第2話 高位の精霊

「うわ!」

 魔術師が床ぎりぎりで私を片手で受け止めた。

『ありがとう』

 お礼の声は、にゃあという猫の声にしかならない。魔術師の手から床へと降りた途端に私は後悔した。


 床は油か何かでべとべとしている。手と足の裏の感触が気持ち悪い。手の平を確認しようとして、無意識に床に腰を下ろす。……おしりとしっぽにべたりとした嫌な感触が広がって、毛がぞわりと逆立つ。手の平は黒い何かでべったりと汚れていた。


「あー。師匠が死んでから十二年くらい掃除してないからなー」

 魔術師が呑気な声を上げ、私は愕然として魔術師を見上げるしかない。

「うっ。そんな目で見ないでくれよ。……わーかりました。わーかりました。洗ってやるから、な? な?」

 まるで小さな子供に語り掛けるように、魔術師が眉尻を下げて言う。


 両脇に手を入れられて、持ち上げられた。

「猫って、伸びるんだなー」

 魔術師に言われなくても、伸びているのがわかる。こう、どこまでも骨と骨の間が伸びていくような、そんな感覚だ。揺らされると、ふにゃふにゃと芯がない。


 呪いに掛かってから全く現実味がない。どこか夢の中にいるようで、一年後に死ぬと言われても『ああ、そう』と、どこか他人ごとのように感じている。

 セブリオ王子が、私と一緒に死ぬとわかっていて、この呪いを掛けたということだけが、心に刺さっている。自分の命を掛けてまで私に復讐したかったというのだろうか。


 ……私は、それほどまでに憎まれているのか。

 噂に耳を塞ぎ、黙って結婚していれば憎まれることもなかったのだろうか。

 でも、それでは私の心が死んでしまう。


 私は心の底から信頼できる相手と結ばれたいと、ずっと願っていた。一年前に二つ年下のセブリオ王子との婚約が決まってから、私は彼の良い所を探し、彼を理解するように努めて、彼の隣に立つ為に自分の足りない部分を必死で学び、補ってきた。

 すべての努力は、あの一瞬で無駄になった。……もう、どうでもいい。



 持ち上げられたまま、階段を上がり、暗い部屋へと入った。ぼんやりとした魔法灯で見える範囲はすべて本が積まれている。この魔術師は研究熱心なのだろう。


 浴室へと連れ込まれて、私は驚きで体が固まった。そこは浴室とは思えない、緑の苔むした場所。人が入れるほどの、灰色の大きな陶器が浴室の端に置かれていて、緑色の得体のしれない水が溜まっている。


 魔術師は私を濡れた床の上に置いた。手と足の裏へのぬるりとした感覚に、ぞわりと毛が逆立つ。私の抗議の眼差しを見ることもなく、魔術師は黒いローブを脱いで、シャツの袖をまくり上げる。


 シャワーからは、かなりぬるめの綺麗なお湯が出て安心した。緑色の水で洗われるのかと内心びくびくしていたけれど、普通に洗ってくれるようだ。


 草花や果実の香りが付けられていない石けんというものは、酷い匂いなのだと初めて知った。それでも我慢するしかない。濡れた石けんを毛皮に擦り付けられて泡立てられる。

 我慢しようと思っても、どうにも我慢ができなかった。にゃ! という抗議の声を上げて、ぺちりと手を叩く。

「ん? えーっと。痛いのか?」

 魔術師に私の言葉は通じない。私は石けんに鼻を近づけて匂いを嗅ぐ仕草をして、鼻を手で押さえる。


「ああ。匂いが嫌なのか。困ったなー。師匠が獣脂で作った石けん、まだまだあるんだよなぁ」

 十二年使ってもまだなくならないし。と魔術師が溜息を吐く。


「今日は我慢してくれないか? 明日、買ってきてもらうから」

 そう言われてしまえば、我慢するしかない。

 苦笑する魔術師に、おしりを手で洗われて、ようやく気が付いた。私は全裸で男に洗われている。羞恥に顔が熱くなっていく。

「んー? どうしたー?」

 魔術師は気にしていないらしい。それはそうだ。今の私は普通の白猫でしかない。体を固くしているうちに、しっぽも綺麗に洗われた。


 優しく洗われるのは気持よくても、とても疲れた。ぐったりと魔術師の腕に寄りかかると、意外と心地いい。身拭いタオルで体を拭かれると、何か変わった匂いがする。私は魔術師の腕に手を掛けて、拭く手を止める。

「……もしかして、タオル洗ってないの、バレてる?」

 私は、魔術師の腕から飛び降りた。


 もう一度しっかり洗われた後、魔術師は壁の紋様に触れて私の体を乾かした。そもそも、タオルで体を拭く必要はない。魔法石を動力源とした入浴後の乾燥装置が、全国民の家には備わっている。魔力が含まれている魔法石は、シャワーや魔法灯などにも使われている。


「魔法石は買ってきてくれないんだよなー。自分で買いに行かなきゃならないんだよ」

 苦笑する魔術師は、意味のわからない説明をぶつぶつと呟く。要約すると、使うと減っていく魔法石を買いにいくのが面倒で、節約して効果を引き伸ばしているらしい。部屋の魔法灯が暗かったのも節約の為と聞いて脱力する。何か魔法に関する秘密があるのかと思っていた。


