ミコ―龍の子の祭り―

遠堂瑠璃

第一話 タケル

 里の方から、遠く笛の音が聞こえる。まどろみの中に居たタケルは、夢現ゆめうつつ目蓋まぶたを開いた。仰向けに寝転んだタケルの眼に、澄んだ空が飛び込んでくる。眠りの余韻を追って、今一度ぼんやりと目蓋を閉じる。じわりと痺れていた意識が、徐々に現へと引き戻されていく。少しひんやりとした草の感触が、目覚めた皮膚から伝わってくる。 



 今は、何刻なんどきだろうか……



 タケルはまだ少し朧気な意識の中、ゆっくりと上体を起こした。なだらかに滑る小高い丘の斜面。西に傾き始めた低い陽射しを映して、まるで金色こんじきの海原のようにキラキラと波打ちさざめいていた。夕刻の緩い春風が、遠く旋律を運んでくる。賑やかなお囃子と太鼓の


 タケルのむ里では、もうじき訪れる祭りに備えて笛太鼓の稽古をしているのだろう。タケルは立ち上がった。そろそろ帰らないと、夕飯時に間に合わない。それにあまり遅くなると、婆様が心配する。村で一番の長老である婆様に、無用な心労を与えたくはない。


「もうすぐ十三になるんだ。いい加減大人にならないと」


 タケルが生まれたのは、祭りと同じ日だった。祭りが来れば、タケルもまたひとつ歳を取る。

 タケルは立ち上がると、駆け足で丘を下った。

 笛と太鼓の音色は時折草樹のざわめきに掻き消されながら、風に溶けるように響いていた。それはまるで天の向こう側から聞こえてくる音色のような錯覚を覚えさせる。夢現の出来事のように。


 毎年訪れるこの季節を、タケルは密かに待ちわびていた。祭りの夜よりも、頻繁にお囃子太鼓の稽古が行われるこの時期が、タケルは好きだった。この遠く響く淡い音色が、何とも心地良いのだ。タケルは、浮かれるように歩を進めた。


 夕刻の穏やかな光が、タケルの頬を染めた。風にそよいだ髪が赤い陽射しを受けて、たてがみのように揺れる。両のまなこは、黄昏の中で淡い光を帯びて琥珀色に煌めいていた。



 タケルが家に辿り着く頃には、陽は沈み薄い夕闇が広がっていた。

 老婆と二人だけで暮らす、竹林に囲まれた小さな茅葺きの家。二人が座す居間には、囲炉裏の炎だけが煌々と灯っていた。いつも通りの、質素な夕飯。山に近いこの村では、ほぼ山菜が主流である。


「あれ」


 鍋の中から箸で拾い上げた見慣れぬ塊に、タケルが眼を丸くした。それはどうやら、魚の肉のようだった。


「珍しいね、魚だなんて」


 この辺りの民家の食事に、魚が出される事は滅多にない。


「もうすぐ、祭りだからね」


 タケルは思いもしなかった御馳走を、ゆっくり味わいながら咀嚼した。毎年祭りが近くなると、タケルの家には遠くの村からもたくさんの食物が贈られてくる。タケルの家は、老婆と童の二人暮らしでありながら、食うに困った事はない。どんなに不作の年でも、毎年米には不自由しなかった。

 きっと婆様が、村一番の長老だからだろう。タケルは、そう思っていた。


「明日、町から仕立屋が来るから、遊びに行っては駄目だよ」

「仕立屋が、どうして?」 


 タケルが尋ねる。


「祭りの日の為に、新しい着物をこさえてもらうんだよ」

「大袈裟だな、いいよ、祭りくらいで」


 タケルが鍋を突っつきながら笑った。


「今度の祭りは、特別なんだよ」


 婆様の言葉に、タケルは首を傾げた。


「お前は、次の祭りで十三になるね」


 タケルが首肯うなづく。


「だから、身綺麗な仕度をするんだよ」


 婆様は、おかしな事を云う。


「十三になるから綺麗な着物を着るの? だったら、去年までだって歳を取ってたんだから同じじゃないか」


 婆様は、澄ました顔で何も応えない。タケルは、どうにも腑に落ちなかった。



 次の日の昼時近くに、仕立屋はやって来た。丹念に寸法を測る仕立屋に、タケルはぎこちない仕草で合わせた。一通り丈を測り終えると、仕立屋は婆様と一言二言何かを話した後、丁寧にこうべを垂れて帰っていった。


