第十五話 憤り
朱の敷物が張り詰められた神殿の広い廊下を、伴の者に連れられ
父である皇帝に呼び出された牙星は、終始不機嫌だった。四方を屈強の使者に囲まれていては、すばしっこい牙星も逃げる隙はない。
何故呼び出されたかは判っている。父の小言など聞きたくもない。
一行は、鮮やかな装飾のなされた扉の前に辿り着いた。屈強の使者が左右の扉を押し開く。
開かれた広間の中央に、座したままの皇帝と妃の姿が見えた。牙星は仏頂面で、その中央を睨み付ける。
皇帝と妃に深く
「何用ですか、父上」
丁寧な物云いとは裏腹に、視線は憎々しげに皇帝を見据えている。無論、父の用件は判っている。
真正面で対峙する、父と子。その威風堂々とした
皇帝は鋭く牙星を捉えたまま、口を開いた。
「何故巫殿へ忍び込み、姫巫女と会った」
冷静を装った口調だった。だが隣に座した龍貴妃は、先程までの皇帝の剣幕を知っている。まるで、阿修羅のような形相。牙星の不祥事を知らされた皇帝は、狂わんばかりに怒り、手のつけようがなかった。巫殿で起きた一部始終を伝えにやって来た使者を、斬り捨てんばかりの勢いだった。
龍貴妃は黙したまま、二人のやりとりを見守る。
姫巫女という言葉を皇帝の口から聞いた瞬間、牙星の内側に烈火のような憤りが走った。最も嫌う人間に、双葉の事を口にされた事が酷く腹立たしかった。
牙星は怒りを抑え呑み込むと、鋭く皇帝を睨んだ。
「何故、父上がそのような事を尋ねるのです」
「答えよっ‼」
牙星の言葉が終わらぬうちに、皇帝の激しい怒号が轟いた。牙星は動じず、物怖じする事もなく皇帝を見据えている。
空気が張り詰めていた。龍貴妃だけがまるで二人とは別の時に置き去りにされているかのように、おろおろと落ち着かない。
少しの間の後、牙星は口を開いた。
「儂は、双葉が気に入った。王になった暁には、妃に迎えるつもりです」
「……何っ」
皇帝が、双葉という名を姫巫女の事だと気付くのに時間はかからなかった。牙星と同じ紅の
「牙星っ! お前は正気かっ‼」
「無論、寝惚けてなどおりません」
凛とした牙星の
気の短い牙星は、皇帝の言葉に反応せぬよう必死に己を抑えていた。牙星の気性の激しさは、父である皇帝譲りなのだ。むしろ牙星の方が未熟さ故に、感情の起伏は皇帝以上かもしれない。
「愚かな! よりによって姫巫女を妃にするなど、うつけにも程がある!」
「構いませぬ。儂は必ず、双葉を妃にする」
皇帝は牙星の言葉に、呆れたように顔を歪めた。
「何が妃だ、頭の足らん童がっ! せいぜい夢でも見ているが良い」
皇帝の言葉が、牙星の感情に火をつけた。もう抑える事ができなかった。父への憎悪が一気に膨らみ、そして弾けた。
「儂はもう童ではないっ!」
牙星は喰らいつかんばかりに怒鳴った。
「お前の何処が童ではないというのだ。何処をどう見ても、何もできん只(ただ)の童ではないか」
皇帝は嘲るように鼻で笑った。牙星は全ての憎しみを込め、皇帝を凝視した。
「儂は、必ず双葉を妃にするっ! 父上の思い通りになどならんっ!」
龍神から双葉を奪う。そして、この手で守ると決めた。
龍神からも、そしてこの父である皇帝からも。
「……まあ良い」
皇帝は獲物から興味をなくした虎のように、牙星から視線を反らした。
「祭りが終わるまでの辛抱だ。それまでは、姫巫女に会わずに耐えておれ」
牙星は、皇帝が何を云っているのか判らなかった。
祭り……? 何の祭りだ。
「祭りが終わるまでだ。それまで耐えれば、その後は好きなだけ姫巫女に会わせてやろうぞ。妃にでも何でも、自由にするが良い!」
そう云ってうっすらと笑った皇帝の眼には、今まで見た事もない不気味な狂気が宿っていた。
牙星は皇帝の豹変に、思わず言葉を呑んだ。
◆
「お前、いつまでそこに居るつもりだ」
牙星は苛立ちを顕に、目線を上にして睨んだ。
「祭りの日が過ぎるまでは、この扉の前を離れるなとの皇帝のご命令です」
