第五話 龍神の岩場
隙間なく埋め尽くす闇の中で、
けれど真の闇の空間で、たった一本の松明だけでは全てを照らし出しす事はできない。タケルの膝から下は闇に呑まれるように包まれ、足元すら確かめる事ができなかった。
慎重に歩みを進めるタケルとは対照的に、姫巫女はまるで流れるように先へ進んでいく。ごつごつとして不安定な地面を、姫巫女に遅れをとらぬようタケルは必死で後に続いていく。
何処までも続く暗闇の空間。
見ることができないので定かではないが、おそらく岩場のような場所なのだろう。
一筋の光さえ射し込まぬこの空間に、地響きに似た振動だけが何処からともなく聞こえる。
「もうすぐ、この闇は終わります」
姫巫女の
真の闇へのタケルの動揺も、姫巫女には全てお見通しなのかも知れない。タケルは何だかばつの悪い心地だった。
姫巫女の言葉通り、すぐに闇の空間は途切れた。
静かに、姫巫女が歩みを止める。
真っ赤な明かりが照らすそこは、ごつごつとした巨大な岩ばかりの場所だった。その岩の間から、
この熱さは、何なのだろう。
吹き上げる熱気に、タケルの皮膚からじわりと汗が滲んでくる。
「あれが、龍神様のお姿」
姫巫女の聲に、タケルは見上げた。
岩の奥に浮かび上がる、恐ろしく巨大な影。
紅の明かりに晒されたその姿に、タケルは戦慄を覚えた。
「これが、僕に血を分けてくれた、龍神なの……?」
山程に巨大な体は黒く滑る鱗に包まれ、稲光のような輝きを放っていた。その眼球は爛々とした光を帯び、タケルと姫巫女を見下ろしている。
あまりの大きさに身がすくんでしまい、タケルはそれ以上進む事ができなかった。タケルと姫巫女の体など、龍神の爪の先程だ。
「いいえ、タケル様に血を分けられたのは聖龍神様。あれは、時の皇帝と命を共にする、黒龍神様です」
姫巫女は眼差しを岩場に向けたまま、そう答えた。
「命を、共にする……?」
「王族の者が生まれる瞬間、必ず一体の龍神様が天より生まれ落ちます。互いに命を分かち合った両者は、同時に運命を共にする事になるのです」
姫巫女は、まるで物語を語るようにそう云った。
タケルは見上げた。
この龍神が、あの皇帝と同じ瞬間に天から外界に生まれ落ちたというのか。
黒い岩山のような龍神の姿と、厳めし皇帝の姿が重なった。
「そして皇帝が命を失った時、龍神様は天へと還っていくのです」
姫巫女の額の眼が、天を仰ぐように龍神を見上げた。
熱風に煽られながら、タケルの腕には鳥肌が立っていた。生き物としての本能が、眼前の龍神を恐れている。
黒龍神の眼は、まるで
「ここから先は、姫巫女のみ許された領域です。タケル様は、ここで待っていて下さい」
姫巫女はタケルを岩陰に残すと、ゆっくりと先を歩み出した。
黄昏のような紅に染まりながら、姫巫女の姿が龍神へと近づいていく。その形は、すでに龍神の鱗の色の中に溶け込んでいた。両者の大きさは、比にすらならない。
固唾を呑み込み、タケルはじっと見守った。
龍神の見下ろす真下まで来ると、姫巫女は歩みを止め静止した。
龍神の影に呑み込まれたまま、立ち尽くす姫巫女。
漆黒に滑る龍神の眼は、姫巫女の姿をしかと捉えて放さなかった。
対峙する、黒龍神と姫巫女。
その光景に、見守るタケルの方が戦慄を覚えてならなかった。
姫巫女は祈りの言の葉を唱えた。澄んだ聲が、波紋のように空気を穏やかに揺るがす。
閉じられた両の眼とは対照的に、額の眼ははっきりと見開かれ、真っ直ぐに龍神の姿を映している。
向かい合ったままの龍神と姫巫女。寸分の動きすら伺えない。
その様子を見詰めていたタケルは、昨日の祭りの夜に、造り物の龍の頭と向かい合った時の記憶を思い出していた。
けれど今、姫巫女の眼の前に居るのは造り物の龍などではない。爪も牙も持った、生身の龍。
龍神と崇められしモノ。
その時タケルは、岩場に響く微かな音に気付いた。風に乗るように、何処からか流れてくる甲高い音色。
笛の音。
この岩場の何処かで、誰かが吹いているのか。
ここは本来、姫巫女以外立ち入る事の許されぬ場所の筈。
一体、何処から。
タケルは視線をさまよわせてみたが、人影らしいものは見当たらなかった。
遠く天の彼方から響いてくるような、静かな旋律。優しく穏やかなその音色は、まるで子をあやす母の子守唄のようだった。心の柔らかな場所を撫でる、母の温もり。
タケルは、いつの間にかその笛の音に聞き入っていた。そっと眼を閉じる。
別れの時に聞いた婆様の子守唄のように、せつなくいとおしい。
婆様も、帰る家も、タケルにはもう何処にもない。たった一夜にして、何もかも遠い場所へいってしまった。いくら欲しても、もう手の届かない場所へ。
タケルは失ってしまったものを取り戻そうとするかのように、心の内に手繰り寄せていた。婆様と過ごした物心ついた時からの記憶、そのひとつひとつをなぞっていく。決して薄れてしまわぬように、幾度も幾度も思い描く。頭を撫でてくれた、婆様の手の温もり。皺に埋もれた、優しい笑顔。
グゥゥォォォンン
唸るような雄叫びに、タケルははっとして目蓋を開いた。と同時に、岩場に揺らぐ巨大な黒い影が見えた。
伸び上がった龍神の影が、姫巫女の小さな体を真っ黒に覆い尽くしている。
タケルは、何が起こったのか判らなかった。
先程まで鋭く見開かれていた龍神の眼は、穏やかな光を湛えていた。厚い目蓋が落とされたその
龍神は再び低い聲を響かせると、巨体を折り重ねるようにとぐろを巻きながら、震動を轟かせ地の底へと沈んでいった。
タケルは茫然と立ち尽くしたまま、その様子を見詰めていた。
まだ僅かに、足元が揺れている。ごうごうと、風が唸るような音。
こちらへ向き直った姫巫女が、ゆっくりと戻って来るのが見えた。
その顔は、幾分疲れているようにも思えた。やはり祈りを捧げるというのは、体力を消耗する事なのだろう。
「どうして龍神は、突然帰っていったの?」
「笛の音です」
姫巫女が答えた。
「あの笛の音が聞こえてくると、龍神様はすぐに眠りに就かれるのです」
静寂を取り戻した岩場に、姫巫女の聲と微かに聞こえ続ける笛の音が重なる。
「あの笛は、誰が吹いてるの」
姫巫女は、タケルの問いに答える代わりに首を横に振った。
「いつからか、何処からともなく聞こえてくるようになったのです」
誰が何処から奏でているかも判らぬ、笛の音。
龍神もタケルと同じように、あの旋律を心地好いと受け取ったのだろうか。そうであるのならば、姿は恐ろしく神と崇められる龍神も、人間と同じ感情を持っているのかもしれない。
龍神の沈んでいった岩影を見詰めながら、タケルは思った。
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