第8話 寂しい呪い
「……今の神官、ちょっと苦手だな」
クラウの呟きに、私は頭を縦に振って同意する。
「町に寄って、何か美味しいものでも買って帰ろうか」
その言葉に嬉しくなった私は、クラウの頬に顔を寄せて擦り付けた。
◆
翌朝、朝食後にクラウが立ち上がった。
「これから床を掃除するっ!」
その宣言に、テイライドが目を丸くした。
『どんな心境の変化だ? 今まで掃除なんてしてなかったろ?』
「厨房とお手洗いだけは掃除してたよー」
そこだけは掃除しないと師匠に物凄く怒られたからねとクラウは笑う。
クラウとテイライドは口元に布を巻いて後頭部で結んだ。テイライドは顔を隠した強盗のようだと思ったのは秘密にしておきたい。
一階の床は黒い泥のようなもので覆われていて、乾いた古布で拭うと真っ黒になる。
『昨日、ブラシとかモップ買って来てただろ?』
テイライドは身の軽さを使って、壁を乾いた雑巾で拭いている。
「汚れが酷すぎるから、まずは古布でざっと拭った方がいいかなって」
『ふーん。げ。壁も汚れてるもんだな』
テイライドが自らが手にしている雑巾を見て、驚きの声を上げる。割と綺麗だと思っていたのに雑巾が黒く汚れている。
「あ、その雑巾も使い捨てにするから、汚れたら新しいのに替えていいよ。贅沢な使い方だけど、布に染み込んだ汚れを洗う時間と労力を考えたら、その方がいい」
床の黒い泥が無くなり、壁も気のせいか白さを増した。
『次はどうするんだ?』
「掃除は上から下へって習ったよ。上から順番にホコリを落として、最後に仕上げの床掃除だ」
二人が掃除をしているのに、私はチェストの上で見ているだけ。意を決して、乾いた雑巾を口でくわえようとして、クラウに首の後ろを掴まれて阻止される。
「ダメだよ。新しい雑巾だけど、口に入れるものじゃないから」
クラウはそう言っても、何もできずに黙って見ているだけというのは心苦しい。掃除はしたことがなくても二人の行動を見ていたので、真似はできると思う。身振り手振りで伝えようとしても、伝わっているかどうかはわからない。
「何か仕事がしたいのかな? よし。セラフィは監督役だ」
クラウは私を左肩に乗せて掃除に戻る。私は肩から落ちないようにとしがみつくしかない。
『おい。白じゃなかったのかよ』
窓を拭いていたテイライドが驚きの声を上げた。白い変わったガラスだと思っていた窓は、単に汚れていただけだった。
「あははー。いやー。僕も久々に見るよ」
窓ガラスが透明になり、一気に部屋の中が明るくなる。太陽の光でみると、綺麗になったと思った場所も、まだまだ汚れていることに気が付く。
棚を拭き、家具を拭き、テーブルを拭く。最後に床を綺麗に拭けば、部屋はすっかり見違えた。厨房を掃除し終えた所で、一日が終わった。
「あー、汚れちゃったなー」
クラウが私をぶら下げて苦笑する。肩にしがみついていたからと言って、ホコリや細かいゴミからは逃れられない。それはクラウも同様。
「やっぱ師匠みたいに、頭にも布を被っておくべきなんだね」
クラウの言葉で、屋敷では使用人たちが掃除をする時には、頭にも顔にも布を被っていたことを思い出す。王城では使用人が掃除をする姿は貴族には隠され、早朝や深夜に行われるものと聞いている。父は無理をしなくていいとして、日中でも掃除を許していた。
「久々にお風呂入ろうかなー」
お風呂という聞いたことのない単語に、私は首を捻る。クラウは笑いながら浴室へと向かった。
「まずは浴槽を掃除しなきゃいけないんだけどね」
クラウの視線は、浴室の隅にある灰色の陶器に向けられている。得体の知れない緑色の水は、溜まったまま。
クラウはいきなり緑色の水に腕を入れた。驚きに身を固くしながら、肩にしがみつくしかない。この水に落ちるのは絶対にお断り。
「えーっと。たしか、この辺に栓が……」
水の中で何かを探していたクラウが、よしと声を上げ、ごぼごぼと水音がし始めた。まるで恐ろしい魔女が煮る鍋のように不気味な泡が浮かんでは消える。
クラウの手には、木で出来た栓があった。常に水の中にあった為か膨らんでいる。陶器の内部は上が灰色、水面があった部分から下はおどろおどろしい緑色。
バケツで水を掛けて、ブラシで洗うと灰色と緑色の陶器が白く変化していく。イネスの特製洗剤を付けた古い布で拭うと、輝く白い陶器になった。
この国では白い陶器は非常に高価なもの。茶器一式だけでも気が遠くなるような価格だというのに、人が入ることができるこの陶器の価値を考えると目を瞠るしかない。
「んー。この栓はもう使えないなー。とりあえず、魔法で塞ぐか」