 慣れない事をしたせいか、体がすっかり鈍ってしまった。仕立屋の姿が見えなくなると、タケルはすぐに外へ飛び出した。


 桜の季節も過ぎた村の樹々は、眩しい程の濃い新緑に染まっている。ふと眼を移すと、タケルの家の向かいの樹の陰には、村の童が三人集まっていた。町から訪れた仕立屋を、物珍しさで見物に来たのだろう。三人とも、タケルの遊び仲間だった。

 緊張がほぐれたタケルは、嬉しそうに駆け寄った。


「今日は何して遊ぶの」


 春も半ばに差し掛かり、野遊びも気持ちの良い季節だ。けれど仲間たちは、心無し妙にかしこまっていた。


「山に行く? それとも、木登り競争?」


 いつものように、タケルが尋ねた。だが、何故か仲間たちの反応は奇妙だった。



「いや、やめとこう。もうすぐ、祭りだもんな」


 いつもは荒っぽく、一番やんちゃな筈の弥助がそう答えた。タケルは腑に落ちないまま、表情を曇らせた。仲間たちまでもが、婆様のような事を云うのか。ここまでくると、タケルは何だか気味が悪かった。


「どうして、皆そんなに祭りにこだわるのさ」


 仲間たちは一様に顔を見合い、答えようとしない。やはり、何か変だ。タケルの知らない処で、何か違う事が行われようとしている。



「祭りの準備は、順調にいってるのかな」


 タケルはわざと、会話をそちらの方へ向けた。


「ああ、俺今度、祭りの太鼓を叩くんだぜ」


 弥助がいつもの調子を取り戻し、得意げに語る。


「おいらは父ちゃんと一緒に、飾り付けをやったんだ」


 ちびの太一が、笑顔で云った。


「俺もだよ! 一番大事な、龍の飾りを作ったんだ」


 自慢するように、喜作が云う。



「龍の飾り?」


 喜作が、はっとしたように慌てて口を塞いだ。他の三人も、咄嗟に咎めるような視線を喜作に向ける。



「今回は、随分豪勢なんだね」

「まあな」


 タケルの言葉に、三人は誤魔化すようにわざとらしい笑みを見せた。



「じゃ、俺たち、祭りの仕度があるから」

「それなら、僕も手伝うよ」

「いいよ、人手は足りてるから」



 三人が、ゆっくりとタケルの方を向いたまま後退る。


「じゃあな!」


 そう云うと、仲間たちは一気に駆け出した。



「あっ、待ってよ」


 タケルが制するも、三人の姿は小さくなり、あっという間に消えていった。


 後に残されたタケルは、あからさまに除け者にされたようで何だが気分が悪かった。仲間たちが、タケルに何かを悟られまいとしている事は明らかだった。そして婆様も、これから何が行われようとしているか知っている。今すぐ家に戻って、婆様を問いただしてみようか。けれどきっと、婆様は黙したまま何も答えてくれないだろう。タケルは一人、立ち尽くしたまま考えあぐねていた。

 その時。


「タケル君」


 聞き覚えのある、か細いこえに振り向く。


「雪ちゃん」


 それは、タケルと同じ村に棲む少女だった。色白の愛らしい顔立ちの雪は、村の少年たちの密かな憧れの存在だった。

 小さな頃は一緒に連れだって良く遊んでいたが、成長するにつれ次第にそれもなくなり、今ではたまに顔を合わせた時にほんの少し言葉を交わす程度になっていた。時の流れと共に娘らしくなっていく雪を、タケルは僅かながら意識し始めていた為かもしれない。

 そんな雪が今聲をかけてくれたおかげで、タケルの心はほんの少しだけ解きほぐされた。


「何か変なんだ、皆してさ」


 タケルの言葉に、雪は小さく微笑んだ。その笑みを眼にして、タケルは何となくそれ以上の言葉を呑み込んでいた。


「私ね、今度の祭りでお囃子を吹くの」


 雪の口から洩れた祭りという言葉に、ほぐれたばかりのタケルの心は一瞬冷たく固まった。微笑み返したタケルだったが、今は内心祭りの事に触れてほしくなかった。



「ねえ、山に行かない?」

「えっ」


 唐突な雪の言葉に、タケルは思わず訊き返す。


「山探検」


 雪に誘われ、タケルは素直に首肯いていた。




 樹々に囲まれた僅かな隙間から、陽射しが零れる。二人は歩きにくい山道を、ゆっくりと登っていた。他に人の姿はなく、閉ざされた空間。


 二人の間に、会話はなかった。無言でいる事は、何となく気まずかった。けれど、何を話せば良いのか判らない。タケルは元々、口数の多い方ではなかった。同じ年頃の少女に一体どんな事を話しかけるべきなのか、タケルは頭の中でぐるぐると落ち着かぬまま考えていた。踏みしめた山道に、時折小枝の折れる音だけが響いた。


