第12話 挑戦する日々
窓布を少し開けて光を入れ、棚に置かれた服を手に取って着替える。この服はクラウの師匠であり祖母イネスのもの。長期間の放置で痛んだ服が多かったものの、未使用と思われる数枚の服と下着は無事だった。
生成色のブラウスに焦げ茶色のスカート。腰の寸法はぴったり合っても、胸の部分は余っている。イネスはかなり胸が豊かな女性だったのだろう。髪を焦げ茶色のリボンで結ぶと気持ちが引き締まる。
この国の辺境伯の娘は普通の貴族の娘とは役割が違う。他国が攻めてきた時、最期まで戦うことが求められている。
幼い頃から弓を遊び道具とし、他の者の手を煩わせないように最低限の着替えは自分で行うように教えを受けている。その教えが戦い以外で役に立つとは思わなかった。
机の上に置かれた白い箱から、指輪を取り出して眺める。何度見ても正妃の指輪にしか見えない。この国の国王は世継ぎを作る為に数名の王妃を娶ることがある。その中で、たった一人にこの指輪が贈られる。唯一の女性だけを愛することが許されない国王の、真実の愛の証。
内側に彫られているのは私の祖父であり、先代の国王の名前。何故、正妃の指輪がここにあるのか全くわからない。そういえば、祖母の指には別の指輪が輝いていた。クラウやテイライドが言うように、解呪の代償としてイネスに渡されたのだろうか。
指輪を箱に戻した時、クラウが寝返りを打った。そろそろ起こす時間だろうか。
「……ん……」
枕元に立ちクラウの顔を覗き込むと、金色がかった緑の美しい色の瞳がゆっくりと開く。顔にかかった淡い金髪をそっと指で払う。
「おはようございます、クラウ。体液を下さい」
「うわああああああああああああ!」
目を見開き、顔を赤くして叫び声を上げたクラウが、ベッドの反対側に転がり落ちた。
「クラウ?」
私の顔は、そんなに驚かれるような酷いものなのだろうか。クラウがベッドの端から赤い顔を出した。
「た、た、た、体液?」
「そうです。クラウから頂く体液の量で私が人の姿でいられる時間が変わるようです」
昨日から何度も口付けて変化を繰り返すうち、猫へと変化する兆候を感じることができるようになってきた。最初は心臓が乾くような奇妙な感覚。徐々に指先から力が内側へと向かって猫へと変化する。
先程の口付けは不十分だった。そろそろ猫に変化してしまいそう。
目を泳がせるクラウに口付けて、その唇を舐めれば不思議な力が体に満ちることがわかる。ほんの少しずつ渡される力がもどかしくて、私はクラウの首に腕を回して引き寄せる。
「んんっ!?」
驚きの声を上げたクラウが唇を解いた。
「どうして避けるのですか?」
「そ、そ、そうは言ってもね、セラフィ。こ、こんなに深い口づけなんて……」
経験がないからと、クラウは顔を赤らめる。
「でも……人の姿を保つ為に、私には必要なのです」
「そ、そうだよね。うん。……必要だから仕方ないよね」
眉を下げたクラウの顔が近づいてきて、何故か胸が高鳴った。先程までは感じなかった恥ずかしさに目を閉じると、そっと唇が合わさった。
「……こ、こ、これでいいのかな?」
「はい。ありがとうございます」
顔を真っ赤にしたクラウの顔を見ていると、私も恥ずかしくなってきた。人に戻ることができた喜びで覆い隠されていた羞恥心が露わになる。
婚約者でもない男性に口付けられたという事実に、今更ながらにうろたえる。はしたない。そんな言葉をようやく思い出した。
「お礼はいらないよ。セラフィ」
まだ呪いが解けたわけじゃないからと、クラウはとても優しい笑顔を見せた。
◆
クラウによると呪いの進行は完全に止まったらしい。ただ、一年という期限が伸びたのかわからないので、引き続き呪いの解析を行うと説明を受けた。
