第4話 イネスの石けん
「えーっと、あー、うん。そうだね、行かなきゃね」
私を左肩に乗せ、黒いフード付きローブを着たクラウは、裏庭にある扉の前で行ったり来たりを繰り返している。崩れかけた倉庫の扉を開けることが、どうしてこれ程までに迷うことなのか、私にはさっぱり理解できない。
「ちょっと、ごめん。お手洗い行ってきていいかな?」
昨日も同じ言葉を聞いた気がする。クラウは私をそっと、レンガで出来た柱に乗せた。クラウの胸程の高さの柱は、何かを置く為の台らしい。私は背を起こして後ろ足で座り込む。
『……あいつ、まだ買い物に行ってないのか』
突然現れたのは水の精霊テイライド。片手を腰に、片手で青い髪をがしがしとかき混ぜるように掻いていて、呆れたような溜息を吐く。気さくな精霊の言動が、私の恐怖心を少し和らげる。
そういえば、クラウに預けられてから、もう三日が経っている。
『仕方ない。買い物に行ってやるか……いやいや、ここで甘やかしたら、あいつは一生買い物に行かなくなる……』
あごに親指とひとさし指をあてて、ぶつぶつと呟く精霊は、優しい人なのかもしれない。
『なぁ、お前、あいつに何かねだれ。宝石とか服とか……意味がないな……。何か食べたい物とか……酒はどうだ?』
精霊に問われて考えても、この三日間、石けん以外は特に何かが不足しているとは思えない。野菜がとても美味しいし、チーズがとろけたパンは熱くても優しく吹き冷ましてくれる。パンが少し固くなっているような気がするものの、許容範囲。
『そうだ。牛乳と卵がないはずだ』
精霊が閃いたと指を鳴らした。ひらりと空中に現れた紙片には、パンプディングという初めて見る単語と、固くなったパンに牛乳と卵、砂糖を混ぜたものをかけてオーブンで焼くという手順が書かれている。
『お前、これが食べたいとねだれ。女は甘いものが好きだろう?』
精霊が私の手元に紙片を押し付けてくるので、両手で挟むようにして受け取る。甘いものといえば、はちみつか果物しか思いつかない。そもそも、この国の貴族が砂糖を食べることはない。
「うわっ!」
家の中から、クラウの悲鳴と何か重い物が落ちる音が響いた。
小さな家の中は大小の木箱が大量に積まれている。廊下だと思っていた場所が部屋だと知った時には驚くと同時に、崩れてはこないかと心配していた。
『あーっ! またかーっ! ……行くぞ!』
精霊は、顔半分を手で覆って舌打ちした後、私の首の後ろを掴んだ。衝撃に身を固くしたものの、痛みはなかった。どうやら魔法で私の体重を軽くしているらしい。手にした紙を無くさないようにとしっかりと手で挟むと、ぷすりと音がして爪で穴が空く。
精霊は、勢いよく裏口の扉を開いて二階へと駆け上がる。精霊なら転移できそうなものなのにと思ったけれど、私を連れているからだろうか。
二階の廊下で、クラウが大きな木箱の下敷きになっていた。
『だーかーら、捨てろって言ってるだろ?』
精霊がぱちりと指を鳴らすと、木箱がふわりと浮き上がって、積まれた木箱の上に移動する。ゆらゆらと積まれた箱全体が揺れているのは気のせいだと思いたい。
「でも、まだ使える物が多いし。いざという時に使えるかなーって」
苦笑するクラウが起き上がった。ローブを叩いてホコリを払う。大きさに比べて、軽い箱だったようで、怪我がなくて安心する。
『あー、そうだなー。お前がぐだぐだ言ってる間に、この女が箱の下敷きになって死ぬかもな』
精霊が私をクラウの方へと放り投げ、クラウが顔色を変えて私を両手で受け止めた。
『……前にも言ったろ? 俺はイネスを知らないが、その箱にはイネスの魔法が掛かってる。俺はその魔法が気に入らないから触れたくない。お前が片付けるしかねーんだぞ。わかってんのか?』
精霊の物言いは乱暴で高圧的でも、クラウのことを心配していることがわかる。じっと精霊を見つめていると、精霊が私の視線に気づいて耳が少し赤くなった。精霊の視線が揺れている。いい人だと私が思っていることが伝わって欲しい。
『捨てられないなら、誰かに押し付けろ』
「……うん。わかったよ」
クラウの返事に、精霊は何度も念押しして姿を消した。
「やっぱり町に行かなきゃね」
クラウは私を肩に乗せて、また裏庭に向かった。崩れかけた倉庫の扉に手を掛けて、深呼吸を繰り返している。
「……この扉は、魔法で町に繋がってるんだ」
クラウの言葉に私は驚く。クラウは一際大きく息を吸って、倉庫の扉を開けた。
「師匠の葬儀以来だ」
ぽつりと呟いたクラウは、とても寂し気。私は何を言っていいのかわからなくて、クラウをみつめることしかできない。気持ちが伝えられないことが、こんなに辛いことだとは知らなかった。
これまでの私は誰かに自分の気持ちを伝えることをしてこなかった。屋敷の中では不要だったし、他の貴族令嬢とは違う辺境伯の娘という立場を理解されなくても構わないと、友人を作ることもしなかった。……違う。私は誰かに気持ちを伝える努力も、友人を作る努力も怠っていただけ。
身を乗り出してクラウの頬に顔をすり寄せる。猫になってしまった私には、これが精一杯。
「……心配してくれてるのかな? ありがとう」
体を撫でるクラウの手は大きくて温かい。思考がゆっくりと溶けて消えていく。
「行こう」