 今度は魔術師の腕に抱かれて、階下の部屋に戻った。

「とりあえずここに……おい?」

 魔術師はあろうことか、私をテーブルに置こうとする。テーブルの上に足を載せるなんて、できる訳がない。私は魔術師の腕にしがみつく。


「……僕と離れたくないってことかな?」

 ふにゃりと笑う魔術師に、私は全力で首を横に振る。それは誤解。その誤解は酷すぎる。

「仕方ないなぁ。ここに乗ってて」

 笑う魔術師の左肩に乗せられた。……大きさなのか角度なのか、妙に居心地がいい。前に伸ばした手と、ぷらりと垂れるしっぽで平衡を保つ。


 今思えば、呪いに掛かってからの一ケ月間、侍女たちに身支度も全て世話になっていたけれど、私が視線を投げるだけで動いてくれたというのは、長年の職業的な経験と勘によるものだったのだろう。はっきりと自分の意思を示す方法を考えなければ、誤解されたままに終わってしまう。私は初めて、自分が猫である状況に危機感を覚えた。


 魔術師がぱちりと指を鳴らすと、魔法灯が明るくなって、部屋の全貌が見える。

 ……これは酷い。私は戦慄した。綺麗なのはテーブルと椅子だけ。その他の家具は黒い砂のような埃が積もっている。床は見るのではなかったと後悔した。黒いぬかるみが一面に広がっている。父母と魔術師の足跡、そして私が先程座った後が鮮明に残っている。


 私を左肩に乗せたまま、魔術師が廊下の扉を開けた。

「うわー。これはダメかなー」

 扉の中は掃除用具入れなのだろう。箒やハタキ、モップらしき物が吊り下げられている。

 その、らしき物たちには、虫か動物に食われたような穴があちこちに空いていて、魔術師が手にした途端に、ぱらぱらと崩れ落ちた。木桶は底が抜けている。

「あー。掃除用具も買ってきてもらうかー」

 そう言って、魔術師は裏口の戸を開けて、裏庭へと出た。


 裏庭には、様々な野菜が植えられていて、赤いトマトやキュウリが実をつけている。初めてみる光景に胸が高鳴る。小麦が実っているのは毎年視察で見ていても、収穫される前の野菜を見るのは初めてだった。


 もう少し近くで見たいと身を乗り出したのに、魔術師は野菜から遠ざかってしまう。これは本当に自分の意思を伝える方法を考えなければと思う。


 魔術師は長い木の棒で、地面に複雑な紋様――魔法陣を描き始めた。

「よし。できた」

 満足気な声を上げて呪文の詠唱が始まると、魔法陣の中央の空間がゆらりと歪む。一体、この魔術師は何をしようというのだろうか。


『呼んだか?』

 低い声と同時に、青い髪の男が現れた。ぴったりとした紺色の服に包まれた細身の筋肉質の体は宙に浮いていて、その瞳は白眼のない紺色。――それは精霊の証。私は内心恐怖した。人の姿に近い程、強い魔力を持つ高位の精霊だと聞いている。この精霊は白眼がないというだけで、完全に人の姿。


「あ、久しぶりー。買い物お願いしたいんだー」

 魔術師は呑気な声を上げ、私は驚きを隠せない。

『またか。……俺の最大の失敗は、お前の魔力量と精神の光に騙されて契約してしまったことだな』

 精霊が大きな溜息を吐いた。

「いきなり契約してきたのは、テイライドじゃないか」

 魔術師が微笑むと、精霊が私の顔をちらりと見て視線を魔術師に戻した。

『……お前、こじらせすぎて、ついに女をさらってきたのか』

「さらってないよ。呪いに掛かってるから預かってるだけ」


『厄介な呪いだな。呪いの核は人の命か』

「どこまで見える?」

『複雑な術式だ。闇と変わらない程の濃密さだ。これを解くのか? 俺は触れたくもないぞ』

 精霊に見つめられて、私は震える。怖い。魔術師の左手が、そっと私の背に添えられた。その温かさに安堵する。


「まあ、期限があるから頑張ってみるよ」

『期限? ……解けない時は迷わず捨てろ。これは深入りしすぎると、巻き込まれて死ぬぞ』

「そんなの無理だよ。怖ーい兵士に殺されるよ」

 呪いで死ぬか、剣で殺されるかの二択だと魔術師は笑う。『無理なら捨ててくれて構わない。殺さないようにと父母に言うから』そう言いたいのに、どうすれば伝わるのかわからない。


「でさ。このメモにある買い物をお願いしたいんだけど」

 魔術師の言葉に、精霊が妙に人間くさい笑みを浮かべた。

『……その願いは聞けないな。お前一人では、買い物もせずに平気で餓死しそうだったから、俺はお前が死なないようにと買い物をしてやってた。お前はその女を養う必要がある。お前、女を餓死させたくないだろ? 自分で買い物に行け』

 にやり。精霊は目を細めながら口の片端を上げ、そんな雰囲気の笑顔で笑う。


「そんな! 僕を見捨てるのか!」

 今までふわふわとした笑顔を浮かべていた魔術師が焦りの声を上げた。


『見捨てる。俺を呼ぶなら、買い物以外で呼べ。じゃあな』

 精霊は、私に向かって片眼を閉じてから消え去った。

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