牙星の部屋の扉に張り付くように構えた屈強の兵士が答えた。牙星の二倍はあろうかという兵士が二人、朝も晩も関係なく一日中牙星の行動を窺っているのだ。何処へ行こうと影のように付いてくる。
牙星は不機嫌に、荒々しく扉を閉めた。ふつふつと、父である皇帝への怒りが込み上げてくる。
誰でもいい。溢れんばかりの激情を浴びせつけたかった。
けれど、そんな事をしてもどうにかなるわけでもない。今ここで喚き散らしてみても、見張りが増えるだけだろう。かといって、父の思うがままにに大人しくしているのは癪に触る。
牙星は傍にあった腰掛けを、思い切り蹴飛ばした。音を立てて、木製の腰掛けが壁に弾ける。それでも憤りは治まらない。牙星は纏った薄手の羽織を剥ぐように脱ぐと、荒々しく引き千切った。鮮やかな羽織は、牙星の手の中で只の端切れに変わっていく。牙星は手の中のそれを、感情に任せて投げ散らかした。
この神殿にある何もかも、自分に与えられた全てのものを粉々に打ち壊したかった。皇帝の手中にある全部のものを、残さずこの世から消し去りたい。
この肉体。
自分自身の中に流れている、あの父から受けた血潮さえも憎かった。
「……儂は、父上だけには負けたくない……!」
牙星は自分に云い聞かすように吐き捨てた。
一人の人間として、父子以前の感情として、何としても勝たねばならない。
何を失う事になったとしても、龍神から、あの皇帝の手中から双葉を奪う。
そして。
皇帝の口にしていた、祭りという言葉が気になった。
父が何を企んでいるのか。尋常ではないあの眼。
どちらにしろ、牙星は祭りが終わるまで大人しくしている気など更々ない。
牙星は、大きく開け放たれた窓の外に眼を転じた。陽の落ち始めた空は、淡く黄昏に染まっている。
祭り。
水面下で密かに行われようとしている儀式。皇帝が異常な執着を見せる、秘密の行い。
双葉は多分、その儀式に大きく関わっている。
皇帝は、双葉をどうするつもりなのか。
考えれば考える程、牙星の中に苛立ちが募る。
この情況を脱するには。
牙星は意を徹すると、開け放たれた露台の窓に駆け寄った。手摺に乗り出し、下を覗き込む。見張りの者の姿はない。
地上から遥か離れた最上階の部屋。皇帝も、まさかと油断したのだろう。牙星の身の軽さを、この神殿の者は誰も知らない。この程度の高さなら優に降りれる。
「儂は父上の思い通りになど、絶対にならない!」
牙星はきつく唇を噛み締めると、手摺を飛び越えた。
◆
「皇帝陛下」
龍貴妃に呼び掛けられ、玉座に座したまま皇帝が振り向く。
「あの子をお許しください。あの子は
懇願する妃から、皇帝は関心すらなさそうに眼を逸らした。
「知っておる。あやつの気性は儂譲りだ。あやつは誰の云う事も聞かん。放っておけば、また何か仕出かす」
忌々しげな物云い。この父は、我が子への愛情の欠片すら持ち合わせていないのだろう。
龍貴妃は、酷く悲しかった。母として、妃として。
牙星がこれ以上皇帝に逆らうような事をすれば、本当に何の躊躇いもなく始末しかねない。僅かな慈悲もなく。
けれど。
もし祭りの儀が何の滞りなく終わったとしても、
「……皇帝陛下、お願いです……」
龍貴妃の言葉が終わらぬうちだった。王の間の外が俄にざわめき立った。
◆
「
牙星の部屋の前に居た番人の第一声で、神殿内は騒然となった。
大臣や官女、全ての使用人たちが慌ただしくあちらこちら駆け回る。
「探せ! 探すのだ! あやつは巫殿へ向かった筈だ! 何が何としても捕まえるのだ!」
皇帝の顔は、これまでにない激しい怒りで紅潮していた。眦が裂けんばかりに眼を見開き、血走った眼球は彼方を凝視している。
「……あの童が、小癪な真似をしおって……!」
皇帝の口から吐き出されたそれは、すでに我が子への言葉ではなかった。
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