第3話 白猫の呪い

「……えーっと……」

 魔術師は呆然と立ち尽くしている。日が傾き始めて、手に持っていたメモがひらひらと風に飛ばされた。私は仕方なく手を伸ばして魔術師の頬をぺちぺちと叩く。


「はっ。そ、そうだ。野菜に水をやらないと」

 何故か魔術師は、そそくさと野菜畑の方へと歩いて行く。そうじゃない。と言いたいのに、何も伝えられないことに私は動揺していた。どうすれば私の意思が伝えられるのだろう。これまで、本当に考えたこともなかった。


「あー、いい色になったなー。そろそろ食べ時かなー」

 真っ赤なトマトを優しく撫でる魔術師の声は優しい。ぱちりと指を鳴らすと、いきなり畑に水が降った。ぱたぱたと音を立てて野菜たちが水を受けている。


 野菜たちが喜んでいる。私にはそう思えて仕方なかった。水が止むと緑がさらに鮮やかになり、赤いトマトやナス、キュウリに、水滴がきらきらと夕日を受けて煌めいている。触れてみたいと手を伸ばしても、短い猫の手では届くはずがない。


「ああ、これは夕立の替わりなんだ。乾燥しやすい土だから、こまめに水をあげないと乾いてしまうからね」

 私が手を伸ばした意味を、魔術師は違う意味に解釈してしまった。

「今日の分、頂くね」

 魔術師は二つのトマトとキュウリをもいで、裏口から入って廊下を曲がる。


 たどり着いたこの場所は、厨房……なのだろう。レンガの壁は一面にツタが覆っていて、壁に掛けられた錆びた鍋が埋もれている。床を覆う石畳の隙間からは雑草が顔を出し、部屋の隅に草が茂っている。棚机の一カ所だけが綺麗に整頓されていて、片隅には皿やカップが重ねてあった。

 大人一人が入ることができそうな大きな鉄鍋が二つ、大きな焜炉の上にかけられていても、使っている形跡はない。


 白く曇った珍しいガラスが入った窓際には、小さなテーブルと椅子が二つ。片方の椅子には籠や布が積まれている。

 魔術師は私を一旦椅子の上に置き、黒いローブを脱いで、シャツの袖をまくり上げた。水道の蓋を跳ね上げて、流れてくる流水で丁寧にトマトとキュウリを洗う。


 銅色のたらいは金属製。木のたらいしか見たことのない私には、興味深い。

「銅のたらいって珍しいのかな? カビが生えないとかいう話で師匠が町で買ってきたんだけど、カビにくいっていうだけで、普通にカビるんだよねー」

 騙されたかなと魔術師は笑う。


 綺麗に整頓された棚机の上でいつも調理しているらしい。戸棚から出した大きなパンをナイフで四枚薄切りにして、大きなチーズの塊から薄く切る。よく砥がれているのか、切る際には特に力を入れていないように見える。使い込まれたカッティングボードの上でトマトときゅうりが切られた。


 薄切りのチーズは小さな鍋に入れられて、焜炉の火であぶられる。部屋に充満するチーズの匂いが空腹感を刺激する。小さくカットしたパンと、そのままの薄切りパンの上に、溶けたチーズがとろりと掛けられた。


 魔術師は私を膝に乗せて椅子に座った。体を起こして後ろ足で座ると、ちょうどテーブルに顔が出る。

「はい。どうぞ」

 白い陶器の皿の上、小さく切られた赤いトマトとキュウリが盛られている。隣の皿には溶けたチーズを乗せたパン。チーズの美味しそうな匂いより、赤いトマトの匂いに気を取られる。


