


 牙星が、唐突に切り出した。

 タケルが云った事。牙星と命を共にする、龍神の存在の事だろう。


「……それで?」


 牙星の方へ顔を向け、タケルが訊いた。


「そうしたら母上は、酷く悲しそうな顔をしたまま、何も答えなかった。だから儂も、それ以上何も訊かなかった」


 視線を空に向けたまま、牙星が云った。しおらしい横顔は、まるで牙星らしくない。いつもの手におえぬ程の勝ち気さは、全く伺えなかった。

 そして、牙星はそれっきり黙り込んだ。

 タケルはかける言葉すら見つからず、只牙星が口を開くのを待っていた。

 牙星の紅の大きな眼は、空を眺めたまま動かない。時折雲の流れを追うように、僅かに揺れるだけ。

 タケルは何故か、牙星のそんな表情を何処かで見たような気がした。

 初めて出会った時から、激しい気性を隠す事もせず、笑ったり怒ったり不機嫌になったり。牙星の浮かない顔など、いつ見たのだろう。

 タケルは記憶を辿ってみたが、曖昧過ぎて思い出す事ができなかった。


「牙星様……」


 呼び掛けたタケルに、牙星の鋭い視線が向く。


「ああ鬱陶しい、その呼び方はやめろ! まるで大臣や官女に小言を聞かされているみたいだ!」


 苛つきをあらわに牙星が文句を云う。


「けど、牙星様がこう呼べって云ったんじゃないか」

 

 軽く抗議するタケルに、少し怒ったように牙星が睨む。


「もういい! よし、お前だけ特別に、儂を牙星と呼ぶ事を許してやろう」

 

 タケルはきょとんとして、隣に寝転ぶ牙星を見た。


「本当に? 突然怒ったりしない?」

「儂がいつ怒ったりした」

  

 まともにやっていては、この皇子の相手は務まらない。タケルはようやく牙星の性質を理解してきたような気がした。


「あーあ」


 空に腕を目一杯に伸ばして一声叫ぶと、牙星は勢い良く起き上がった。


「タケル、今日はもう帰れ」

「えっ」


 驚いて起き上がったタケルの前に、牙星が仁王立ちになる。


「巫殿に帰れ、儂が入口まで送り届けてやる」


 いきなりわけも判らず、タケルが眼を丸くする。


「どうしたの」

「帰れと云ったら帰るんだ!」


 どうやら牙星の気紛れが起きてしまったらしい。こうなってしまったら、たぶん何を云っても無駄だ。タケルはため息をついた。そして、仕方なしに立ち上がる。

 陽が出ているうちに巫殿に帰るのは、気が進まなかった。が、牙星は強引に帰れと云ってきかない。しかもしつこくタケルの後をついてくるのだから、帰ったふりをして外に居るわけにもいかなかった。

 牙星はご丁寧に巫殿の入口までタケルに付き添い、帰っていくのを見届けている。

 これは、もう諦めるしかない。


「……じゃあ、また」


 タケルは振り向き、不満を含ませたこえで牙星に云った。牙星は返答もせず、黙ってタケルを見ている。タケルはもう一度牙星を一瞥すると、気づかれぬように小さく息をき、巫殿へ続く階段を降り始めた。


              ◆


 タケルの姿が完全に見えなくなったのを確めると、牙星は素早く巫殿の入口へ身を投じた。そしてそのまま、音を立てぬように階段を駆け降りる。

 巫殿の奥深くに棲む龍。その龍は、牙星の父である皇帝と命を共にしているのだとタケルは云った。

 その龍の姿を、自分のこのまなこでしかと見てみたい。牙星は突然、そんな欲求にかられたのだ。

 この神殿内に、巫殿への入口は二つある。一つは神殿の内部。もう一つは庭園の何処か。神殿の中にある入口から入ろうとしたならば、必ず誰かに見つかり咎められる。庭園の入口からならば、まず誰かに見られる事はない。だが、牙星は庭園からの入口の場所を知らなかった。


 タケルならば、その入口を知っている。その場所に案内させる為に、牙星はタケルを無理矢理帰らせたのだ。まずは思惑通りだ。

 この階段は、何処まで続くのか。思ったよりも深い。だいぶ降りてきた筈だが、まだ薄暗い階段は続いている。


 この巫殿の奥深くに、龍は居る。皇帝と命を共にするという龍。

 そしてもう一つ、牙星の心にずっと引っ掛かっている事。

 牙星自身と、命を共にする龍の存在。タケルが洩らした、奇妙な話。母に尋ねてみたが、口を閉ざしたまま何も語ってはくれなかった。ずっと靄が晴れぬまま、牙星はこの数日を過ごした。

 気持ち悪くてたまらない。牙星は我慢という事ができぬ性分である。こうなれば、する事は只一つ。

 己自身で確めるのみ。巫殿の中を探れば、何かしら判るかもしれない。


 ようやく終わった階段の先には、これまた何処まで続くとも知れぬ薄暗い通路が伸びていた。只々単調に続く通路。気の短い牙星は、いつ終わるとも知れない通路に次第に苛立ちを覚え始めた。慎重に進むべきなのだが、無意識に速足になっていく。


 そして、ようやく少し明るい通路へ出た。先程までの壁が迫るように細い通路よりは、だいぶ広い。人の姿も気配も全くない。こんな場所に、本当に巫女たちが暮らしているのか。