人の姿を取り戻してから、私は様々な挑戦を始めるようになった。クラウと一緒に畑に水をやり、料理を習い、見よう見まねで初めての掃除をする。屋敷では行う機会もなかった家事が楽しい。初めての経験ばかりで毎日が充実している。
「人の体というのは、本当に素晴らしいものですね」
様々な物を手に取り、細かな作業も出来る。猫になるまでは当たり前だと感じていたこと、すべてが奇跡のように思えて仕方ない。
私が人の姿に戻って数日後、魔物の脂で作ったイネスの石けんが完成した。倉庫から木型を運び出す。
「セラフィ、重いから座ってていいよ」
「クラウやテイライドのようにたくさんは運べませんが、手伝わせて下さい」
白い石けんの塊が詰まった木型は重い。クラウやテイライドは一度に五個や十個と運んでいるのに、私は一つしか運べない。
綺麗に片づけられた一階の部屋で、型から石けんを取り出す作業が始まった。木型を外した大きな石けんの塊を温めた鉄製の糸で切る。
木の板には目盛りが刻まれていて、クラウが迷うことのない手つきで同じ大きさに切っていく。
「素晴らしい技ですね!」
「昔は難しいって思ってたけど、大人になると簡単に出来るから不思議だよね」
少し頬を赤らめたクラウが十五年ぶりだと笑う。
「石けんというものは、こうやって作られるのですね」
切られた石けんを窓にかざすと、白くほんのりと透ける。ほのかに漂う匂いは相変わらず酷くても、柔らかな白さが美しい。
今までは使うばかりで知らなかった。何の疑問もなく消費していた物は、こうして誰かが作っている。大事に使わなければと強く思う。
ジルの店へ納品に行こうと、町への扉を開けたクラウが私に手を差し出した。
「クラウ?」
「……迷子にならないように……って思ったんだけど……僕の手はいらないかな?」
頬を赤くしたクラウが微笑む。手を重ねると胸が高鳴る。繋いだ手が熱くて、舞踏会や夜会でエスコートされた時よりも心が躍る。いつも私を撫でていた優しい手だと嬉しくなる。
手を繋いで町を歩き、雑貨店にたどり着いた。
「はー。物凄い美人さんだねー」
緑の髪のジルが青い目を丸くしている。これまで容姿について称賛の言葉を受けたことは多々あれど、ここまで何の含みもなく褒められたことはないので恥ずかしい。
「……あ、ありがとうございます……」
いつも通りに静かに微笑んでお礼を言うことができない。赤くなってしまう顔がつい下を向いてしまう。
「可愛いねぇ。やっぱイネスの化粧品のお陰かねー」
ジルの言葉で気が付いた。私は猫になってから化粧品を一切使っていない。女性としての身だしなみをすっかり忘れていた。とはいえクラウに化粧品を買ってもらうのは抵抗がある。
「石けんだけでなく、化粧品も作ってくれないかい?」
「うーん。作り方はあるんだけど、化粧品は使わないからよくわからないんだよねー」
ジルの要求に圧されたクラウの言葉に私は飛びついた。
「私が作ります! 作り方を教えて下さい!」
「え? セラフィが作るの?」
「はい!」
ジルの後押しもあり、私がイネスの化粧品を作ることが決まった。
「次は仕立て屋だね」
クラウに案内されたのは小さな仕立て屋だった。代金は家に請求してもらおうと思っていたのに、店が小さすぎて言い出せなかった。仕方なくクラウに立て替えてもらうことにして、服と下着を注文する。
新しい靴を買い、履き替えると足が軽い。二人で笑いながら買い物をすると、楽しくて仕方ない。
通りがかった店の前に、様々な色の果物が沢山積まれていた。
「セラフィ、赤桃があるよ。食べたことある?」
「これは食べたことがありません」
領地でも果物は豊富に採れるので様々な種類を食べているはずなのに、この町で売られている果物は食べたことがない物が多い。
「甘酸っぱくて美味しいんだ。買って帰ろう」