「ん? 野菜とお皿は、ちゃんと綺麗に洗ってるよ。あと、この水は魔法石で浄化してるから、そのままでも飲めるんだ」

 私がどれから食べようか悩んでいるのを、食べることを迷っていると捉えたらしい。魔術師はトマトを指で摘まみ上げた。


「あーん」

 魔術師の笑顔が優しい。口元に運ばれた赤いトマトは瑞々しくて美味しそうでも、男性に食べさせてもらうなんて考えたこともなかった。羞恥で顔が熱くなる。

「美味しいよ?」

 魔術師の言葉に、勇気を出して口にしてみた。美味しい。生のトマトが果物のように甘いなんて知らなかった。

 夢中で食べるうちに、私はトマトを一つ食べきり、お腹がいっぱいになってしまった。


「あ。しまった。チーズとパンも食べてもらおうと思ったのに。食べられる?」

 魔術師は小さく切ったパンを手に取ってくれたのに、私はもう食べられそうにない。お腹を叩いて、首を振ると通じた。


「水と光の精霊に感謝を」

 魔術師は静かに食事の祈りを唱える。私は猫になってから、食事の祈りを行っていないことに気が付いた。当たり前の習慣を忘れていたことに驚くしかない。


 この国では、誰もが魔力か神力という不思議な力を持って生まれてくる。精霊や魔法を行使する力である魔力と、無から有を生み出す奇跡を実現する神力。

 魔力を持つ者は火・木・土・水・風・光・闇の七つの中から、二種類の属性を持っていることが多い。魔術師の祈りからわかるのは水と光の属性。


 私はこの国では珍しい神力を持っているから、女神に祈りを捧げる。神力を持っているからと言っても、大きな奇跡を実現させるほどではない。カップの水をお湯にしたり、つぼみを咲かせる程度の力。


 食器を片付け終えた魔術師は、私を腕に抱いて二階へと上がった。昼間に通った部屋が魔法灯で明るくなると、山のように積まれた本だらけ。


 一際本に囲まれている場所は、ベッドだった。魔術師は細身で背が高い。ベッドの上にも本が積まれていて、どう見ても足を真っすぐに伸ばしては眠れない。

「ここで待っていてくれるかな。シャワー浴びて来るよ」

 魔術師は私をベッドの空いた場所に置いて浴室へと向かって行った。


 手足を折り畳んでうずくまると、微妙な匂いが鼻についた。あのタオルに比べればマシではあっても、同系統の匂い。シーツも洗っていないのだろうか。タオルやシーツの匂いは酷いのに、魔術師本人の匂いはほとんどしないのが不思議。

 

 匂いに我慢できずに立ち上がる。床を確認すると一階の部屋のような黒い汚れはない。私は床に落ちている布を目掛けて跳んだ。

 足音もなく着地出来たことに、私は満足していた。この猫の体はとても軽い。私は布の上にくるりと丸まって魔術師を待つ。


 浴室から出てきた魔術師は乾いていた。あのタオルは使用していないようで安心する。淡い金髪は背の半ばまで伸びていて、生成色のシャツにゆったりとしたズボンという姿。

「あれ? ベッドに寝ていていいのに」

 魔術師は優しく微笑んで、私を腕に抱き上げる。魔術師の腕は心地よくて、何か抗議しようと思っていたことも忘れた。


 魔術師は、ベッドの上の本の壁に大きな枕を立て掛けて、そこへ背を持たせかけてベッドに足を伸ばす。まさか、この座ったような姿勢で眠っているのだろうか。


 私は膝の上に乗せられた。背を起こし、後ろ脚で座り込む。

「えーっと、セラフィナちゃんって呼べばいいのかな?」

 二十二にもなる女に対して幼子のような呼び方はあんまりだと思った私は首を横に振る。


「じゃあ、セラフィナさん?」

 それでいいと思って頷こうとして気が付いた。そもそも名前を名乗らない相手から一方的に名前を呼ばれたくない。私は首を横に振って、手で魔術師の顔を指す。


「あー、それも嫌なのかー。堅苦しいのが嫌なのかなー。うーん」

 全く私の意図が伝わらない。魔術師の思考は私が望まない方向へと向かって行きそうで、私の思考は硬直しかかっている。

「じゃ、セラフィ?」

 私は頭を縦に振った。これ以上、魔術師に任せたら、一体どんな名前で呼ばれるのかわからない。ここで妥協をしておかなければという一心。


「セラフィ? 可愛いね」

 魔術師の言葉と笑顔に、一瞬思考が飛んだ。可愛いなんて、父母と兄たち以外から言われたことがない。銀の髪に紫の瞳、表情が乏しい〝辺境の氷雪姫〟と揶揄されていた私には、似合わない言葉。