クラウが踏み出した扉の外は薄暗い道。灰色のレンガで出来た壁に挟まれていて、とても狭い。
道を抜けて少し歩くと、ベージュ色の壁にオレンジ色の屋根の商店が集まる場所に出た。明るい笑いが響き、威勢のいいやり取りが交わされている。視察では見たことのない開放的な空気に驚く。
店先には、色とりどりの商品が積まれて溢れている。私が普段使っている物とは比較にもならなくても、素朴な品々は目を奪う。
クラウはジルの雑貨店という看板が掛かっている店に入って、緑の髪を結い上げた女性に話し掛けた。
「あー、あー、あのー」
「ん? 誰だい?」
中年の女性は、訝し気な顔でクラウを見上げている。青い瞳が綺麗。
「イネスの弟子のクラウディオなんだけど……」
「クラウディオ!? 久しぶりじゃないか! いい男になったねー。その肩に乗ってる子はあんたの使い魔かい? 可愛い子ちゃんだねぇ」
女性は店主のジルだった。私は使い魔ではないのに、クラウは否定も肯定もしない。理由はすぐに思いついた。使い魔なら、普通は誰も触れようとはしない。
「あー、昔のなんだけど、イネスの石けんをもらってくれないかな」
「イネスの石けん!? まだあるのかい?」
ジルの目がきらりと光ったような気がした。
「うん。もう十五年も経ってるけど、一応使える……」
「何言ってんだい! イネスの石けんは腐らないよ! ある分全部持っておいで!」
クラウの言葉を遮ったジルの勢いは掴みかからんばかりだ。
「あ、ああ、持ってきていいのかな?」
クラウがぱちりと指を鳴らすと木箱が五個現れた。人が入れそうな程の大きな箱には、あの酷い匂いの石けんがぎっしり詰まっている。
「ちょっとー! みんなー! イネスの石けんだよー!」
ジルの叫びで、周囲の店先から一斉に女性たちが押し寄せてきた。
「何ですって!? イネスの石けん?」
「あの伝説の?」
集まってきた女性たちの目が輝いている。
「一人十個までだよ! 代金はここ!」
ジルの叫びの後、女性たちが次々と訪れ、十個の石けんを抱え、代金を支払っていく。呆然と見ている間に石けんが一つ残らず売れてしまった。
「次の入荷はいつになる?」
自分の分もしっかり確保しているジルの目も輝いている。イネスの石けんで洗うと、あらゆる臭いが消えるらしい。特に効くのは加齢臭や体臭で、亭主の臭いに悩む女は多いからねとジルが笑う。
「あ、えーっと。作り方はあるんだけど……作ったことがないんだよね……」
「そうなのかい? そりゃ、仕方ないね。この石けんを大事に使うよ」
クラウの答えに、ジルがあきらかに落胆している。
あれ程までに望まれているのだから、作ってあげたらいいのに。私はそう思いながらも、どう伝えていいのかわからない。ぺちぺちとクラウの頬を叩いて注意を引き、ジルを手で差し、手で四角を描く仕草を何度も繰り返す。
「えーっと。作ってあげればいいってことかな?」
クラウが苦笑する。良かった。伝わった。私は嬉しくなってクラウの頬に頬を擦りつける。
「上手く作れるかわからないけど、作ってみるよ」
クラウがそう告げると、ジルはとても喜んだ。
出来たら連絡するとジルに約束して、クラウは店から離れた。
「……困ったなー。多すぎるよ」
代金として渡されたお金は、クラウが思っていたより多かったらしい。軽くて丈夫な木箱も引取り手がいて、高額で売れた。布袋には金貨も入っている。
「いい匂いの石けんも買えたし、あとは美味しいもの、買って帰ろうか」
クラウの言葉に私は頷く。それだけでは足りなくて、クラウの頬に頬を摺り寄せる。
「くすぐったいよ」
くすくすと笑いながらも、クラウも頬を寄せてきた。背を撫でられると、温かくて嬉しい。
「あ。食べ物を扱う店に行くから、ローブの中に入ってくれるかな?」
歩きながらクラウがローブの首元を開いたので頭から潜り込む。腰にベルトを締めているから、お腹の辺りで止まって、すっぽりと包まれた。
「食べ過ぎでお腹が出てるみたいだなぁ」
クラウが笑う。ローブの上から撫でられると気持ちいい。
「えーっと。卵と牛乳と砂糖だっけ」
クラウは精霊のメモに書かれていたパンプディングを作ってくれるらしい。さまざまな食材を買い込んで、大きな布袋を肩に担いで町を歩く。買い物を見ることができないのは残念でも、声と音だけで想像して楽しむ。
クラウが突然足を止めて動かなくなった。心配になって襟元から顔を出すと、クラウが苦笑する。
「……あの酒場に行きたいんだけど、うーん。ちょっと、ね」
どうやら数件先の酒場に行こうとしているらしい。まだ夕方にもなっていないのに、賑やかな声が聞こえてくる。
行ったり来たりを繰り返すクラウの断片的な言葉を総合すると、これまでの買い物は過去に行った場所ばかりなのでなんとかなっても、あの酒場は初めて行くので勝手がわからないらしい。
「……また今度にしようかな」
行けばいいのにとクラウの胸を叩いてみても、クラウはくすぐったいと笑うだけ。結局、夕方になる前にと理由をつけて、クラウは家へと戻った。
翌日、石けんを作るようにと、クラウに勧めたことを私は後悔することになった。
イネスの石けんの材料の採取が、命に係わるものだとは全く知らなかった。
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