「はい!」
手を繋いで歩いていると、クラウが突然立ち止まって周囲を見回した。
「クラウ? どうしたのですか?」
「……誰かの視線を感じたんだけど……」
周囲を見回してみても、人々が忙しく行き交うだけで、誰も私たちを見ていないように思う。
「……気のせいかな」
それでも念のためと言って、クラウは何度も道を変え、魔法を掛けた。
家に戻ってすぐに化粧品の作り方をクラウに求めた。基本的な材料は、ジルからすでに渡されている。
「これが師匠の帳面だよ。わからないことがあったら聞いてって言いたいけど、化粧品はよくわからないんだ」
手渡された本には、びっしりと化粧品の製法が書かれている。ジルに最速でと要求されているのは化粧水とクリーム。
「化粧水だけで十五種類もあるのですね……」
どれを作ればいいのかと見ていると、ジルの店用と書かれている物があった。イネスは几帳面な女性だったのだろう。あちこちに注釈や解説が書かれていて、これなら迷うことなく作ることができそうで一安心。
「そういえば、イネスの石けんはいつ頃作るのですか?」
果物を買った後、また雑貨店に立ち寄ると石けんは完売していた。買えなかった人も多く、次の入荷はいつなのかと問い合わせが多数あったらしい。
「えーっと。そうだね、明後日魔物狩りに行ってくるよ。セラフィは家で待ってて」
クラウはテイライドと二人だけで行くつもりのようだ。
「私も参加したいと思うのですが、弓はありませんか?」
「弓?」
剣は不得手だ。弓ならば男性にも引けを取らない自信がある。
『おいおい。お嬢ちゃん頑張りすぎだろ』
そう言って笑いながらもテイライドは楽し気だ。
「これまで、私は全く役に立っていませんでした。その分をお返ししたいと思っています」
猫でいる間、もどかしくて仕方なかった。こうして人間に戻ったからには、役に立ちたい。
『ふーん。ちょっと待ってろ』
そう言い残して、テイライドが突然消えた。
「どこに行かれたのでしょうか」
「精霊は気まぐれだから、わからないなぁ。……セラフィ、無理はしなくていいよ」
私の頭を撫でようとして伸ばされたクラウの手が戻って行く。私が猫の時と同じように撫でてしまいそうになるらしい。
以前の私なら男性に頭を撫でられることに嫌悪感があっただろう。猫になるという経験をした今では、クラウとテイライドになら撫でられても平気だと思う。
戻って来たテイライドの手には白い弓。肩には白い矢筒が下げられている。
『廃された神殿に残されていた弓だ。これは神力を持つ者しか使えないが、お嬢ちゃんなら使えるだろう』
「素晴らしい細工ですね。名のある弓ではないでしょうか」
手渡されたのは、しなやかで丈夫な木で作られた弓。これは非常に珍しい折り畳むことができるもので、矢筒には白い羽根の矢が十二本入っている。
『お。わかるか。
月の光で輝く白い虹。美しく繊細な細工が施された白い弓に相応しい名に心が躍る。
「テイライド! そんな危ない武器を女の子に持たせるなんてダメだよ!」
クラウが顔色を悪くして叫ぶ。
「大丈夫です、クラウ。この弦の強さなら、私でも十分に引くことができます」
指先で弾いて強さを確かめる。大丈夫、これなら問題ない。
「いや、そうじゃなくて……その……僕はセラフィに怪我をさせたくないんだ」
眉尻を下げた表情のクラウが心配してくれているのはわかる。
「怪我をしないように努めます」
私も一緒に戦えることをクラウに示したい。
「……わかったよ。でも、無理はしないと約束して欲しい」
「はい!」
私の気持ちが認められたことが嬉しくて、私はクラウの頬に頬を寄せた。
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