 二人共何も言葉を洩らさぬまま、只ひたすら先へ先へと進んで行く。そして細い獣道を抜けた二人の視界に現れたのは、山頂から見渡せる一面の小さな村々だった。タケルたちの棲む村も、遥か真下に見えていた。


 二人の汗ばんだ体に、清々しい風が吹き付けた。


「山って、こんなに高かったのね」


 雪が呟く。


「この辺りじゃ、この山が一番高いんだ」


 タケルの聲が、そよ風に流れる。




「けど、ここよりずっと、高い処もある」


 風に吹かれ、雪の長い髪がタケルの頬をこそばゆく撫でた。



「それは、何処?」


「龍の里」

「龍の、里……」


 タケルが尋ねるように囁いた。


「龍神様や、龍の一族が棲んでいる処」


 タケルは、そんな話など聞いた事もなかった。



「そんなに、高い場所があるの?」

「ずっと遠く、あの雲の向こう」



 タケルは、頭上の空を見上げた。あの雲の彼方に、龍と人が棲む里がある。そんな事、タケルにはとても信じられなかった。



「ずっと、こうして居られたら……」

「えっ」


 振り向いたタケルの眼に、雪の横顔が映る。長い髪が時折風に揺られ、その隙間から雪の滑らかに白い頬が覗いた。



「ずっと、タケル君と居られたら……」


「ずっと、居られるよ」


 タケルは、当たり前のようにそう言葉を返した。

 振り向く雪。その瞳は、涙に揺れていた。タケルは、どきりとして息を呑んだ。



「あなたは、何も知らないから」


 タケルには、雪のその言葉の意味が判らなかった。そして、突然涙を零した、そのわけも。


 幼い頃、雪は良く泣いていた。虫を見ただけで泣く事すらあった。けれど、それは幼い頃の話。涙を見せる少女の前で、タケルはなすすべもなく立ち尽くしていた。


 どうして良いか判らず、只黙って雪の横顔を見詰めた。



「ねえタケル君、小さな頃、私をお嫁さんにしてくれるって云ったよね」


 それは、幼い頃の口約束。 

 こんな些細な事を今でも雪が覚えていてくれた事に、タケルは少し動揺していた。



「私、本当に、タケル君のお嫁さんになりたかった」


 雪は独り言のようにそう云うと、小さく俯いた。雪の透き通る頬が、桃色に染まっていく。

 黙ったまま雪の顔を見詰めていたタケルは、はっと気付いて眼を伏せた。雪の言葉の意味を、思わず噛みしめる。そうしているうちに、見る見るタケルの頬も赤く染まっていた。

 互いに真っ赤に頬を染めたまま、しばらく黙って俯いていた。


 頭上を、鳥が羽ばたく素早い音と、甲高い鳴き声が通り過ぎていく。そのすぐ後に、また別の鳥たちの羽音と鳴き声が聞こえた。せわしなく鳴き合い、飛び去っていく。ふざけ合っているのか、それとも木の実を取り合っているのか。

 風が度々、二人の髪を揺らし遊んだ。


 タケルはぎこちなく顔を上げた。そして僅かに、雪の顔に視線を移す。

 一度小さく息を呑み込むと、タケルは意を決したように口を開いた。



「後数年して大人になったら、僕の、……お嫁さんになってくれる?」


 雪は、弾かれたように顔を上げた。二人の視線が、重なり合う。

 タケルは、ばつが悪そうに視線を左右にずらした。雪の顔を、まともに見る事ができなかった。タケルは落ち着きなく眼差しをあちらこち彷徨さまよわせていた。


 樹々の枝が揺れているのが見えた。陽射しを受けて反射する、芽吹いたばかりの新緑。


 そして、定まらない視線の端に、静かに首肯く雪の顔が見えた。 


      

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