 たとえ名前のことだとしても、胸の奥がくすぐったくなるような、この感覚は……きっと、嬉しいというものなのだろう。


「僕はクラウディオ・ロルカ。師匠はクラウって呼んでたけど……セラフィの好きなように呼んでいいよ」

 魔術師――クラウは少し寂し気な顔をする。名前を呼んであげたいと思うのに、にゃあという声にしかならない。話ができないというのは、本当にもどかしい。


「少し早いけど、今日は寝ようか」

 クラウは私を膝に乗せたまま、指を鳴らして魔法灯を消した。

 暗い室内でも、猫の目は辺りを見ることができる。壁のようにそびえ立つ本が崩れてきたりはしないのだろうかと心配してしまう。

 クラウは優しい微笑みで私の背を撫で続けている。その手つきはとても優しくて温かい。私は、その温かさに安堵して、ゆっくりと目を閉じた。


      ◆


 面倒なことになった。

 僕は本当にそう感じている。


 僕の祖母――師匠のイネスが死んでからの十二年、静かに森の中で暮らす生活が快適で、ずっと引きこもっていた。世界中の魔術師や魔女から大小の依頼は受けてはいても、それらはすべて精霊たちが運んでくる。直接対峙して人と話したのは久しぶりだ。


 ゆっくりと白猫の背を撫でながら、魔力を注いで浸食する呪いを遅くする。艶やかな毛並みは、いつまでも撫でていたいと思わせる程、心地いい。


 セラフィに掛けられた呪いは、徐々に精神に食い込んでいた。このまま放置しておけば、思考が鈍り、半年もすれば精神まで完全に猫になってしまう。他の者に、どうしてこれが見えないのか理解できない。


 水の精霊テイライドがこの呪いを嫌うのは、人の命が核になっているからだ。物語では精霊たちは身勝手で高慢な性格だと描写されることが多いが、それは表面上だ。機会があれば人と関わり合いたいと常に思っているらしい。


 この呪いを精霊の強い魔力で無理矢理解けば、掛けた者へと返るだろう。これだけ濃密で強い呪いなら、掛けた者だけでなく周囲の者も確実に巻き込む。下手をすれば、近親者全員が引っ張られて死ぬ。おそらく相当数の死者がでるとわかっているから、テイライドは手出ししてこない。


「――〝術式展開〟」

 セラフィの体の上に大きなリンゴ程の赤黒い球状の光が出現した。暗い室内を不気味に赤黒く照らし、球の表面には複雑な魔術紋様が動き回っている。

 セラフィが背負う呪いは複雑で濃密だ。人が命を使って織り上げる呪いは強固なものが多くて、これは特別に固い。掛けた人間は、知ってか知らずか強い執着を込めている。


 捨てることも放置することもできない。

 師匠は他人の呪いを替わりに受けて死んだ。誰かが呪いで死ぬところはもう見たくない。


「今日は第一層を解析するか」

 恐ろしい程濃密な呪いは、何階層あるのかすら見えない。解析を重ねて、術の全貌を掴まなければ、安全に解くことはできない。

 渡された〝白猫の呪い〟の手順の中には、術者が七本の白い薔薇の花びらを食べるという、異常な行為が記されている。それは通常なら呪いには関係のない行為だ。


 セラフィはよく眠っている。これも恐らくは呪いの効果だ。眠る間に精神と体が少しずつ、人から猫に作り替えられていく。今の僕には魔力を注いで障壁を作り、呪いが浸食する速度を遅らせることしかできない。


「――第一層〝開示〟」

 赤黒い光球の表面の皮一枚が大きく膨らみ、濃密な紋様が解読できる程に拡大される。

「え?」

 僕はその時、信じられないものを見た。それは師匠が受けた呪いと同じ術式だった。

 あの時、師匠は最初から死ぬつもりで呪いを受け、自分では解こうともしなかった。僕は隠れて解呪を試みて、結局は間に合わなかった。胃が絞られるような焦燥感が沸き上がる。


 次々と階層を掘り下げていく。僕はあの時、第四十七層まで解読した。

「同じだ」

 震える指先で第四十七層目の紋様を辿っていく。これは、何を意味しているのか。

 師匠は白猫にはならなかった。ただ、生きている内にまるで枯れ木のようになり、最期には僕の目の前で砕け散った。

「……師匠は誰の呪いを引き受けたんだ?」

 思い返してみても、その記憶が白く塗りつぶされたように抜け落ちている。


 師匠は解呪で有名だった。最期の呪い以外はすべて解いてきた。依頼内容は魔術師が契約している精霊たちが伝えにくるか、町の情報屋で手紙を受け取っていた。


「町へ行くしかないか」

 師匠は呪いを引き受けた直後に、ほとんどの書類を処分してしまった。僕の手に残されているのは、師匠が趣味で作っていた石けんや化粧品の製法が書かれた帳面だけだ。


「――第四十八層〝開示〟」

 一年という期限はあてにならない。一刻も早く解読して解呪の方法を探さなければ、セラフィが死んでしまう。

 僕は託された小さな温もりを、そっと撫でた。

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