 こんな窮屈な処に暮らすなど、牙星ならまっぴら御免だ。タケルはよくこんな処に暮らして居られるものだと、牙星は思った。

 通路の角を曲がった牙星は、前方に人の姿を見つけて歩みを止めた。

 タケルの後ろ姿だった。足の速い牙星は、タケルに追い付いてしまったようだ。

 牙星は見つからぬように、壁に身を張り付けた。タケルが行ってしまうまで、こうして待つしかない。悠長に進むタケルのせいで、牙星は限界までの我慢を強いられた。

 タケルが完全に姿を消したのを確めると、牙星は再び歩を進めた。真っ直ぐに進んでいた牙星の前に、二方向の分かれ道が現れた。牙星は迷う事なく、自分の行きたいと思った方向へ曲がった。


 そうして進んでいた牙星は、前方に見えてきた大きな扉に眼を見張った。扉というよりは、門のような重厚な構え。これ程立派な扉なのだから、中にあるものもきっと大層なものに違いない。もしかしたら、この中が龍の棲処すみかかもしれない。

 牙星は、門のように重厚な扉に手を当てた。そして、力を入れて押してみる。重そうに見えた扉は、意外と簡単に動いた。雷鳴のような音を上げて、ゆっくりと扉が開かれていく。


 開いた扉の隙間から、光が漏れる。赤い、炎が照らす光。

 駄々広い部屋。牙星が中を覗き込む。

 龍、らしき形はない。天井は、闇に閉ざされ見えない。目線を下に向ける。床に落ちた長い影が、炎に照らされ揺れながら伸びている。

 牙星が床に映る影を辿る。その先には、小さな後ろ姿。人、背丈からして童女のようだ。

 牙星は、部屋の中へと足を踏み入れた。気配を殺す事も忘れて、童女に近づく。


 背後に近づく気配に気づいたのか、童女……姫巫女ひめみこは静かに振り向いた。

 そして、そこに佇む少年を見た。

 ここは、男子禁制の巫殿。龍の御子みこであるタケルを除いて、男子が踏み入る事の許されぬ処。その場所に突然現れた少年を、姫巫女は黙したまま見詰めた。

 少年も、黙って姫巫女を見ている。真っ直ぐに、揺らぐ事のない眼差しで。

 二人は暫し、黙したまま視線だけを交わしていた。


「お前は、何者だ」


 牙星が尋ねた。突然の侵入者に、本来ならば姫巫女の方が尋ねるべきなのだろう。が、牙星にそんな理屈は通用しない。


「お前は、その額の眼で何が見えるのだ?」


 最初の質問に姫巫女が答える前に、牙星が再び尋ねた。姫巫女は、思わず言葉を呑み込んだ。黙したまま、牙星を見詰める。


「二つの眼しか持たぬ者よりも、たくさんのものが見えるのか?」


 紅の眼を寸分も逸らす事なく姫巫女を見詰めながら、牙星は言葉を続けた。


「きっとお前は一つの星を見たとしても、その眼には儂が見るよりも遥かに美しい星が見えるのだろうな」


 そう云うと、牙星は無邪気な笑顔を見せた。

 答えるべき言葉も見つからず、姫巫女は只黙って正面の侵入者を見詰めていた。


 姫巫女は、額に第三の眼を授かりこの世に生を受けた。額に第三の眼を授かり生まれた女児は、巫殿に棲む龍神の姫巫女として仕える定めだった。

 五歳まで生まれた村で育った姫巫女は、与えられた名を捨て巫殿に迎え入れられた。

 生まれ育った村での記憶は、朧気ながら残っている。大人たちは皆、姫巫女を神のように敬い貴く扱った。一本の境界線の、向こう側に居るように。

 この額に授かった眼が、人々を遠ざけていた。

 大切に育てられた。けれど、人としては扱われなかった。

 異形の者。人とは、違う者。

 姫巫女が見詰めれば、大人たちは無意識に眼を逸らす。決して、真っ直ぐには見てくれない。

 見てはならない、腫れ物のように。

 けれど、眼の前の少年は違った。姫巫女の前で、素のままの笑みを見せている。

 こんな風に笑う人の顔を、姫巫女は生まれて初めて眼にしていた。


「お前の名は何と云う」

「……姫巫女と申します」


 牙星が、むっとした顔をする。


「儂はそんな事を尋ねたのではない! お前の名を尋ねたのだ!」


 姫巫女は、はっとしたように眼の前の少年を見詰めた。僅かに、戸惑いながら。

 名前……。

 朧気に深い記憶の底。姫巫女と呼ばれる、ずっと前。

 顔すら覚えていない、遠い父と母に呼ばれていた、名前……。疾うに捨てた筈の、名前。


「……はい、私の名は、双葉ふたばと申します」


 その名を聲にした瞬間、頭の芯が急に熱くなるのを感じた。そして、思わず眼を伏せる。これ以上、少年の顔を見ていられなかった。

 

「双葉か! 儂の牙星という名には叶わぬが、良い名前だ!」 


 牙星が嬉しそうな聲で云った。

 姫巫女……双葉は、その聲を俯いたまま聞いていた。そして、涙を堪えるのはこんなに辛いものなのだと、初めて知った。

 

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