持っていた木の栓を窓の外に放り投げ、クラウは陶器の端にある穴に手のひらをかざす。水色の光の塊が栓になった。
「泡風呂にしよう」
クラウは浴室の窓辺に並べられている瓶の栓を抜いて陶器の中に入れ、壁の給湯板を跳ね上げた。湯気のたつお湯が一気に陶器に注がれて、泡が立つ。優しい花の香りが浴室に充満する。
「あ、そうか。この国ではお風呂って一般的じゃないよね。これは浴槽。ここにお湯を溜めて浸かるんだ」
クラウの説明が耳を通り過ぎていく。私の興味は七色に輝く泡に集中していた。
湧き出る泡が浴槽から床へと溢れていく。クラウの肩から飛び降り、手で泡に触れると気持ちいい。大きな泡よりも細かな泡の山によりかかると体の重さが無くなる気がする。
「うわっ!」
大きな音に振り向くとクラウが座り込んで泡まみれになっていた。泡で足が滑ったらしい。私はクラウの服を引っ張って、早く脱ぐようにと要求する。
「セ、セラフィ? えーっと、早く脱げってこと? 一緒にお風呂に入っていいのかな?」
クラウが戸惑いの声を上げていても、私はもう泡の中に入ることしか頭にない。頭を縦に振って同意する。
服を脱いだクラウは、腰にタオルを巻く。最初にシャワーを浴びて汚れを落としてから、泡が溢れる浴槽へと浸かる。
「はー。やっぱりお風呂って気持ちいいよねー」
力が抜けていくような言葉に同調しながら、息を吐く。温かいお湯に浸かると、体が解放されたような気持ちになる。
クラウの胸に抱かれながら、溢れる泡と戯れる。手で叩くと泡が割れ、ふわふわと七色に輝く丸い泡玉が空を漂う。こんなに気持ち良くて、綺麗な光景を見たことはない。
「セラフィ、あんまり暴れると疲れちゃうよ」
苦笑するクラウの声も、私の興味を止めることはできなかった。
◆
泡まみれで眠ってしまったセラフィを胸に抱き、その白い猫の体を撫でる。浴槽の栓を抜き、泡を洗い流して体を乾かす。
夜着を着て、セラフィを抱いたまま一階の応接室へと降り、綺麗になった壁と床に白墨で魔法陣を描く。
「浄化」
魔力を注げば魔法陣が水色の光を発して消えた。これでこの部屋は浄化された。深く息を吸えば、清々しい空気で満たされる。
『突然掃除を始めたのはそれが理由か』
背後にテイライドが現れた。これまでは魔法陣で呼ばなければ来なかったのに、最近は頻繁に出現する。あまり人と接した経験のない僕でも、テイライドが心配してくれているのがわかる。
「うん。魔法による浄化は汚れを消せないからね。少しでもセラフィの環境を清浄に保って、呪いの浸食を最大限遅らせる」
この呪いは穢れを含んでいる。穢れは汚れた場所、暗い場所で闇の力を蓄える。清浄な場所や空気の中では浸食が遅くなることが昨夜読み取れた。
「……まだ最下層までたどり着けてないんだ」
呪いの全容を掴まなければ解呪はできない。僕の弱音をテイライドは鼻で笑い飛ばす。
『焦るなよ。焦ると重要な欠片を見落とすぞ』
「心配してくれてありがとう」
僕が素直に微笑むと、テイライドは眉をしかめた。
『精霊が心配なんかしねーよ。契約者の美味い魔力が無くなるのが困るってだけだ』
耳を赤くして視線を泳がせるテイライドの言葉に説得力はない。僕は強い味方がいるような安心感に包まれながら微笑む。
椅子に座り、膝の上にセラフィを載せて呪いを解析する。大きなリンゴ程だった赤黒い光は、解析したことで一回り小さくなった。
『……掃除する暇があったら、昼間も解読した方がいいんじゃねーのか?』
向かいの椅子に座って呪いを見ていたテイライドが呟く。
「それも試してみたんだけど、昼間は呪いの力が弱まるから読み取りにくいんだ。はっきりと読み取れるのは、真夜中だけだ」
呪いの表面の皮一枚を拡大する。常に動き変化する術式を固定して、解読していく。
『……気持ち悪い術式だな』
「僕もそう思うよ」
人の命が核になっているだけではない。強い強い執着が術式の中に読み取れる。
『心が自分の物にならないのなら、猫にして手に入れようってことか』
「要約しすぎだよ。テイライド」
好きな相手を呪いで口が利けない猫にして手に入れたとしても、一年後には術者と二人で死ぬことになる。寂しい呪いだ。
『まさに〝無理心中の呪い〟だな』
「そうだね。……寂しい呪いだね」
一層ずつ術式を解析しながら、僕は師匠のことを思い出していた。師匠は一体、誰の身代わりになったのか。
赤黒く不吉な光を発する呪いは、まだまだ深い闇を抱えていた。
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